カテゴリー「自然・不思議」の記事

2007年10月28日 (日)

丑の刻参り~避けてはいけない歴史の一つ

いつの世も、複雑怪奇な人間関係・・・悩みに悩みぬいた人には、他に解決方法が見つからないのかも知れませんが、この科学の発達した21世紀でも、縁切り寺縁切り稲荷といった所に願をかける人が後を絶たないのだとか・・・。

Usinokokukikunocc 京都は、河原町通りの法雲寺というお寺の片隅にある菊野大明神・・・。
あの小野小町のところに百日間通い、百日目にこがれ死にしたという深草少将が、小町を思いながら、毎夜座った石がご神体なのだそうです。

ほこらの裏側にある小さな穴に、縁を切りたい人の名前を書いた紙を押し込むのだそうで、その願いの暗さのせいか、中もとっても暗かった・・・
(注:私は縁を切りに行ったわけではありません。)

よく似た感じのお参りに、有名な『丑の刻参り』というのがあります。

この丑の刻参りは、「人を呪い殺すために願をかける」という、縁切りよりはるかに暗い祈願ですが、これがけっこう歴史があるのです。

古くは平家物語に書かれています。
以前、『橋の日(8月4日参照>>)という記念日の日にチョコッとご紹介した『宇治の橋姫』のお話です。

Usinokokuhasihimecc 嵯峨天皇の頃(809年~823年)に、夫の浮気に嫉妬した女が、貴船大明神に参詣して7日間籠り「憎い女をとり殺したいので、生きながら鬼にしてください」と願います。

すると、貴船の神は、「鬼になりたければ姿を変えて21日間、宇治川に浸かればよい」と答えたのです。

女は、髪を松やにで固めて五つの角を作り、顔や体を赤く塗って、頭には鉄輪をかぶり、松明を口にくわえて、深夜の都大路を疾走し、宇治川にその身を浸します。

やがて、21日たって、念願の鬼となった彼女は、自分を「あさましい・・・」と、さげすむ者すべてをとり殺したと言います。

室町時代から江戸前期頃に書かれた御伽草子では、かの女性は、やはり7日間『貴船明神への丑の刻参り』をした後、21日間宇治川に浸り、生きながら鬼となった後、憎い夫を殺そうと都に戻ってきた時、平安のスーパースター・安倍晴明によって追い払われ、念願は叶わなかった事になっています。

少しずつ変化した「丑の刻参り」が、時代劇で登場するような手順に定着するのは、江戸時代の頃・・・その方法は・・・

Usinokokumairiningyoucc まず、手製のわら人形を用意。

当日の服装は白衣白帯
髪の毛はシャンプーして油分を落としておきます。
ただし、香油は呪いの効力を上げるのでOK.

頭には五徳(鉄輪)をかぶり、そこにろうそくを立て、首からはを下げます。
黄楊(つげ)でできたクシの歯のほうを口でくわえ、高ゲタをはいて現地まで行きます。

Usinokokumairisyouzokucc

ここで、裸足になって境内に入りますが・・・
実は、もう一つアイテムが必要です。

帯のところに、木綿(一反)の端をくくりつけます。
そして、この木綿が境内の地べたにつかないスピードで目的の木まで行かなくてはなりません。

木綿が一反・・・約11mです。
まさに疾走です。
約11mの布をヒラヒラさせながら、仮に到着したとして、かのわら人形を取り出し、人形を五寸釘を使って、木にカナヅチで打ちつけるのです。

この時、決まった呪いの言葉はありませんが、「アホ!ボケ!」できる限り汚い言葉を大声で吐き続けなければなりません。

しかも、以上の事を、誰にも見られる事なく、7日間続けなくてはならないのです。

・・・てか、木綿で疾走の時点でムリでしょ・・・
そんな事できるなら、とっくに世界を目指してます。

だいたい、高ゲタはいて、山道登ってるだけでテンションだだ下がりです。

しかも、今まで、丑の刻参りの呪いで死に至ったという、ちゃんとした話は一つもありません。
勘違いしてしまいそうですが、よく考えると平家物語も御伽草子も、丑の刻参りで呪い殺したのではなく、自分で殺しに行ってます・・・どっちも失敗してますし・・・。

・・・にも関わらず、先の平家物語や御伽草子の記述のせいか、いまだに、貴船神社の境内では、五寸釘やわら人形が見つかるのだとか・・・。

Usinokokukibunecc 確かに貴船神社の奥の院は、昼なお暗く、丑の刻参りの発祥の地にふさわしい、空気の張り詰めたような雰囲気が立ち込めてはいますが、それは、神々しい厳かな空気に他なりません。
 

貴船神社によれば、この丑の刻参りは、神聖な霊場を汚す行為で、決して、神様が願いを叶える事はないのだそうで、五寸釘やわら人形は、定期的に点検して、見つけ次第、撤去しているとの事。

こうなったら、迷惑行為以外の何物でもありません。
当時の人々の心の内が垣間見える歴史の一つとしては、丑の刻参りはとても興味深いですが・・・。

どうせ神様に願いをかけるのなら、相手の不幸より、自分の幸せに願いをかけてみようじゃありませんか。
 

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このページでご紹介した菊野大明神・橋姫神社・貴船神社への行き方はHPの【平安京魔界マップ】で紹介しています~コチラからどうぞ>>

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2007年10月22日 (月)

究極の魔界封じの都・平安京誕生

「泣くよウグイス平安京」
延暦十三年(794年)10月22日、第50代・桓武天皇平安京に遷都しました

もともと母親の身分の違いから、異母弟の他戸(おさべ)親王に決まっていた次期天皇の座を、謀反の濡れ衣を着せ、死に追いやって勝ち取った桓武天皇

その次には、自分の次に天皇になる事になっていた弟の早良(さわら)親王を、息子に後を継がせたいばかりに、これまた死に追いやってしまいました。

やがて起こる異変の嵐!
地震・飢饉・水害・・・さらに、疫病で四人の妻と母親を次々と亡くし、他戸親王と早良親王の祟りとばかりに恐れおののく桓武天皇が、怨霊から逃げるように、建設途中の長岡京を捨て、この日、平安京に都を遷した事はこのブログでチョコチョコ書かせていただいております。

各関連ページへのリンクです↓
・10月22日:未完の都・平安京>>
・11月8日:平安京、命名の日>>
・9月23日:お彼岸の起源・由来>>

そのおかげで、徹底的に怨霊を排除する究極の魔界封じ都市となった平安京・・・今日は、具体的にどのように魔界封じがなされているのか?ご紹介させていただきたいと思います。

まずは、京都という場所が持って生まれた『四神相応の地』であったという事・・・。

Kitorasuzakutogenbucc 『四神相応の地』四神とは、その字の通り四体の神様。
これは、古代中国に起源のある物で、東西南北の四方向をそれぞれの神=聖獣が守ってくれるというものです。

東は青竜(せいりゅう・色は青)
西は白虎(びゃっこ・色は白)
南は朱雀(すざく・色は赤)
北は玄武(げんぶ・色は黒)

この思想は、飛鳥時代にはすでに日本に伝わっていて、あの高松塚古墳キトラ古墳の石室の壁に、それぞれの壁画が書かれていた事は有名です。

飛鳥時代では、宮殿の四方にそれぞれの聖獣を書いた旗を立てたり、聖獣を示す色をほどこして都の平安を祈っていましたが、平安京までは、まだ、都の立地そのものを四神にゆだねる事はありませんでした。

そして、青竜は河川に、白虎は大路に、朱雀は湖沼に、玄武は山に住むというところから、それらに四方を囲まれた土地は『四神相応の地』とされ、永遠に栄えると言われていたのです。

これは、現在の風水や家相につながる言い伝えですが、風水がそうであるように、単なる占いではなく、統計と経験に基づく理にかなった物である事が、今となっては理解できますね。

北に山があって南に沼があれば、当然、そこに開けた土地というのは、ゆるやかな南斜面という事になりますから、日当たり良好のバツグンの住みやすさ。

さらに山から湧き出る清らかな水をたたえた川は南に向かって走り、飲み水や生活用水となるばかりか、水運も発達させます。

加えて、残った一方向に、別の都市へとつながる道があるなら、交通の便もよろしく経済も発展するに違いないのです。

怨霊を徹底的に封じるためには、立地そのものを四神に守ってもらおうと考えた桓武天皇・・・そうして選ばれた土地が現在の京都だったのです。

北に洛北の峰々を抱えているのは、皆さんもご存知の通り。
東には鴨川が流れ、西には大陸への玄関口・九州へと続く山陽道がすでにありました。
さらに、現在は干拓されたため無くなっていますが、当時は南に巨椋池という大きな湖があったのです。

Heiankyouewsn ↑画像をクリックすると大きくなります

『四神相応の地』を見つけた桓武天皇・・・しかし、これだけでは不安です。
さらに、怨霊を近づけないために、人工の魔界封じをほどこします。

都の東西南北にある巨石を掘り起こし、その下に『一切経(いっさいきょう)という経文を埋め込みました。

その巨石というのは、『磐座(いわくら)という古代の祭壇です。
神社という物が現在のような社殿を持つ形になる以前、古代の人々が、ご神体となる山の上などに、祭祀やお参りをするために、巨石などで造った神社の原型のような建造物・・・それが磐座です。

当時は、すでに古代人の造った磐座が、平安京となる土地の周囲に、いくつか存在していたのですが、その中の東西南北の4箇所にお経を埋めたという事です。

東の磐座は、左京区の大日山にあったという事ですが、以前ここにあった別名・東岩倉寺と呼ばれた観勝寺というお寺が応仁の乱の際に焼けてしまい、残念ながら現在は磐座の面影は無いという事です。

西の磐座は、西京区大原野にある西岩倉山金蔵寺で、ここには現在巨石は見当たりませんが、本堂の下に一切経が埋められているとか・・・。

南の磐座は、下京区石不動院町にある明王院不動・・・かつては、ここに、うっそうとした松林とともに巨石と石仏があったそうですが、現在は京都の街中で、石仏だけがお不動さんとして信仰を集めています。

北の磐座は、左京区岩倉にある山住神社で、ここは現在も完全な形で巨石が残っています。

さらに桓武天皇は、やはり東西南北に大将軍神社を建てて、なおいっそうの怨霊バリアを張り巡らします。

大将軍とは、記紀神話に登場するスサノヲノミコトの事です。
ご存知のようにスサノヲノミコトは、あのヤマタノオロチを退治した英雄神でもありますが、高天原を揺るがした荒ぶる神でもあります。

「目には目を・・・怨霊には荒神を・・・」というワケです。

東には、東山区・・・現在の京阪三条近く大将軍神社
西には、上京区・・・あの北野天満宮の南西側に位置する大将軍八神社。
南には、伏見区の深草にある藤森神社の摂社となっている大将軍社
北には、北区の上賀茂神社から賀茂川を挟んだ西賀茂にある大将軍神社

さらに、まだまだ・・・桓武天皇は、あの鬼の通り道と言われる『鬼門』の方角・・・北東にもちゃんと魔界封じをします。

賀茂川べりに幸神社(さいのかみのやしろ)を置き、鬼門の方角に古くからあった上賀茂神社下鴨神社を大きく建て直します。

そして、この鬼門のラインは、最強最大の霊場・比叡山延暦寺へと続きます。

おお・・・完璧!
・・・と思いきや、桓武天皇はまだ満足できません。
そう、裏鬼門が残ってます。

裏鬼門にあたる南西は、近鉄・竹田近くの城南宮・・・その先には石清水八幡宮

さらに北の守りを鉄壁にすべく、貴船神社鞍馬寺を造営。

都の入り口・羅城門の両脇には東寺西寺(現在は礎石のみです)
今熊野には宝剣を埋めて(剣神社)愛宕山愛宕神社を大改修・・・どんだけ怖いねん!

・・・と、突っ込みたくなるくらいですが、まぁ、そのおかげで、桓武天皇の願い通り、京都は千年の都として栄える事になったわけですから、桓武天皇の恐怖心さまさま・・・って感じで、めでたしめでたしですね。
 

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上記でご紹介している神社仏閣(一部紹介していない史跡もあります)への行き方はHPでご覧ください>>

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2007年8月18日 (土)

秀吉の怨念?大阪城の不思議な話

慶長三年(1598年)8月18日は、あの豊臣秀吉さんのご命日・・・。

その死に際してのモロモロの事は、一応昨年の今日のブログに書かせていただきました(書き足りない部分は多々あるのですが・・・)ので、そちらの【なにわのことも夢のまた夢】>>のほうで読んでいただくとして、今日は、その後の大阪城にまつわる不思議な話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

皆さんご存知のように、豊臣秀吉が築いたあの難攻不落の大坂城は、大坂夏の陣(5月8日参照>>)の豊臣滅亡とともに、炎に包まれ落城し、焼失してしまいました。

その後、徳川の天下となった時、諸大名を総動員して、秀忠家光の二代の徳川将軍ににわたる大工事を経て、寛永三年(1626年)に再建されます。

それは、築城名人の藤堂高虎が指揮をとり、五層六階の天守閣を持つ、豊臣時代をはるかにしのぐ壮大なものでした。

しかし、その権威を誇示するかのような、この徳川の大坂城は、なぜか、たびたび落雷の被害に遭うのです。

特に、万治三年(1660年)6月の落雷は凄まじく、火薬庫への直撃によって城郭の4分の1が吹っ飛び、動くはずの無いような巨大な石を動かし、その被害は城下にまでおよび、大勢の死者を出しました。

もちろん、天下の台所・大阪にある重要な城ですから、その都度に修復されるわけですが、当然の事ながら、「豊臣の怨念」的な噂話が囁かれるようになります。

そして、とうとう寛文五年(1665年)、城のシンボルとも言える天守閣の最上にそそり立つ金の鯱(しゃちほこ)に落雷・・・あの夏の陣での落城を思い出させるように、天守閣は炎に包まれ、無残にも焼け落ちてしまいます。

しかも、この日は秀吉の命日・・・燃え盛る天守を見つめながら、大阪町民は「太閤さんの恨み」を強く感じたに違いありません。

結局この後、徳川の時代に天守閣が再建される事はありませんでした。

その次に天守閣が再建されるのは、昭和に入ってからの事・・・その頃、この大阪城一帯は、軍部の管轄であり、陸軍・第四師団司令部が置かれていましたので、大阪城跡に市民が出入りする事は禁止されていました。

大阪市民は、大阪のシンボルである天守閣の復興を願っていましたが、1930年代と言えば、世界恐慌の真っ只中、軍部の重要な場所を市民の観光の地に提供するなど、考えられない時代でした。

そこで、大阪市民のとった行動は・・・、「新司令部庁舎の建築費と、周辺整備を含めた天守閣の建設費のすべてを、大阪市民の寄付でまかなう」という物でした。

さすがの軍部も大阪人の心意気に負けたのか、昭和六年(1931年)、266年ぶりに大阪の空に天守閣がそびえ建つ事になったのです。
それが、現在の大阪城・天守閣です。

Oosakazyousaikennatunozincc その外観は大阪市民の希望により、黒田家に伝わる『大阪夏の陣屏風』に描かれている豊臣時代の大坂城の絵を参考にして再現されました。

私も、大阪城のすぐ近くで生まれ育ったので、その気持ちがよくわかるのですが・・・いまさら徳川家康さんを怨む気持ちはさらさらありませんが、やはり再建するなら太閤さんの大坂城を・・・と思ってしまいます。

首都が江戸にありながらも、天下の台所として経済の発展を遂げた大阪の町の基礎を作ったのは、やはり太閤さん・・・そこは譲れないんですよねぇ。

そんなこんなで、再建された天守閣。

再建当時はまだわかっていなかったのですが、昭和三十四年(1959年)に発見された『地中の石垣』と、その翌年に発見された豊臣時代の『大坂城・本丸図』によって、実は、現在表面に出ている石垣や城跡はすべて徳川時代のもので、豊臣時代の遺跡は、その下の地中に埋もれている事がわかりました。
(発見の経緯などはHPに石垣の写真つきでupしていますので、くわしくはコチラからどうぞ>>

ですから、現在の大阪城は、奇しくも「徳川の石垣の上に豊臣のデザインの天守閣が建つ」という、本人たちの意図しない夢のコラボとなっているわけです。

よく、大阪城を訪れた観光客のかたが、鉄筋コンクリート造りの現在の大阪城を見て「大阪城は城ではなく、城の形をした博物館だ」とか、「復元するなら、ちゃんとした復元をすればいいのに・・・これならビルと同じだ」と、おっしゃる場合があるのですが、地元民の一人として、声を大にして言いたいのです。

上記の通り、昭和六年当時では、屏風に書かれた外観しかわからず、それ以外の部分の復元はしようにもできなかったのです。
それでも、太閤さんの錦城(きんじょう)を再建したかった大阪市民の熱い思いを察してくださいませ。

ところで、今日の記事のタイトルにもなっている不思議なお話・・・。
秀吉さんのご命日に雷が落ちた・・・では終らないのです。

先ほども書きましたように、徳川が二代目大坂城を建てた寛永三年から、天守閣が焼失した寛文五年まで、わずか40年足らずの間に、詳細な記録が残る上記の2回を含め、かなりの数の落雷が大阪城を襲っています。

・・・にも、かかわらず昭和六年に再建された現在の天守閣は、この76年間、一度も落雷の被害を受けていないのです。

それどころか、このあたり・・・太平洋戦争中には、近くに軍事施設があり、B29の集中攻撃を受けた地域ですが、ご覧のように、その戦災からもまぬがれています。
(すぐそばに爆弾の跡はありますが・・・)

戦争経験者の母は、「焼け野原の向うに、大阪城だけがスクッと建ってたんやで」と言っていました。

大阪市民が建てた豊臣デザインの天守閣・・・あの世の秀吉さんは、どうやら、今の天守閣を気に入ってくれはったようですね。

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Oosakazyousaikencc 現在の大阪城・・・徳川の石垣に、ビル群を従えて・・・誇らしげな勇姿です。
もう少しサイズの大きな写真は【フォトアルバム】にあります。
コチラ>>をクリックしていただくとフォトアルバムが開きます。

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2007年8月17日 (金)

コックリさんの意外な真実

暑い暑い・・・どこもかしこも最高気温の記録塗り替えで、超ダルダル。
こんな日は、ひんやりするコワイ話を・・・と、言いたいところですが、実は「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的なお話です。

それは、「コックリさん」についてのお話・・・

コックリさんと言えば、小中学生の頃には、一度は通るはしかのようなシロモノ・・・。
皆さんも、きっとその頃に一度はやった事があるんじゃないでしょうか?

もちろん、一度と言わず、やった事のある人は、何度でもやった事があると思いますが・・・。

コックリさんとは・・・
テーブルの上に、「はい・いいえ・わからない」「1~0の数字」「あ~んの50音」を書いた紙を置いて、その紙のうえに10円玉を置き、そこに参加者全員の人差し指を置く。
そして、「コックリさん、コックリさん、おいでください」と呼び出した後、何か質問をすると、勝手に10円硬貨が紙の上を動き、文字や数字の上を行き交い、答えてくれる・・・だいたいこんな感じですね。

ほとんどの方がご存知のように、コックリさんにはコワイ話がついて回ります。

硬貨が勝手に動くのは、降霊によるもので、終った後「コックリさん、コックリさん、ありがとうございました、お帰り下さい」と言っても、霊が帰らず、その場にいた誰かに、あるいは全員にとり憑いてしまうとか、使った硬貨を持っていると不幸になるとか、使った紙は燃やさなければ持っている人が自殺するとか・・・。

これは、コックリさんが「狐狗狸さん」と表記される事によって、狐と狸が合体したような、妖怪あるいは下級な動物霊と思われている事による物でしょう。

狐や狸のイメージがついて、日本古来の稲荷信仰や、もともと狐の持つ神秘的な、あるいは霊的な雰囲気から、コックリさんを日本古来の霊的儀式のように思っているかたもおられるでしょうが、コックリさんの歴史は意外にも、そんなに古くはないのです。

もちろん、日本はもともと「記紀神話」という神話を持つ神の国ですし、古来より「神がかり」「憑依」などと言った「降霊術」のような儀式があった事は確かですが、コックリさんは、それらとはまったく別の物なのです。

こういうコワイ話、不思議な話は、本当は不思議なままにしておいたほうがロマンがあって良いのかも知れませんが、本当に怖がって、「何もかも手につかない」なんて人がいたらお気の毒なので、あえて書かせていただきます。

なぜなら、コックリさんの歴史を紐解くと、コックリさんが狐でも狸でもない事が明らかで、まさに、冒頭に書いた「幽霊の正体見たり・・・」ってな感じの話になってしまうからなのです。

それは、明治十七年(1884年)、増田英作という人が留学先のアメリカから、「テーブルターニング」なるゲームの道具を持って帰って来る事に始まります。

もちろん、これには諸説あって、伊豆・下田にやって来たアメリカ人の船員が伝えたという話もありますが、いずれにしても、明治のこの時期にアメリカから・・・というのは、ほぼ確実なのです。

なぜなら、伝わってすぐに、アメリカからやって来たニューゲームとして大流行した記述が残っているからです。

当時は小さな竹を3本組み合わせて土台のような物を作り、その上に飯櫃(めしびつ)の蓋や、お盆などをのせ、さらにそのお盆の上に手をのせて、質問するとお盆が動く・・・という物。

あまりの流行に、人々が加熱しすぎて、ゲームのルールを教える「伝授所」(碁会所みたいなものでしょうか?)や、専用の竹を売る店に対し、警察が取り調べを行う・・・といった騒ぎにまでなっています。

欧米では、この「テーブルターニング」だけでなく、「ウィジャ盤」「プランセット」などと呼ばれる同様の遊びが古くからあって、いずれも本物の降霊術とは一線を画した、遊びとして流行していた物です。

それが、日本に伝わって「コックリさん」と呼ばれるようになったのですが、その語源については、「うなずく」という意味の「こっくり」。
あるいは、土台の竹が「こっくりと動く」という意味の「こっくり」。

・・・などとも言われますが、最も有力なのは、「道理を告げる」という意味で「告理」と呼ばれたというあたりではないでしょうか。

それは、日本に伝わった時、最初に流行したのが「花柳界」・・・つまり芸者さんとのお座敷遊びとして流行したからです。

先の警察沙汰になった一件も、実は京都のお話・・・京都の舞妓さんや芸者さんが名付け親だとしたら、海の向うからやって来たニュー感覚のゲーム「告理」に、「さん」をつけて「告理さん」と呼びそうな気がします。

とにかく、最初の時点では「アノ字」ではなかったコックリさんが、一般に広がるにつれて、いつしか「狐狗狸さん」という当て字がつけられ、あたかも、日本古来の妖怪か動物霊のように、不気味な物、怖い物へと変化していったのです。

では、なぜ?実際に紙の上に置いた硬貨が動くのでしょう?
それは、心理学でいうところの、「潜在意識」

有名なフロイトも人には必ず潜在意識が存在するとしていますし、同じく有名なユングも、人間の心の中は「氷山」のような物で、意識している部分海の上に出ている部分、海の下には、その何倍もの無意識の部分が隠れているとしています。

その無意識が、「潜在意識」と呼ばれる物です。

その潜在意識は、願いをかなえようとする時に、大きく発揮されると言います。

たとえば、大好きな片思いの相手・・・「ふられたらカッコ悪い」と思って、誰にもわからないようにしていたはずなのに、友達にバレちゃった・・・なんて経験はありませんか?

それは、あなたが無意識のうちに、彼(彼女)に自分の良いところを見せようとしていたり、無意識のうちに自分の気持ちを相手に伝えたいと思った事で、いつもしない行動を、やはり無意識のうちにとっているからなのです。

「マーフィーの法則」で有名なマーフィも、「欲しい物があれば、それを手にした時の自分をイメージしなさい。そうずれば、いずれ、それはあなたの物になるでしょう」と言っています。
「人は、無意識のうちに、願望を実現しようという行動を起こす」という事です。
そう、「イメージトレーニング」です。

スポーツの世界で特に重要視されているイメージトレーニング・・・スポーツは、いちいち考えているヒマなどありません。
球技ならボールの動き、格闘技なら相手の動きに対して、瞬時に、無意識のうちに行動を起こさなければ、遅れをとってしまいます。
だjから、イメージトレーニングが重要なのです。

もちろん、コックリさんをやった後の一連の出来事にも潜在意識が働いています。

昔からある「呪い」というもの・・・この呪いの成功例のほとんどが、呪われたほうの人が「自分が呪われている」という事を知っている・・・とういうのがあります。
知っているから、無意識のうちに恐怖を感じ、悪い方向へ行ってしまうのと同じように、コックリさんなる物が霊だと思い込んでいるためにそうなってしまうのです。

以上が心理学での推理。
それと、もう一つ、硬貨が動く事に関しては「人間の身体の構造上の問題」というのも見逃せません。

人間、「長時間、微動だにせず、同じ体制でじっとしている」という事がいかに難しいかは、説明しなくてもわかりますよね。

最近は、エコノミー症候群なんて言葉も耳にするようになって、長時間同じ体制でいる事が身体にとっても、よくない事は充分ご承知でしょう。

まして、10円硬貨という物に、人差し指の先っぽだけつけて、それも、けっこうな圧力をかけているわけですがから、動かないでいるほうが難しいのではないですか?

ですから、「こっちに動いてほしい」あるいは「こっちに動くんじゃないか」という潜在意識と、同じ体制でいる苦痛とが相まって少しずつ動くのだと思います。

もちろん、今日のお話は、の存在を否定する物ではありません。

プロフィールに書いてある通り、私は、不思議な事、未知の世界の事が大好きです。
大好きだからこそ、本当の事とそうでない事をはっきりさせておきたいのです。

ある程度の恐怖によって、人間の脳はアドレナリンを放出し、心地よい気分にさせてくれるのは確かです。
そういう意味で「怖い話=スリル」は必要です。

また、心をおだやかに、安らかな気持ちにさせてくれる宗教も必要です。
そして、たとえ、目に見えない物でも、それらに対して、それ相当の報酬が生まれる事は当然の事です。

ただ、やたらと人の恐怖心をあおり、半ば脅かして、高価な物を買わせたり、法外な鑑定料を取ったり・・・という類のものが、あまり好きではないだけです。

もちろん、今日のお話を信じる、信じないも、読んでいただいた皆様しだいでございます。

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Kokuricc 今日のイラストは、
『さぁ、アドレナリンを放出してください』って感じのコワ~イ絵にしてみました。

えっ?まだ怖さが足りませんか?
これ以上は、描いてる私が怖いです~。

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2007年8月14日 (火)

ペルセウス座流星群によせて~平安時代の流れ星

ここ、何日間が話題の『ペルセウス座流星群』

8月13日の昼間が、その極大という事で、本当は昨日に書かないといけない話題なんですが、昨日はお盆のお話を書いてしまいましたし、「極大の前後数日間はバッチリ観察できる」という事なので、今日、流星のお話をさせていただきます。

この『ペルセウス座流星群』は、今年だけではなく、毎年、今頃見られるものなのですが、今年は、極大日の13日前後何日間か晴れが続くと見られる事、同じく13日が新月で、月明かりに邪魔されない事から、ひょっとしたらいつもよりたくさん見られるんじゃないか?という事で話題になっているんです。

『ペルセウス座流星群』彗星と密接な関係があります。
彗星は、地球やその他一般の太陽系の惑星とは、ちょっと違う軌道で回っています(1月14日参照>>)

彗星は細かい粒子の固まりなので、チリをまき散らしながら太陽のまわりを公転します。

彗星の通り道にまき散らされた細かいチリは、何も無い宇宙空間では、その場に漂っていますが、そこに地球が交差する形で近づくと、チリたちは地球の引力に引かれて一斉に地球に向かってくるわけです。

冬場に見られる『ふたご座流星群』というのも有名ですが、要するに、その時期に、彗星がまき散らしたチリの中を、地球が通る・・・と言う事なのです

そして、地球の引力に引きつけられたチリは、地球の大気圏に突入する時、大気との摩擦で、チリは炎となって燃えるため、地上からは、流れ星として観測できるのです。

この流れ星は、地上から見ると、ある一点から放射状に広がって星が流れていくように見え、今回の流星群の場合は、その一点の方向に「ペルセウス座」という星座があるので、『ペルセウス座流星群』という名前で呼ばれるのです。

おっと!天体好きなので、ちょっと興奮して、流星について語ってしまいましたが、このブログは、一応『歴史系ブログ』(のつもり)・・・なので、「昔の人も、今と同じように流星を見ていた」っていうお話をしましょう。

それは、あの清少納言『枕草子』にあります。

カキ氷(8月5日参照>>)に引き続きまたまた登場の『枕草子』ですが、その中で「星はすばる・・・」のあの有名な文章に続いて「よばい星をだになからましかば」とあります。

この「よばい星」というのが流星の事です。

「よばい星」「よばい」は、例のあの「夜這い」・・・彼がこっそり彼女の家に忍び込んで○○・・・の夜這いです。

以前、【結婚の歴史】(1月27日参照>>)でも書かせていただきましたように、平安時代の頃の夜這いは、最もポピュラーな愛のかたち・・・決して不純なものではありません。

人が寝静まった真夜中に、こっそりと星から星へ飛んでいく流星を、「星の夜這い」と考えたんですね~。
何か・・・いい表現ですね~星の夜這い・・・

また、あまりに人を恋しい恋しいと思い続けると、夜寝ている間に魂が抜け出して、星になって、彼女のもとに飛んで行く・・・それが流星・・・とも考えられていたようです。

しかし、こんな風にロマンチックな感じばかりだとイイんですが、やはり、別の見方もあったようで、同じ平安時代でも「流星と人魂が同じである」という考え方もあったみたいです。

「流星の飛んでいった方向に死人や不幸が起こる」
(そんなもん、見てる人間の立ち位置しだいやないかい!)

「流星が飛び出した家は、魂が抜け出て飛んでいったのだから、必ず誰か死ぬ」
(家から飛び出すという時点で、何かがおこりそうだ←キミの家はペルセウス座か!)

「火の玉(流星)を見てから3日目に人が死ぬ」
(明日あさってくらい大変やな~昨日けっこうな数の人が見てるやろから・・・)

・・・なんて、それぞれの言い伝えにツッコミを入れてしまいましたが・・・
また、
「流星の青いのは人魂なので縁起が悪いが、赤いのは金魂(かなだま)なので、お金が入ってくる」
などと、いうのもありました。
これは、ちょっと希望的・・・

実際、流星が大気圏に突入するスピードが速いと青く見え、遅いと赤く見えるのだそうです。

しかし、平安時代には、こんな風に不吉な物と扱われていた流星ですが、江戸時代頃からは、なぜか、流星は幸福をもたらす良い物とされるようになってきます。

例の、「流れ星が流れている間に、願い事を3度唱えると願いが叶う」というのは、江戸時代頃に生まれた俗説です。

この頃は「色白、髪長、髪黒」って唱えるのが流行っていたそうですよ。
もちろん、それは、この3つが美人の条件だからですが、それなら「美人」の一言にすれば、あと二つ、願いが追加できるのに・・・って、欲ばりな私は思ってしまいますが・・・

ピークは真夜中、まだ間に合います!
ただ今「金持ち、長生き、元気」と、早口で噛まずに言う練習中!

願い事に、この3つを選んだという事は、もう、「美人」はどうでもいい年齢になってしまったという事なのかしら?

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Ryouseiguncc 今日のイラストは、
こんな風に見えたらいいなぁ・・・という願いを込めて『ペルセウス座流星群』を描いてみました~。

見るコツは、邪魔する光の少ない所で、双眼鏡など使わずに空全体を見渡す感じで・・ヨシ!今から挑戦します!

・・・と、思って外に出たら・・・「雨やん!」
エアコンかけてたので気づかなかった・・・シュン

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2007年8月13日 (月)

お盆の由来~大文字焼きは巨大灯籠の最終形?

今日は、8月13日・・・『迎え盆』
迎え火をして、ご先祖様の霊を迎えて、お供え物を捧げ、盆灯籠をともして、16日にお送りするまで、ご先祖様を祀る、一連の行事『盂蘭盆会(うらぼんえ)の始まりの日です。

この『盂蘭盆』の由来が書いてある『盂蘭盆経』によると・・・お釈迦様の十大弟子の一人・蓮尊者(もくれんそんじゃ)が、その神通力を使って、亡き母が今どうしているかを垣間見た事に始まります。

その時、目蓮が見た母は、餓鬼道に落ち『倒懸(とうけん)の苦しみ』を受けていました。

『倒懸の苦しみ』とは、「逆さづりにされたような苦しみ」という意味で、これをサンスクリット語(梵語)『ウランバーナ』という所から、それを漢字表記した『盂蘭盆』となり、一般的には、略して「お盆」という名で呼ばれるようになりました。

・・・で、目蓮は先ほど見た苦しんでいる母を、何とか救えないものか?とお釈迦様に相談してみますと、お釈迦様は「夏の修行の終る旧暦の7月15日に、僧たちに施し(ほどこし)をすれば、現世の父母は長生きをし、過去七世の父母は餓鬼の苦しみから逃れられるであろう」と、おしゃったのです。

この「仏教の教え」と、日本古来の「先祖崇拝」の信仰が相まって、祖先を祀る事によってご先祖様との精神的結びつきを強め、「現世に生きる者たちえお守っていただこう」という観念から現在の「お盆行事」のような形になったのです。

お寺によっては、『聖霊祭』『魂祭という名称で呼ばれ『盂蘭盆会』『施餓鬼会などの行事が行われたり、閻魔の斎日』(7月16日参照>>)として「地獄図」を掲げて参拝したり、各家ではお墓参りをします。

そして、お盆の各行事は、各家々でおこなっていた個人的な行事から、団体の行事になるにつれて、様々な形に成長していきます。

ご先祖様の霊を迎える『迎え火』は、ある場所では『火祭り』となり、ある場所では、たくさんの灯籠を灯す『万燈(灯)会』となり、たくさんの『提灯(ちょうちん)を灯す所もありますね。

16日は『送り盆』と呼ばれ、今度は帰っていくご先祖様を見送る『送り火』が灯されます。

精霊は、川を下ってあの世に帰ると考えられているところから、送り火の一種として、『灯籠流し』や、お供え物を流す『精霊流し』なども行われます。

もちろん、迎え火と同様の『万燈会も行われ、この万燈会の灯籠が戦国時代頃から徐々に大型化されるようになり、時には2mや3mといった大きな灯籠が作られるようになります。

その最大規模のものが、『京都五山の送り火』・・・通称『大文字焼き』と呼ばれるアレです。
その証拠と言ってはなんですが、「妙」の文字が点火される山の名前は「万灯籠山」「船形」が点火される山は「灯籠山」という名前です。

慶長八年(1603年)の公家の日記には、すでに、五山の送り火の事が書かれていますので、やはり戦国期の灯籠巨大化と密接な関係があるものと思われます。

ちなみに、あの「大」の文字は「寛永三筆のひとり・近衛信尹の筆である」という説が、すでに江戸時代頃から囁かれていますが、コレという証拠になるものがないので、今のところは不明です。

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「五山の送り火」の観賞スポットをとしては・・・・
やはり、
一般に「よく見える」とされている場所にはやはりたくさんの人が詰めかける事になるので、かえって見えない場合もあります。

私の個人的な、見た目の雰囲気で言わせていただくと、やはり「大文字」は一番人気でかなりの人の数です。
北側にある「妙」「法」は比較的人が少なく、よく見えますし、二つ並んでいるので、とっちかにターゲットを絞れば、かなりいい位置がキープできます。
一番北側の「船形」も、ネライ目で、けっこう間近で見れたりします。

五山全部見るには、京都タワーやホテルの最上階という事になりますが、どこも予約制なので、今からではちょっとムリでしょう。

最初に点火される大文字から順番に「自転車で回れば何とか・・・(若者がよく考える方法)」なのですが、これは遠目のチラ見で、しかも常時全力疾走してギリ間に合うか合わないか?なので、見たという実感がないばかりか、人も車も多く、危険きわまりない行為なのでやめましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・

ところで、ご先祖様が帰る時、「このまま帰るのは寂しいよ~誰かついて来て~」となって、あの世へ道連れにされるかも知れない・・・という考えがあるのをご存知でしょうか?

その発想から生まれたのが『盆踊り』だと言われています。
精霊が寂しがらないように、できるだけ賑やかに、ワ~ッと騒いで、踊って、ヤンヤヤンヤのドサクサに紛れて帰っていただく・・・というのです。

ですから、昔の盆踊りは、各家々から出てきて、町内の道を列をなして踊りながら、近くの川まで行き(先ほどの川から帰るという事から)、そこで賑やかな雰囲気のまま「さよなら」をするのです。

それが、いつの頃からか、町内を列をなして踊る徳島「阿波踊り富山「風の盆」ような『行列踊り』タイプと、真ん中に櫓(やぐら)を組んで、輪になって踊る『輪踊り』タイプに枝分かれしたのだと思います。

確かに、「風の盆」胡弓などを使って幽玄な感じがしますが、大抵の盆踊りは太鼓三味線(河内音頭はエレキギターも登場)を使ったかなり賑やかな音楽になっています。

やはり、帰っていく霊が寂しがらないためなんでしょうかね。
やがて、それらは庶民の娯楽の場となっていくのです。

もう一つ、空也上人らがひろめた『踊り念仏』が盆踊りの起源とする説もあります。

今でも、京都の町では、お盆の時期に各町内で、『踊り念仏・六斎念仏』という民俗芸能がいきいきと行われています。
こちらも、やはり太鼓などを使って賑やかに念仏を唱えながら踊ります。
六斎念仏は、お盆を皮切りに、8月いっぱい京都の各地で行われます.。

でも、たとえ、そんな大きな灯籠や大きな火を燃やさなくても、玄関前でそっと灯す心のこもった送り火で、ご先祖様は満足して帰ってくれるものだと私は信じています。

私は、私が生まれる前に姉を亡くしています。
ですから、生まれた時から、わが家で行われる一連のお盆行事を見てきました。

子供のとき、幼いながらも感じた、送り火の炎が消える瞬間の寂しさが忘れられません。
「また、来年来てね・・・そして、一年間私を見守ってね」
そんな、ささやかな気持ちが一番大切なのかも知れません。

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Gozanokuribicc 今日のイラストは、
『京都五山の送り火を一望』ってな感じですが、もちろん、こんな風には見えません。

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2007年7月24日 (火)

河童忌なので、河童のお話

昭和二年(1927年)7月24日は、作家・芥川龍之介さんのご命日です。

後世にまで残るすばらしい作品を残して、子供たちに『人生は死に至る戦いなることを忘れるべからず。従って汝らの力の恃(たの)むことを忘る勿(なか)れ。汝の力を養うのを旨とせよ』という遺書を残して、35歳という若さで服毒自殺をはかった芥川龍之介

その代表作にちなんで、この日を『河童忌』と言うのだそうです。

・・・で、今日はそんな『河童』のお話を・・・
(芥川龍之介の話でなくてすいません<(_ _)>)

河童って・・・そう、河童ほど有名な妖怪はいないんじゃないかと思うくらい有名な妖怪。

緑色の身体をして背中に甲羅、頭に皿を乗せ、手足には水かきがついている・・・どこかユーモラスで憎めないそのキャラクターは、日本全国にその伝説を残し、「カワタロウ」「ミヅチ」「カワウソ」「カワランペ」など、180種以上にも及ぶ名前で呼ばれています。

あの柳田国男先生がおっしゃるには「水の神が落ちぶれて妖怪となったもの」・・・なのだそうですが、確かに、神様のように人に幸せを与えてくれるかと思えば、妖怪のようにイタズラをしたり、時には、人を死に追いやる事も・・・。

しかし、こんなに有名かつ全国ネットでそのイメージが定着している河童さんですが、今ひとつそのルーツがはっきりしません。

中国の河の神様「河伯」が日本に伝わったという説が有力ですが、中国には「河伯」の姿がどのようなものなのかは残っていませんし、肝心の「頭にお皿」というのも、どうやら日本独自の物のようです。

また、明治の頃に神戸で総領事となっていたポルトガルの文学者・ベンセスラオ・デ・モラエスは、あの鉄砲伝来以来、様々な物がポルトガルから輸入された事によって、ポルトガル語がそのまま日本語として使われている事に大変興味を持ち、その分類をした本を書いているのですが、その中には、あの有名な「天ぷら=テンペロ」「金平糖=コンフェイト」「煙草=タバコ」に混じって、「河童=カーパ」という単語が書かれています。

・・・って事は、河童はポルトガル語?
ポルトガルにも河童はいるの?

もしかしたら雨合羽=アマガッパの事?
でも、文字は確かに『河童』となっています。
やっぱり、妖怪のカッパの事なんでしょうかね。

河童は、人や馬を水中に引き入れたり、水中で尻子玉(昔、お尻にあると信じられていた玉)を抜いたり、誰かれ無しに相撲を挑んで田畑を荒らしたり・・・。

しかし、トイレに潜んで女性のお尻を触った時には、人間に捕まって片腕を斬られてしまい、「もう、しません」と証文を書かされ、斬られた腕を返してもらう代わりに、その斬られた腕が元通りに治るという妙薬の作り方を伝授したりもしています。

また、「助けてくれたお礼に」と、お酒の湧き出る徳利を置いて帰り、その徳利をもらった酒びたりの男が、もらった途端にピタッと酒を断って、まじめに働き出した・・・なんていう善行の伝説も残っています。

この良い事の伝説は、なぜか九州に多く、九州には妖怪としてではなく、徳の神・安産の神・水難除けの神として河童を祀る神社もあるのです。

久留米水天宮には、その近くを流れる筑後川に住んでいた河童の総大将が、水天宮の祭神にさとされ、イタズラをやめて神様の子分になった・・・なんていう伝説も残っています。

ちなみに、水天宮の祭神って、源平の壇ノ浦の合戦で、海のもくずとなった安徳天皇(3月24日参照>>)なのですが・・・神代の昔の伝説ではなく、けっこう最近の話なんですね~と思ってしまいました。

もう一つ。
門司天疫神社には、海御前(あまごぜん)という女性の河童の神様が祀られているのですが、実はコチラも壇ノ浦の平家関連のお話です。

壇ノ浦の合戦に敗れ、やはり身を投げた能登の守教経(のりつね)の奥さんが、死後、童の総元締となり(なぜ?)、河童のイタズラをやめさせたため、河童の被害が激減した事から、この地方の人々が感謝して、神と崇めたのだそうです。

こうしてみると、やはり河童は妖怪というより神様に近いような気がしますね。

河童が「キュウリ好き」(お寿司のカッパ巻きの由来になった)というのも、水神信仰と結びついている証拠ですし、水霊が嫌う「金物」を河童も嫌うという事なので、どうやらと河童は水神様の子供(童)いうのが、本当の姿なのでしょうね。

イタズラは、子供ゆえの「若気の至り」ってとこでしょうか。

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Kappacc 今日のイラストは、
かわいい『河童ちゃん』を書いてみました~。

天気の良い日は「甲羅干し」って感じで・・・。

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2007年7月 9日 (月)

異常気象と富士山信仰

慶長二十年(1615年)7月9日、江戸一帯に雪が降るという異常現象がありました。

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現在、気象庁に残る正式な観測記録での、最も遅い時期に降った雪は、昭和十六年(1941年)6月8日の北海道・根室での観測記録です。

太平洋戦争の勃発した年ですね・・・何やら因縁めいた物を感じてしまいますね~。

異常気象というと、本来は科学で割り切れる物。

きっと、どこかにその原因となる物があるはずなんですが、今現在でも異常気象と悪い出来事を、つい、結びつけてしまいますね。

この科学が発達した現代でもそうなんですから、江戸の人々は、「驚いた」というより「恐怖」を感じた事でしょうね。

旧暦では、慶長二十年6月1日
新暦になおして、1615年の7月9日ですから、まさに今の・・・夏のこの時期に、江戸一帯に雪が降ったというのですから・・・・。

1ヶ月前の5月の始め(新暦では6月4日)、あの大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした(5月8日参照)ばかりの徳川幕府・・・夏の陣のページにも書いたように、この頃にはすでに、豊臣秀頼生存の噂もチラホラ出始めた頃。

さすがの徳川幕府のサムライも、大江戸の町民たちも、恐怖におののいた事でしょう。

それを裏付けるかのように、すぐさま本郷(東京都文京区)富士神社が建立され、毎年6月1日に例祭が行われるようになったのです。

雪が降ったから、富士神社・・・
天変地異と富士山信仰・・・

実は、「富士山の神様は女神なので、女性が富士山に登ると天変地異が起こる」という伝説があって、長い間、富士山は女人禁制だったわけで・・・

天変地異が起こる→富士山の神様怒ってる→鎮めるために富士山に参拝しなくちゃ→でも、江戸から遠くていけないわ→富士神社建立という事なのでしょうね。

その富士山の女神というのは、天孫降臨のニニギノミコト(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)と結婚するコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売・木花開耶媛)

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ある日、サクヤヒメが日向の国の海岸を歩いていた時、ニニギノミコトがその美しさに一目ぼれ。

そして、いきなり「ボクは君を妻にして、一緒に寝たいんだけど、どう?」と、直球にも程がある誘い方で彼女に猛アタック!

「あの・・・お父さんに聞いてみないと・・・」とサクヤヒメ。
(そりゃぁ、そうやろ!いきなりOKするワケないがな!)

・・・で、早速、世の男性諸君が、皆、経験する緊張の一瞬。
「娘さんを、ボクにください」
と、父親のオオヤマツミノカミ(大山津見神・大山祇神)にご挨拶に行ったところ、メッチャ喜んだオオヤマツミさんは、「姉のイワナガヒメ(石長比売・磐長姫)も・・・」と、姉妹ふたりともをお嫁さんに出しちゃいます。

しかし、このイワナガヒメがメチャメチャブサイクだったため、ミコトはサクヤヒメだけをそばに置いて、イワナガヒメを実家に送り返してしまいます。

実は、イワナガヒメにはその名が示す通り、岩のように頑丈に末永くという意味が込められていました。
しかし、そのイワナガヒメを返し、サクヤヒメだけを手元に置いたニニギノミコト。

イワハガヒメは「あなたの子孫は、きっと花が散るようにはかない命になる事でしょう」
と、捨てゼリフを残して去って行きます。

かたや、サクヤヒメは一夜にして妊娠し、即日出産のきざし・・・。
当然のごとく
「それ、オレの子とちゃうんちゃうん?」
と疑うミコトに、
「そんな疑うんやったら、、ウチが出産する時、産屋に火つけたらええがな!ホンマの神の子やったら、焼けんと無事に生まれて来るさかい。ウチの潔白、証明したるっちゅーねん!」
と、いきまくサクヤヒメ。

はたして姫は、ホデリノミコト(火照命)ホスセリのミコト(火須勢理命)ホヲリノミコト(火遠理命)の三人子供を、無事に出産します。

長男のホデリノミコトは海幸彦、末っ子のホヲリノミコトは山幸彦で、このお二人の昔話は有名ですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、記紀神話ではこんな風に登場するコノハナサクヤヒメ。
山の神であるオオヤマツミの娘である事。
美しい姿かたち。
出産の時に火を鎮めた。
・・・というところのイメージから、富士山の神様となったのです。

「富士山を崇拝する」という信仰は、あの修験道の始祖・役小角(えんのおづね)が始めたとされていますが、本格的になったのは中世の頃からで、室町時代の末期・戦国時代の頃から登山が盛んなり、東国一帯に、その信仰が広がっていきました。

まずは、麓と山頂にサクヤヒメを祀る神社が建てられ、浅間(あさま)大神として崇拝されるようになります。

「あさま」という言葉は信州の浅間山、伊勢の朝熊(あさま)に代表されるように火山と何かしらの関係のある言葉。

それが、後に仏教の浅間菩薩(せんげんぼさつ)と一緒になって、いつしか浅間(せんげん)神社と呼ばれるようになります。

戦国時代頃から、盛んになった富士登山。
しかし、富士山は日本一高い山ですし、先ほども書いたように江戸からはけっこうな距離で、登山するには7日ほどかかり、しかも途中には、厳しい箱根の関所があります。

関所を越える通行手形も、申請すれば誰にでも出してくれるという物でもありませんから、一生に何度も行けるものでもありません。

それで、あの雪の日以降も、ますます盛んになる富士山信仰で、「登りたいけど登れない」という人のために、江戸市中に浅間社を建てて、境内には富士山の溶岩でミニチュア富士山を造って、その小山に登れば参拝したと同じ事とされたのです。

江戸の各地に造られたミニ富士山では、旧暦の6月1日に白衣に身を包み、金剛杖をついて、「六根清浄」と唱えながら、小山に登って登拝したのです。

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Konohanasakuyacc 今日のイラストは、
やはり『木花之佐久夜毘売』で・・・

やっぱ、一目見て「寝てみたい」と思うんだから、色っぽくないと・・・と思って色っぽく書いてみました~。

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2007年7月 7日 (土)

星月夜の織姫~七夕に寄せて~大阪・池田の民話

7月7日・・・やっぱり今日は『七夕』のお話ですかね~。

昨年の今日は、古代には七夕祭りと格闘技大会がセットになっていて、この夜に日本最古の格闘技が行われた事を書かせていただきました~
【七夕の夜に日本最古のK-1ファイト】へはコチラからどうぞ>>>

もちろん、七夕の由来と言えば例の織姫彦星のお話・・・
「天帝の娘・織女が天の川のほとりで、毎日まじめに機織をする姿を見て、川の西に住むこれまたまじめな牽牛と結婚させた所、恋にうつつをぬかし、まったく機織をしなくなってしまったため、怒った天帝が織女を川の東に連れ戻し、年に一度の七夕の夜にだけ会う事を許した」
というのが一般的なお話です。

この伝説が、古墳時代にやってきた大陸からの渡来人たちによって日本に伝えられ、ナヌ(ノ)カノヨ』というお祭りになって宴を催すようになり、セットで格闘技も行われるようになったのが七夕の始まりです。

「七夕」と書いて「タナバタ」という名称になったのは平安時代の頃からで、あの笹飾りは江戸時代になって登場します。

門戸に立てた葉竹に、歌などを書いた短冊や、帳面や筆、算盤(そろばん)や硯・・・って笹折れるがな!と、思ったら、算盤や硯は張り子の造り物を飾っていたそうです。

寺子屋などでも、弟子たちが、五色の色紙に詩歌などを書いて供えた・・・というように、本来「字がうまくなりますように・・・」というのが、七夕に願う願い事だったのです。

このように、七夕の行事として詩歌を献上する・・・という所から、7月の和風月名を『文月(ふみづき・ふづき)と呼ぶようになったのだとか・・・。

・・・で、今日は、七夕の夜にふさわしいだろうと思い、大阪の池田市に伝わる民話・「星月夜の織姫」いをご紹介させていただきます。

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今から500年ほど昔、摂津の国豊島郡(くにとしまごおり・現在の池田市・豊中市・箕面市あたり)の大広寺というお寺に牡丹花肖栢(ぼたんかしょうはく)という歌人がいました。

ある日、肖栢は友人宅での歌会の帰り道、いつもは通り過ぎる猪名野(池田市)五社神社でしたが、この日はふと境内にある古墳を覗いてみたくなり、立ち寄ってみる事にしました。

このあたりは「秦郷(はたごう)と呼ばれる梅の名所で、かつて(5世紀頃)は渡来人・秦氏の治める土地で、神社の境内には、日本のソレとは違う変わった形の古墳があって、「誰の古墳かは知らないが一度調べてみたいもんだ」と普段から思っていたのです。

神社の林を抜けて、古墳の入り口にやって来て、腰をかがめて古墳にもぐりこみます。

古墳の中は、真っ暗で何も見えず、ピタピタと水のしたたる音のみがして、何やら死の世界へ閉じ込められたような、ちょっと身震いするような・・・

やがて、水のしたたる音が、ハタハタ・チキチキパタンというリズミカルな音に変わっていったかと思うと、肖栢の顔の上を薄絹がフヮッとなで、何やらかぐわしい香りが漂い、気づくと目の前に、あざやかな薄物をまとった美女が二人立っているのです。

「何者じゃ?」
「私たちは、応仁天皇さまの昔、百済(朝鮮)の国から参りました呉織
(くれはとり)綾織(あやはとり)と申す者でございます」

肖栢は、その名前に聞き覚えがありました。
今いるこのあたりの秦郷を治めていた秦氏の始祖とされる織姫の名前です。

肖栢は、日本人は渡来人たちに、機織をはじめ染色、鏡や石や太刀の細工、船の造り方などたくさんの技術を教わったにもかかわらず、最近は、渡来人を帰化人としてさげすむ者が数多くいる事に、常日頃から少し腹立たしい思いがしていたのです。

彼女たちは、そんな気持ちを持っている肖栢にある願い事があって現れたのでした。

「どうか、私たちの話を聞いてくださいませ・・・。」

昔・・・彼女たちが、織姫として仕事をしていた頃。
ある夏の日、天子(天皇)さまに捧げる布を朝までに織り上げるよう命令が下ったのです。

彼女たちは一生懸命織り続けましたが、夜になってもまだ、仕上がりません。

あたりは真っ暗になって、とうとう糸を織る手元も見えなくなって折り続ける事ができなくなりましたが、明日の朝までに仕上げなければ、咎めを受ける事になるかも知れません。

「どうしようか?・・・」
と、悩んでいる時に、近くの五月山の上をつっつ・・・っと星が流れるのが見えました。

流れ星が消える前に願い事を唱えればきっと叶うという言い伝えを思い出し、思わず彼女たちは「お願いです、布を織り上げさせてください」と、手を合わせました。

すると、真っ暗だった空に、みるみるうちに星が満ちて、満天の星空となって、彼女たちの手元を星が明るく照らします。

星の助けによって彼女らは布を織り上げる事ができたのです。

そんな彼女たちが、星の夜に布を織った織殿(おりどの・機織をする部屋)が、今は、枯葉に覆われ荒れ放題・・・彼女たちの願いは、肖栢に辻ヶ池のほとりにあったその織殿の跡を訪ねてもらい、和歌など、絵などに残して欲しい・・・という物でした。

「どうぞ、お願いしたします」
・・・と、言うと、彼女たちの姿は闇の中に吸い込まれていきました。

「待ってくれ!この古墳は誰の墓なんじゃ?教えてくれ~!」
と、肖栢はあわてて訪ねましたが、その自分の大きな声でハッと我に返りました。

古墳の外に這い出すと、どうやら肖栢は、長い時間眠り込んでいたようで、あたりはもうすっかり明るくなっていました。

何かに導かれるようにフラフラと歩き出した彼は、梅林を越え、川のほとりを下り、呉織に聞いた辻ヶ池のほとりにやってきました。

すると、岸辺を覆うように生えた葦(アシ)の茂みの中に、何やら光る物が見えます。

身体さえ隠してしまうような葦をかきわけ、そこに近づいてみると、大きな石が横たわっています。
表面のドロをぬぐい落とすと、かすかに「星御門」という文字が見てとれます。

「そうか・・・ここが一夜で白妙(しろたえ)の布を織り上げた織殿か・・・。」

肖栢は、葦に風がそよぐのを感じながら・・・「ここを星御門と呼んで、渡来の織姫たちの事を、後の世の人に伝えよう」と心に決めたのです。

その場所は、今も池田にあるという事です。

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Hosidukiyonoorihimecc 今日のイラストは、
「星月夜の織姫」にちなんで、『満天の星空に故郷の大陸を思う織姫』を書かせていただきました~。

衣装は高松塚古墳の飛鳥美人で・・・。

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2007年5月27日 (日)

百人一首に隠された暗号

文暦二年(嘉禎元年・1235年)5月27日、友人の宇都宮頼綱に依頼され、藤原定家が自ら選んだ和歌百首を色紙に書いて嵯峨の小倉山荘の障子に貼ったと記録されている事から、この日が『小倉百人一首』が完成された日という事で、今日5月27日は『百人一首の日』なのだそうです。

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ご存知、『小倉百人一首』は1番の天智天皇から100番の順徳天皇まで、約600年間に生きた百人の歌人の歌を一首ずつ色紙に書き、同じくその歌人の肖像画をを添えた物ですが、肖像画も含め、最初から百首であったのか?どうかは様々な異説が存在し、確かな事はわかっていないようです。

ただ、1400年頃(室町時代)には、すでに『百人一首』という名前で呼ばれており、和歌のお手本として尊重されるようになっていました。

やがて、宮中や大名の大奥などで遊戯として用いられるようになり、江戸時代に入って上のと下の句を分けた「かるた遊び」が行われるようになって、広く一般庶民にまで流行し、その遊びは現在も受け継がれています。

歌集としての『小倉百人一首』は、室町以降、その形式をまねた『新百人一首』『続百人一首』などの歌集が発表されますが、いつの時代も、最も古いこの『小倉百人一首』が好まれ、現在でも単に『百人一首』と表記した時はこの『小倉百人一首』を指しているほど有名です。

ところで、この『小倉百人一首』については、以前から、様々な謎が指摘されてきました。

それは、何と言っても、この百首の歌の選びかた・・・この百首の中には、学者として歌人として、『歌道』という物を確立した才能を持つ藤原定家が選んだとは思えないような駄作の歌も含まれているのです。

そして、もう一つ、何度も同じ言葉・同じ情景の歌が含まれている事・・・この同じ言葉・同じ情景というのは、後々「カルタ遊び」として、おもしろくなるゲームの要素にはもってこいなのですが、定家が後の時代の遊びの事を考えて選ぶはずもないわけで、さらに謎を大きくしてしまうのです。

そんな中で、正史とは違うこんな逸話が残っています。

・・・・・・・・・

藤原定家の才能に最初に目をつけたのは、第82代天皇・後鳥羽上皇でした。

当時の学者・歌人といった人たちは、権力者にいかに気に入られるかで、その出世の道が開かれるわけですから、自分の才能を高く評価してくれる後鳥羽上皇を定家も敬愛し、それに答えて上皇も彼を取り立てる・・・という事が多々ありました。

そんな親しい関係にあった二人ですが、ある日些細な事でケンカをしてしまいます。
それは、親しいがゆえの、つまらないケンカでお互いが「すぐまた仲直りできるだろう」と、たいした事ではないと思っていたのです。

ところが、お互いがつまらない意地をはっている間に後鳥羽上皇はあの『承久の乱』(ブログ:5月14日参照)を起こしてしまうのです。

つまらないケンカ別れが永遠の別れとなってしまいました。
後鳥羽上皇は、そのまま謀反人として隠岐へ流罪の身となります。

幸か不幸か、ここしばらく上皇と接触していなかった定家は、その後も宮廷歌人としての地位を確保できる事になります。
・・・が、しかし、それは今後、上皇と連絡をとれば、仲間とみなされて処分されるかも知れないという危険もあるという事になります。

「あれほど仲が良かった自分からの連絡がない事を、上皇はどのように思っているのだろう」という不安にかられながらも、やはり定家も現在の地位を失いたくはありません。

やがて、怨みを抱いて隠岐に幽閉されている上皇の「生霊」の話や、怪奇現象の話が噂されるようになります(ブログ:7月13日参照)

そして、ついにある日、定家のもとへ「後鳥羽上皇が亡くなった」というニュースが飛び込んで来るのです。

その話を聞いた定家は、意を決したようにスクッと立ち上がり、なにも言わず山荘にこもったのです。

何週間かして、人前に現れた彼の手には、一首ずつ和歌が書かれた百枚の色紙があった・・・それが、『小倉百人一首』だったというのです。

・・・・・・・・

ですから、この話でいくと、『小倉百人一首』は秀歌を集めた歌集ではなく、隠岐へ流され非業の死を遂げた後鳥羽上皇に捧げた歌集だったという事になります。

もちろん、これは仮説です。
第一、先ほど書きましたように『小倉百人一首』ができたのは、文暦二年(嘉禎元年・1235年)となっていて、後鳥羽上皇が亡くなったのは延応元年(1239年)という事になっています。

ただ、やはり曲げられない事実として、「おかしな歌の選び方」という謎があるのも確かです。

くりかえし登場する同じ言葉・同じ情景というのも、『袖しぼる』『袖ぬらす』といった「泣き(涙)をイメージする言葉や、『舟』『船出』『旅立ち』、また『海』『海辺』といった「島流し」を連想させる物も多く登場します。

また、実際に隠岐へ流罪の身となった小野篁(ブログ:12月15日参照)の別れの歌もあったりしますが、ただここで、関連のある歌をピックアップして並べても「なんだかなぁ」って感じなので、興味のあるかたは、お手持ちの百人一首を、あらためてそういった観点からウラ読みしてみてくださいませ。

違う目で読み直してみると新しい発見があるかも知れません。

ただ、百人一首には、後鳥羽上皇の歌と、御本人・藤原定家の歌も収められていますので、お二人の歌は一応ご紹介させていただきます。

まずは、後鳥羽上皇の歌・・・
♪人も惜(お)し 人も恨めし 味気(あぢき)なく
 世を思ふゆゑに もの思ふには♪

「今、思えば世の中には愛すべき人も憎い人もいるなぁ」

そして、定家の歌・・・
♪来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに
 焼くや藻塩
(もしお)の 身もこがれつつ♪
「松帆の浦の夕なぎで、藻塩を焼く(塩を精製する)火のように身をこがして、来ない人を待っている」

う~ん、確かに、ウラの意味があると言われればあるような気がする歌です。
定家が海辺で待ってるのは恋人とは限らないわけですし、(上皇が)流罪が解かれて帰って来るのを待ってるとごじつける事もできます。

やはり、定家自身が歌の選び方について何も語ってはくれない以上、この謎が解ける事はないのかも知れませんね。

ただ、もし『小倉百人一首』という歌集が、本当に後鳥羽上皇の鎮魂のために編集されたのだとしたら、古からの数ある歌集の中で、最も人々に親しまれ、長く愛された事で、少しは上皇の魂も癒されたのではないかと思います。

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Hyakuninissyucc 今日は、
おなじみのカルタの『百人一首』を絵にしてみました~。

わが家の百人一首は、ほぼ9割「坊主めくり」用に使用しています。

百人一首をカルタにする事を思いついた人もスゴイが、「坊主めくり」のルールを考えた人もスゴイと思う・・・坊主と姫と殿の数のバランスが絶妙だ!

「坊主めくり」と言えば「三枝の国盗りゲーム」を思い出すなぁ~。

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2007年4月25日 (水)

天平の陰陽師・吉備真備

天平七年(735年)4月25日、遣唐使として唐に渡っていた吉備真備が帰国し、持ち帰った唐の書物などを聖武天皇に献上しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

吉備真備(きびのまきび)・・・彼の名前は、あまりご存知ないかも知れませんが、陰陽師・安倍晴明や、源義経・武田信玄が持っていたという噂の兵法書・虎の巻・・・なんていうのはご存知ですよね。

その、陰陽道の知識や兵法の知識を中国から持ち帰り、日本に広めた第一人者がこの吉備真備なのです。
彼が持ち帰った陰陽道の秘伝書は安倍晴明に伝わり、『虎の巻』は鞍馬に伝わり、義経が・・・信玄が・・・というわけです。

そんな吉備真備は、その名前が示すように、現在の岡山県、吉備の国の出身。
道朝臣圀勝(くにかつ)という下級官人の子供として生まれ、ご多分にもれず大学で学問に励みます。

その後、霊亀二年(716年)、23歳の時に入唐留学生に選ばれ、翌年遣唐使として唐に渡ります。

そして、唐で儒学・律令・礼儀・軍事などを学んで、13年後の天平七年(735年)に帰国し、今日、4月25日に持ち帰った書物などを献上。
その功績で、「正六位下」という位を授かり、大学助に任命されます。

その後、同期で唐に留学した親友・玄昉(げんぽう)とともに徐々に政治手腕を発揮していきます。

しかし、順調に出世街道をまっしぐらと行く真備でしたが、当時の最高権力者・藤原仲麻呂とは、なぜかそりが合わなかったのです。
そのため、天平勝宝二年(750年)から十年間、筑前や肥前といった地方勤務を命じられ事実上、左遷されてしまいます。

やがて、天平宝字八年(764年)、「孝謙上皇+道鏡」VS「淳仁天皇+藤原仲麻呂」の皇位継承争いで、最高権力者の座を追われそうになった仲麻呂が反乱を起こします。(ブログ:9月25日参照)

その時に中衛大将として乱の鎮圧に大活躍した真備は、勲二等を授けられみごと出世街道に復帰。
称徳天皇(乱に勝利した孝謙上皇がもう一度天皇に復帰)道鏡の政権下で、異例の出世をしていきます。

天平神護二年(766年)には右大臣、さらにその3年後には正二位に・・・この時、真備の上には、法王の道鏡と左大臣の藤原永手がいるのみ・・・政界3番手の実力者となります。
奈良時代には、学者として出世する人がほとんどいなかった事を考えると、彼がいかに優秀であったかがわかります。

結局、神護景雲四年(770年)に称徳天皇が亡くなり、道鏡が失脚すると、彼も右大臣の職を辞めますが、その時、真備は76歳・・・もう現役を貫き通すのは充分でしょう。

唐の文化を深く吸収し、律令制度に儒教の教えを組み込みながら整備した真備の政治手腕は、歴史的に見てもかなり評価できるでしょう。

・・・と、ここまでは真備の表の顔。
実は、彼の陰陽師としての顔を垣間見せてくれる、中国でのエピソードが残っています。

「遣唐使として唐に留学中の頃、真備が優秀なのを妬んだ唐人学生が、「鬼が出る楼」に彼を閉じ込めました。
しかし、その鬼の正体は、かつてその楼で餓死した安倍仲麻呂の怨霊で、その怨霊と意気投合した真備は怨霊から様々な秘術を教わります。

そして、その秘術で、膨大な史料を暗記したり、囲碁を360手先まで読んでみせたり、太陽と月を封じて世界を暗闇にしたりしたので、唐人学生たちは負けを認めて楼から出した。」

・・・と、いうのですが・・・オカシイ・・・。
真備と仲麻呂はたしか同じ船で唐に留学したはず・・・つまり二人は同期。
真備が唐で学生として学んでいた頃は仲麻呂も学んでいたはず(ブログ:8月20日参照)・・・生きてんじゃん!

そうなると、帰国してからも呪術師として活躍し、空中を自在に飛ぶ「飛行の術」で人々を驚かした・・・という話も、当然アヤシイですね。

しかし、「陰陽道や兵法を日本にもたらした」というのは本当のようですし、やはりその道に長けていたのは事実でしょう。
その事がいつしか神格化されて、逸話に尾ひれがついて、先ほどの「鬼」の話なんかが語られるようになったのでしょうね。

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Kibimakibicc 今日のイラストは、
やはり、今日のタイトル通り『天平の陰陽師・吉備真備』で・・・。

優秀な政治家でもそれはそれでカッコいいのでございますが、やはり陰陽師・・・としたほうがミステリアスでカッコよさ倍増です~

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2007年2月17日 (土)

ノアの方舟・洪水伝説

2月17日は、有名なあの“ノアの洪水”のあった日だそうですよ。

『旧約聖書』「創世記」に書かれた“ノアの洪水があったのは、ノアが600歳(ちょっとムリがある)の時の第2の月の17日だそうで、聖書の年代をそのまま計算すると、紀元前3000年頃の出来事になるそうです。

地上に悪人がはびこる事を「良し」としない神様が、大洪水を起こして人類を滅ぼそうとしますが、神に従順だったノアにだけこの事を教え、方舟(はこぶね)の建造を命じます。

ノアは、高さ13.5m、幅22.5m、長さ135m、約2万tクラスので~っかい方舟に、ノアの家族8人と、あらゆる動物のつがいを乗せて、その日を待ちます。

そして訪れた2月17日、この日から雨は40日間降り続き、150日間水の勢いは止まらず、方舟は嵐の中、木の葉のように揺れ動き、やがてアララト山の上にひっかかって停まります。

使いに出した鳩によって水が退いた事を知ったノアは、家族や動物たちとともに船を出て、神様に感謝。
神様はノアを祝福し、今後、人類を滅ぼすような洪水を起こさない事を約束したのです。

このアララト山は、現在のトルコにあるアララト山だと言われていて、昔から「方舟の痕跡を見た」という人が数多くいます。

Hakobune1cc

ただし、この“洪水伝説”は、『旧約聖書』が初出ではありません。
主人公や、細かい状況に違いはあるものの、よく似た神話は世界各地に残って、その中には、『旧約聖書』以前に書かれたであろう物もあります。

1872年、イギリスの大英博物館に勤務していたジョージ・スミスという人が、その10年前に発見された粘土板の文字を解読し、そこに“ノアの洪水伝説”そっくりの出来事が書かれているのを発見しました。

これが『ギルガメッシュ叙事詩』と言われる物で、古代メソポタミア時代に書かれた物です。
『ギルガメッシュ叙事詩』では、「船はニシルの山に停まった」とされています。

さらに1914年、ペーベルという人が、南メソポタミアのニップルという遺跡から、シュメール語で書かれた粘土板を発見。
ここにも、そっくりの“洪水伝説”が書かれていたのです。

この粘土板は紀元前25世紀頃の物と推定され、紀元前10世紀頃とされる『旧約聖書』より古い事になります。

また、ヒンドゥー教の神話の中にも“洪水伝説”が語られています。
こちらは、人類の祖・マヌが小さな魚を助けて育て、大きくなったその魚を海に返す時、魚が「近々洪水が起こります。その時あなたは船を造って、穀物を蓄え、家畜とともに乗りなさい。そうすれば私が助けてあげます」と言って去っていきます。

やがて、魚の言う通り洪水が訪れ、マヌが船に乗り込むと、その魚が現れます。
縄で船を魚の角につなぎ、ヒマラヤへと運んでもらい、マヌだけが助かる・・・という、恩返し的なお話になっています。

いずれにしても、大洪水によって、一旦時代が終る・・・という構図はおおむね一致している所から、遠い昔、地球規模の天変地異が起こって、その記憶が伝説として語られたのではないか?とも言われています。

ただ、地球規模の天変地異に襲われた・・・というよりは、ある一部の地域に起こった洪水の話が、時が経つにつれ、世界中に広がったと考えるほうが自然だと思います。
 

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2007年1月22日 (月)

冥王星と海王星が・・・

昭和54年(1979年)1月22日、海王星が冥王星の軌道をまたぎ、太陽系の一番外側の惑星となりました。この状態は1999年まで20年間続く事になります。

このニュースを思い出すと、つくづく科学の進歩を感じさせられますね。
今や冥王星は惑星から外れ、太陽系の惑星は8個。
しかも、「海王星・冥王星が一番外側ではないかも知れない」との事。

昔、学校で習ったのは、「水→金→地→火→木→土→天→海→冥」の順。

Taiyoukeicc

それが、冥王星の軌道がゆがんだ楕円形であるため、時々順番が入れ替わる・・・それが、先の20年間だったわけです。

冥王星はとても小さくて暗い星です。
そのため、発見されたのは20世紀に入ってから・・・。

そもそも天王星の軌道が、かなり気まぐれな事から、「おそらく天王星の外側に、軌道を狂わせる惑星があるに違いない」と、調査に調査を重ねて発見されたのが海王星

それでも、まだ納得いかなくて「さらに外側にまだ惑星があるはずだとして、ついに発見されたのが冥王星だったのですが、あまりの小ささに、「これでは軌道に影響をあたえるはずがない」と考えられていて、今では、おそらくもっと外側に、木星に匹敵するくらい大きな惑星Xがあるのではないか?と言われています。

Taiyoukeig0cc 冥王星の近くには、火星木星の間にちらばっているような小惑星の帯があり、冥王星もその帯の小惑星の一つと考えられ、その帯からは次々と現在進行形で、星が発見されています。

その新しく発見された星の中には、冥王星より大きい物もあり、その事が昨年の「冥王星を惑星から除外する」という結果に大きく影響しているでしょうね。
冥王星を惑星に位置につけたら、それらの星も当然、惑星に分類する事になり、数がメッチャ増えてしまうんですよね。

はたして、その帯の中の一つの星が、軌道に影響を与えている惑星Xなのか?それとも、もっと外側にメチャメチャでかい惑星Xが存在するのか?

天王星だけでなく、彗星などの軌道にも影響を与えているらしい惑星X・・・「水→金→地→火→木→土→天→海→・・・」の次は、何が入る事になるのか?とても楽しみです。

惑星から除外されてしまった冥王星には気の毒な思いがしますが、それはそう「科学の進歩」と、いう事で・・・無くなるわけではなく、除外されただけですからね。
 

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2007年1月19日 (金)

千里眼・御船千鶴子

明治四十四年(1911年)1月19日、超能力・千里眼で話題となった御船千鶴子が服毒自殺をはかりました。

“千里眼”というのは、少し古い言い回しですが、要するに今で言う“透視能力”ってヤツです。

以前“リング”という映画を見た時、「御船、御船」と散々友達に言いまくっていたのですが、原作者の話によると御船さんは、“リング”のモデルではないそうです。
あの、透視実験の風景なんてそっくりだったんですが、逆にモデルでないなら、偶然の一致・・・て事になって、それもコワイ気がしますが・・・。(貞子の怨念?)

事の発端は、明治四十二年(1909年)8月14日の『東京朝日新聞』、「熊本在住の河地千鶴子(後に結婚して御船姓になります)23歳が、封をした袋の中身はもちろん、鉱物や体の中も見通せる・・・」と報道した事に始まります。

そして翌年の12月に、今度は『東京日日新聞』が、丸亀の40歳になる長尾幾子なる女性を取り上げ「御船千鶴子は、別室に入ると透視できないが、幾子は別室であろうが大衆の前であろうが透視できる」と報じ、その上、幾子は、「写真板に文字や図形を念力で感光させる“念写”の能力も持っている事を、東京帝国大学の福来友吉博士が実験で確かめた」と報道したのです。

もう、世の中は一斉に超能力ブーム一色になります。

そうなると、当然の事ながら、科学的な検知から「ちょっと待ったぁ~」の声がかかります。
当時の物理学の権威・山川健次郎博士が名乗りをあげ、自ら実験を行う事になるのです。

Sennrigan2cc_2 まずは、御船千鶴子の実験・・・
ある文字を書いた紙を鉛で包んで玉にした物を渡し、千鶴子はそれを透視します。
透視の後、玉を割ってみると、千鶴子が言った通りの文字が・・・。
しかし、山川は「自分の書いた文字ではない!」とクレームをつけます。
つまり、玉ごとすりかえた・・・という事。
違う」「違わない」の押し問答となり、とりあえず実験はやり直し・・・という事になって、後日改めて実験が行われる事になります。

そして、明治四十四年が明けた1月6日、今度は長尾幾子の実験が行われます。
その時、幾子は、山川が書いた「正」という字を、みごと乾板に焼付けました。
しかし、またまたクレーム。
実は、山川が雇った乾板の見張り役が、10分程席をはずしていた事がわかり、その間に乾板をすりかえる事ができた・・・というのです。

しきりなおして、今度はやはり山川の書いた「健」という字を念写する事になりましたが、今度は幾子側からクレームが・・・。
「カメラに乾板が入っていない!これはインチキです」と泣き出し、実際にカメラを開けてみると、本当に乾板が無かったのです。
点検した時に入れ忘れたのか?不審を抱く者が抜き取ったのか?それとも幾子側の仕業なのか?
いずれにしても、「もう続けられない」と、この日の実験は中止となって、やはり、後日改めて実験が行われる事になりました。

ところが、この幾子の実験の13日後の1月19日、次回の実験を待たずに、御船千鶴子が毒を呑んで自殺してしまったのです。

そして、翌月の2月には長尾幾子も、やはり次回の実験を待たずに、病気で死んでしまいます。

さすがの超能力ブームも、肝心の二人がいなくなった以上、いつの間にか消え去ってしまいます。
こーゆー系統のブームって、来るのも早い変りに去るのも早いですからね。

今となっては、本物だったのか、インチキだったのか、確実な事はすべてわからずじまい・・・藪の中・・・という事になってしまいました。
 

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2007年1月14日 (日)

ハリーとハレー彗星の話

1742年1月14日は、あのハレー彗星の軌道を計算したイギリスの天文学者・エドモンド・ハリー(ハレーと表記する場合もあります)さんのご命日です。

エドモンド・ハリーは1656年にイギリスの裕福な家の子供として生まれ、オックスフォード大学のクィーンズ・カレッジ在学中に、すでに“太陽の黒点”についての論文を発表します。

Harycc 大学を卒業してからも、月を中心とした天体観測を続け、“星図”“モンスーン”など気象や天文に関する論文などを発表しています。

37歳の時には、人の死亡年齢の統計学から年金サービスの適切な価格などを割り出すという“年金に関する論文”を発表し、天文学者だけではなく、数学者としても活躍するようになり、海軍からのご使命で“海図”などを製作する事もありました。

そして、ハリーが49歳でオックスフォード大学教授の職務についていた1705年に有名な“ハレー彗星の出現の予言”を書いた論文を発表するのです。

これは、1337年から1698年までに観測された24個の彗星の記録とハリー自身が観測した1682年の彗星の記録を総合して丹念に調べ上げた結果、1531年と1607年と1682年の3つの彗星が同じ物である事に気付き、「今度は1758年に同じ彗星が現れるであろう」と予言したものです。

その後、ハリー自身は、グリニッジ天文台長を死ぬまで勤め、1742年の1月14日、予言をしたハレー彗星を見ることなく亡くなりました

やがて、実際には予言とは一年のズレがあるものの、予想通りの彗星が現れ、ハリーの名前は一気に有名になり、彗星も“ハレー彗星”と名付けられる事となりました。

これは、「惑星以外でも太陽のまわりを公転する天体がある」という事が初めて確認された・・・という意味でも重要な物でした。

Harekidou1cc

このハレー彗星は、76年で太陽のまわりを一周します。
惑星とは、反対向きに、楕円形の少しズレた形の軌道です。
つまり、76年に一度、太陽に近づいた時に地球でも観測できるわけです。

一番最近では1986年2月9日に最も地球に接近しました。
30歳以上のかたなら、あの大騒ぎを鮮明に覚えておられる事でしょう。

この時は、1982年の10月にアメリカの天文台でキャッチされてから、新聞や雑誌でも大きく取り上げられ、みんなこぞって天体望遠鏡を買いに走ったものですが、結果的にはかなり観測には不向きな状況で、天文台にあるような高度な望遠鏡でしか確認できないような状況だったのを覚えています。

ただ、近年の宇宙探査技術の発展により、各国が打ち上げた彗星探査機で、彗星が予想通りの氷の粒子でできている事が確認されたり、他にも専門的な発見が数多くあったようです。

その1つ前、1910年にハレー彗星がやってきた時には、かなり良く見えたようで、雑誌や図鑑でよく見かける長い尾を持った写真は、この時に撮影された物です。

この時は、彗星の尾の中を地球が通過するという接近ぶりで、尾にはシアンが含まれている事を、ことさら強調したマスコミに人々は恐怖をあおられたのです。
実際には、シアンの濃度は非常に薄いので通過しても何事もなかったのですが・・・。

明治四十五年の日本でも、やはりこの時は「ハリーのしっぽがやってくる」と大騒ぎ。
「地球上の空気が5分程なくなる」という噂が広まり、その5分間チューブ内の空気を吸って生き延びようと、お金持ちが自転車のチューブを買占める・・・という事があったそうです。
(ドラえもんでもやってました~)

この時代でもこれだけの大騒ぎですから、その正体を知らない昔の人にとっては、飢饉や戦乱の前触れなどと、彗星は恐怖の対象以外の何者でもありませんでした。
もちろん、その恐怖はハレー彗星だけには限りません。

承元四年(1210年)に彗星が現れた時は、後鳥羽上皇の指示により、第83代・土御門天皇から第84代・順徳天皇に即日交代という事で、いかに恐怖を感じていたかが伺えます。

天皇だけではありません勇猛果敢な武士であっても、その恐怖は同じです。
延応二年(1240年)には、鎌倉幕府第4代将軍・藤原(九条)頼経が、彗星出現のため上洛を中止しています。

ちなみに次の出現予定は2061年7月28日です。
小耳に挟んだ情報によりますと(どこで小耳に挟んだかは忘れましたが)、今度のハレー彗星は、ものすごくはっきり見えるらしく、「尾の長さが空の半分を覆うくらいになる」というので、何とか2061年まで、生き続けたい!と願っている私です。
 

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2006年12月28日 (木)

八百屋お七と丙午

天和二年(1682年)12月28日、江戸の町は炎に包まれます

愛しい男に会いたい一心で、思いつめた16歳の少女が、自宅に火を放ち、近くの半鐘に登る・・・。
O7cc_1 「あぁ・・・吉三・・・吉三・・」と、男の名前を呼びながら、一心不乱に鐘を叩く・・・
おりからの強風にあおられた炎は、みるみるうちに江戸の町を焼き尽くし、あたり一面火の海に・・・

浄瑠璃、お芝居で有名な“八百屋お七”のクライマックスです。
当のお七は、翌年の3月に処刑された、という事ですが、このお話は数年後、井原西鶴『好色五人女』の四人目として登場し大人気となります。

この日の火事は、通称“お七の火事”と呼ばれ、「お七と言えば大火」と、江戸の人々に印象付けられる事となります。

お芝居では・・・

火事で焼け出されたお七さん一家。
地元の“円乗寺”へ非難します。

ここで、この寺の小姓の吉三と出会い、なかなかのイケメンぶりに一目惚れ。
吉三も可愛いお七に惚れられて満更でもない様子。

やがて、ふたりは焼け出された人々でごった返す中、人目を忍んで男と女の関係に・・・。

でも、その場所はあくまで避難所です。
落ち着きを取り戻した一家は、やがて急ごしらえの、もとの八百屋に戻ります。

しかし、吉三の事が忘れられないお七・・・。
当時は、今のように、若い娘が自分の好きな場所に、出歩く事は考えられない時代でしたから、
恋焦がれ、「このまま会えないのなら死んでしまいたい」とまで思いつめる16歳の少女は、「また、火事になれば、愛しい吉三さんに会える・・・」と、自宅に放火をするのです。

このお七さん、16歳というのはかぞえ年で、今の満年齢だと14歳です。
たしかに、思いつめたらブレーキの利かない年齢である事は確かですが・・・。

お芝居では、この出会いの火事が明暦三年(1657年)の大火“通称:振袖火事(ブログ:1月18日参照)で、放火したのが“お七火事”という事で、因縁めいた作りになっていますが、パッと見てわかるように、それでは年齢があいません。

翌年の刑が執行された時の記録を、一番正確なものと判断するならば、そこから逆算していくしかありませんね。

ちなみに、明暦の大火は、10万人もの犠牲者を出し、江戸の町並みを変えてしまうくらいの大火事だったという事ですが、その後も江戸の町では火事が絶えず、幕府も“火消し組織”を作ったり、火が燃え移らないよう空き地など作ったりもしましたが、なんせ、放火が後を絶たない状況で、寛文六年(1666年)ご存知“火附(ひつけ)盗賊改め”なる部署を設置します。

そして、お七は“丙午(ひのえうま)”の年の生まれ・・・と言われていますので、もし、その事を信じるならば、この寛文六年が“丙午”の年ですので、この年に生まれたと考えられ、それならば一応、年齢的にもギリギリセーフかな?という感じです。

ただし、この“丙午”というのは、昔から「“丙午”生まれの女性は、男を食い殺す」とか「気性が激しい」などと、あらぬ疑いをかけられていて、“丙午”の年は、子供の出生の数がガクンと落ちる・・・という現象が、昭和になってもあったくらいですから、「お七が“丙午”生まれ」というのも、その迷信にこじつけた事も考えられます。

それにしても、なぜ“丙午”生まれの人に、そんなレッテルが貼られてしまったのでしょう?

元号のところでも少し書きました(ブログ:9月8日参照)が、この“丙午”の“丙”は“十干”と呼ばれる「甲・乙・丙・・・」と、続く10種類。
“午”はご存知“十二支”で12種類の“えと”です。
この“十干”と“十二支”をあわせて、その年を表し、60年で一周(還暦)します。
ちなみに、来年は“丁亥(ひのとい)”になります。

そして、もう一つ“五行説”というのがあります。
“五行説”は、「木・火・土・金・水」の五つからなる物で、宇宙や人の運命が、この五つに支配されている・・・という物で、現在の曜日の名前に使用されている物です。

Gogyoucc_1 この“十干”と“十二支”を“五行説”に当てはめると(右図→)、“十干”はそれぞれ二つずつ、“十二支”は、余るので“土”に四つで残りは二つずつあてはめられ、この考え方でいくと、“丙午”は「火と火」という事になるのです。

それで、「火=怖い・激しい」などのイメージとともに、いつしか「“丙午”の年は火事が多い」という噂が囁かれ、このお七の一件が決定打となって「“丙午”生まれの女は・・・」的なイメージが付いてしまったのではないでしょうか?

他にも、「火と火」の組み合わせになる年はあるのに、なぜか“丙午”だけが、因縁めいた話で残っていってしまうのです。

ところで、火事の話に戻しますが、やはり、例のごとく、お芝居と事実の違いは、多少あるもので・・・主人公の男性の本当の名前は“吉三”ではなく、“左兵衛”・・・ちょっと、こころなしかオッサンぽい名前(失礼)です。

それに、たしかにこの時期、江戸では火事が頻繁に起こっていましたが、町中を焼き尽くすような大火というのは、“明暦の大火”と“お七火事”の間には起こってはいません。

・・・となると、“お七の火事”というのは、お七が放火した火事ではなく、お七が避難した・・・つまり「左兵衛(吉三)と出会った火事」という可能性が高くなります。

事実、“お七の火事”の出火元は、駒込の大円寺で、お七の自宅ではありませんし、西鶴の『好色五人女』でも、「火付けは煙が上がっただけ」と書かれていて、お七の放火はボヤだった事になっています。

お芝居では、やはり盛り上がるように脚色されているようです。

そして、最後に、放火したその日のうちに捕まって、奉行所で取調べを受けたお七。
あまりの魂の抜けたような状態の彼女を見て、哀れに思った奉行は「お前は、まだ14歳であろう?」と問います。

この時代にも、今で言う少年法みたいなものがあって、14歳なら死罪を免れる事ができたので、奉行は情けをかけてそう聞いたのですが、「左兵衛(吉三)に会えないのなら死んだほうがマシ」と、思いつめていたお七は「いいえ、私は16歳です」と、言い切り、天和三年(1683年)の3月に、市中引き回しの上“火あぶりの刑”に処せられるのです。

一方、左兵衛(吉三)のほうは、事件後、自殺を図りますが死に切れず、その後、出家してお七の菩提を弔ったと言います。

“丙午”生まれのお七さん・・・「激しく怖い女」と言うよりは、「悲しく切ない女」という感じがしますね。
 

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2006年12月 5日 (火)

バミューダトライアングルの日

1945年(昭和二十年)12月5日、大西洋上空でアメリカ空軍機が消息を絶ち、その海域で行方不明事件が多発する事により、その場所を魔の三角地帯“バミューダトライアングル”と呼ぶようになった事を記念(?)して、今日は“バミューダトライアングルの日”だそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Bmdmapcoco2 “バミューダトライアングル”とは、大西洋のフロリダ・バミューダ・プエルトリコの三点を結ぶ三角形の海域です。

1945年の12月5日の午後、フロリダ州のフォートローダーデール海軍飛行場から、5機の戦闘機が飛び立ちました。
その日は、雲ひとつない快晴で、天候面における心配は、まったくありませんでした。

ところが、乗員からいきなり「現在地が確認できない」との通信が届きます。
そのうち、「燃料が足りない」とか「コンパスが狂った」などと、機内のあわてふためく様子も、管制塔に送られてきます。

結局、その通信を最後に、戦闘機5機は跡形もなく消えてしまったのです。
しかも、救援に向かった機体までもが、消息を絶ってしまいます。

その後、大々的な捜索が行われましたが、機体の残骸・燃料の流出など。普通の墜落現場に見られる浮遊物はいっさい見られなかったのです。

その海域ではそれから後も、100以上の飛行機、そして船までもがこつ然と姿を消す・・・という現象が起こります。
いつしかこの地域は“バミューダトライアングル”と呼ばれ「UFOに誘拐された」とか「四次元に迷い込んだ」とか、様々な噂が立ち、魔の海域と恐れられるのです。

原因として、今最も有力視されているのは、“マイクロバースト”と呼ばれるこの地方特有の自然現象。
それは、冷気の固まりが海面や地表に落下して、破裂するように強風を巻き起こすのだそうです。

ただし、この現象はかなり低空で起こるらしく、小型の民間機や船などは、影響される可能性も考えられますが、もっと上空を飛ぶ大型機に関しては依然、説明がつかないのが現状です。

結局、この日、行方不明になった戦闘機は、1991年にその残骸とおぼしき物が半径2㎞にわたって散らばっているのが発見されましたが、現在位置や方角がわからなくなったり、コンパスが狂ったりした事の原因は未だに解明されていません。

しかし、この“バミューダトライアングル”の話は、明快な原因がわからないにしても、未知な自然現象や海流によって、たまたま事故が起こりやすい地域なのだ・・・と、納得できるのですが、世の中にはもっと不思議な事があるもので、この逆パターンが存在する!というので、ビックリ仰天です。

それは、1989年10月12日の事。
ブラジルのポルトアレグレ空港の上空に突然現れたロッキード型旅客機が、管制塔の許可を無視して勝手に滑走路に着陸したのだそうです。

機内に入ってみると、乗員乗客92名が全員、なんと!白骨死体で発見されます。
そして、フライト・レコーダーの記録を調べてみると、その飛行機は何と35年前の1954年9月4日に、旧西ドイツのアーヘン空港から飛び立ち、このポルトアレグレ空港に向かっていた飛行機で、途中大西洋上空で消息を絶ったサンチアゴ航空・513便だった・・・というのです。

にわかには信じがたい話ですが、17年前と言えば、私は○○歳・・・しっかり大人なんですが、そんなニュースあったかなぁ?

この話は最近知ったんですが、不思議大好き少女(もう少女ではないが・・・)の私としては、当時聞いてたら絶対食いついてる話なんですが・・・日本ではニュースにならなかったのか、私が知らないだけなのか・・・。

航空機に関して素人なもんでよくわからないのですが、「パイロットは着陸時に一番神経を使う」とか、「着陸だけは手動で・・・」なんていう話を小耳に挟んだ事があるのですが、それでも飛行機というのは、パイロットが亡くなっていたら、自動運転か何かでちゃんと予定通り着陸するもんなんですかね?

それにしてもこの話は、まさに“戦国自衛隊”の世界じゃないですか!
不思議大好き少女+歴史大好き少女(だから少女やない!って)の私にとって、戦国自衛隊は、もう、その設定だけで満足するくらいのシロモノです。
夢のコラボですから・・・。

最初の映画も、もちろん見に行きましたが、最近も、ドラマや映画でリメイクされてましたね。
上杉謙信→織田信長→関ヶ原と来たら、もう残るは、大坂の陣しかないでしょう。

是非とも、昨日(12月4日)の真田幸村に出会って、真田十勇士は自衛隊員なんて事になりませんかね。
少なからず期待している私です。

・・・と思ってネットを調べたら・・・あるじゃないですか!
私は、まだ読んでないのでくわしい内容はしりませんが、思った通りの大坂の陣でしたね(笑)

 続・戦国自衛隊~大坂城攻防編
 

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2006年11月13日 (月)

ネッシー写真で大論争

1933年の今日、11月13日に、始めてネッシーの写真撮影に成功!・・・だそうですが、はたしてホンマモンなのでしょうか?

ネッシーは、イギリス・インパネス地方のネス湖に棲む、世界的に最も有名な未確認動物です。
有名な未確認・・・というのも何だか変ですが・・・

正式には、ロッホ・ネス・モンスター[Loch Ness Monster(s)]という名前で、ひし形のヒレを持つネス湖の怪獣という意味のネッシテラス・ロンポプリテウス[Nessiteras rhom-bopteryx]という学名までついているそうです。

ジュラ期の海生爬虫類、プレシオザウルスの生き残りか、それが環境に順応した亜種とする説が有力です。

もともと、最初の目撃例は565年で、この地方には奇妙な動物『水中ケルピー(怪獣)』として記録も残っていましたが、この写真撮影によって、ネッシーという名前が一躍世界中に知られる事になるわけです。

その後、1960年にイギリスの航空技師ティムディンス・テイルという人が、1週間ネス湖に張り込んで(1週間は早すぎるやろ・・・)16ミリ・フィルムでの撮影に成功したという。

「はたして、このフィルムに写っている移動する黒いコブのような物は、本当に未知の生物なのだろうか?」
当然の事ながら、大論争が巻き起こるのです。

1966年時点でのイギリス空軍・偵察情報センターの分析結果によると、
●撮影された物体は船ではない
●人工物の根拠も見当たらない
●推定時速10マイル(約16km)
●幅6フィート(1.8m強)
●高さ5フィート(1.5m強)
なのだそうです。

最近、『木曜スペシャル』(川口探検隊)的な番組にお目にかからないので、こーゆー事には無知なのですが、最新技術の分析結果などはあるんでしょうか?

少なくとも、何枚かの写真がニセ物だと確認された話は聞きましたが・・・

ところで、ネッシーのような未確認の動物をUMA[Unidentified Mysterious Animal(s)]と呼ぶのは最近けっこうメジャーになってきていますが、その定義は「ある程度知られてはいるが、科学的には確認されていない動物。特に、なるべく最近の物で、目で見て手で触れる事のできる可能性がある物」だそうです。

ヒマラヤの雪男、中国の野人、北米のビッグフット、プエルトリコのチュパカブラが人を襲うなんていう話もありました。

日本では、ツチノコ(へびに似た生物)ヒバゴン(広島県比婆山にいる雪男)を筆頭に、タキタロウ(体長2mのイワナ)クッシー(北海道屈斜路湖の怪獣)イッシー(鹿児島県池田湖の怪獣)などはわかりますが、河童なども含まれるそうです。
個人的には、鬼や河童は妖怪のたぐいではないかと思うのですが・・・。

これらを研究するのは、未確認動物学というちゃんとした学問で、世界的な学会も開かれているらしいです。
ネッシーに関しては、イギリスの希少動物保護法の対象にもなっているそうなのですが・・・見つかると、うれしいような・・・でも、いつまでも謎のままのほうが良いような気もしますね。

つい最近、長年UMAとされてきたスカイフィッシュを高感度スピードカメラで撮影したところ、ただの虫だった・・・というのもありましたからね。
 

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2006年10月 8日 (日)

今日は寒露、二十四節季のお話

今日10月8日は、二十四節季の一つ寒露(かんろ)です・・・って、こういうセリフ、ニュースや天気予報でよく聞くけど、そもそも二十四節季って何?って思ってませんか?

実は、私もけっこう大人になるまで、ちゃんとした意味をわかってませんでした(私だけかな?)。
ただ、さすがに夏至は太陽が昇ってる時間が一番長い日で、冬至がその逆の一番短い日・・・という事は知ってましたが・・・。

二十四節季というのは、一年を24等分してそれぞれに立夏・立春などの季節をあらわす名前をつけた物で、古代の中国で、陰暦と季節のズレをおぎなうために考え出された暦です。

陰暦は、月の満ち欠けによって日付が決まりますから、当然太陽の動きと差が出てしまい、農業の種まきや、収穫の日を決めるのにとても不便だったんですね。
それで、太陽の軌道を24等分した分点にそれぞれの節季を配置して古代のカレンダー的な物に記入して、農作物を作るヒントにしたんです。

まずは立春(2月4日頃)、これは有名ですよね。
春がキターーーーって事で、昔のお正月です。
八十八夜とか二百十日などは、この日を起点に数えた日にちで、お茶積みをしたり台風に気をつけたり・・・とか、

雨水(うすい・2月18日頃)、雪や氷が解けて水になるという意味で、そろそろ農耕の準備を始める日だそうです。

啓蟄(けいちつ・3月6日頃)、冬眠していた虫が目を覚まして地中から這い出てくるという意味で、南からの暖気か強まり、春雷が大きくなる季節です。

春分(3月21日頃)、これは説明不要ですよね。とりあえず、暑さ寒さも彼岸まで・・・

清明(4月5日頃)、草木が生き生きし始め明るくなるという意味で、西日本は桜の咲き始める頃、ただし天気は変りやすい頃です。

穀雨(こくう・4月21日頃)、春雨がけむるように降って作物が生長する時期なのでこの名前がつきました。

立夏(5月6日頃)、夏が立ってます~暦のうえでは、夏・・・って事ですね。

小満(しょうまん・5月21日頃)、野山の草木が実をつけはじめ、万物が満つるという意味で、この頃から梅雨に入ります。

芒種(ぼうしゅ・6月6日頃)、米や麦など芒(のぎ・実の外側にある固い毛の事)のある作物の種をまく時期という意味で、そろそろ田植えの季節です。

夏至(6月22日頃)、たしかに太陽は長く出ているけど、梅雨の真っ只中で、あんまり夏っぽくないですね。

小暑(7月7日頃)、梅雨も明け、そろそろ暑くなってくる頃です。

大暑(7月23日頃)、その名のとおり暑くてたまらん!

立秋(8月8日頃)、暦の上では秋。暑中見舞いはこの日までに出しましょう。立秋から後は残暑見舞いになりますよ。

処暑(8月23日頃)、暑さがやむ・・・という意味です。秋の訪れを感じます。

白露(はくろ・9月8日頃)、野草に露が宿る頃です。

秋分(9月23日頃)、またまた暑さ寒さも彼岸まで・・・っと。

そして、今日10月8日の寒露(毎年10月8日頃です)、野草に宿る露が寒気にあたって凍る手前にあるという意味で、朝晩は寒気を感じ始める頃です。(ホントのそのとおり、思わず窓を閉めました~)

霜降(そうこう・10月21日頃)、早朝などは霜が降りるという意味、物寂しい季節です。

立冬(11月7日頃)、冬が来ちゃいました~。

小雪(11月23日頃)、寒さもまだ小さく、雪もまだ少ないという事です。

大雪(12月7日頃)、もう山は積雪、町は北風。

冬至(12月22日頃)、んん~太陽が一番遠く、昼が一番短~い「ゆず湯に入って寝よ」

小寒(1月6日頃)、意味はもういいですよね。よく耳にする『寒の入り』はこの日の事です。

大寒(1月21日頃)、その名のとおり寒くてたまらん!

以上が、二十四節季でした。
二十四節季をさらに3等分ずつした七十二侯というのもあるんですよ。

七十二侯には、『獺祭魚(たっうおをまつる)かわうそが魚を食べる季節』とか、『武始交(とらはじめてまじわる)虎が成育する季節』とか、「それ、知ってどうすんねん!」って言う物や、『鷹が鳩になる季節』などというワケのワカラン物まであるので書くのはやめときます。

とにかく、寒露は秋冷えが体にしみる季節です、風邪などに注意しましょうね。

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2006年6月23日 (金)

アジサイが美しい今日この頃

今、まさに、アジサイが満開ですね。

近所の家のお庭や、路地裏にも・・・ほんとうにキレイです。

今日はアジサイについての豆知識を・・・。

アジサイは『紫陽花』と書く、れっきとした日本の自生種
花言葉は『移り気』。
それは、花の色が緑→黄→青→赤→紫の順に変わっていくためです。

花の色の成分は、クロロフィル(葉緑素)、カロチノイド(黄色の色素)、フラボン(白の色素)で構成されていて、まず、最初にクロロフィルが色あせてきてカロチノイドがめだってきます。

やがて、そのカロチノイドが分解されて、フラボンが強くなると、見た目には青く見えます。
その頃になると葉が光合成で糖分をつくり、その糖分が花にまわってきてアシトシアン(赤の色素)に変わります。

その後、酸でマグネシウムが分解され、カリウムが結合して紫になります。

まっ、とりあえず、色が変化する順番は変わらないって事ですね。

あと、花を乾かして煎じて飲むと解熱の効果があると言われてるらしいけど・・・ホントかなぁ?

個人的には、わが家の子供たちは、全員今頃が誕生日なので、アジサイが咲いてるのを見ると「そろそろ、誕生日だな~」って思いにふけります。

Dscn0007 奈良・郡山・矢田寺のアジサイ

 

 

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2006年6月 1日 (木)

気象記念日

明治八年(1875年)6月1日に、気象庁の前身の東京気象台が、イギリスから気象観測の機械を購入して、イギリス人のジョイネル氏の指導のもと発足したのを記念して、今日6月1日が気象記念日と定められました。

しかも、偶然なのかわざとなのか、6月1日という日は気象に関しての出来事がなにかと起きている日でもあります。

日本で初めて天気予報が発表されたのも、明治十七年(1884年)の6月1日です。

その日までは、すでに暴風警報などは出していましたが、天気予報という物はまだ発表されていませんでした。

歴史的第1号の天気予報は「全国一般風ノ向キハ定マリナシ、天気ハ変ワリヤスシ、タダシ雨天ガチ」というもの。

ビミョー・・・この日がどんな天気になっても当たってる気がする・・・。

また、世界では、1860年の今日、オランダで世界初の暴風警報発令。

1956年には、中国でやはり6月1日に大陸の気象資料を公開しています。
 

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2006年5月23日 (火)

コペルニクスの地動説

コペルニクスはポーランドに住む司教でした。

彼は、ギリシャの思想や、肉眼による天体観測などで、『地球を中心にして天体が動いている』という当時の常識だった天動説に疑問を抱いて30年間も、独自の研究を続けて最後に地球のほうがうごいている・・・という確信を得ますが、自分は司教の身。

教会では、地動説を悪とする風潮がまん延していましたので、なかなか発表する機会がありませんでした。

そのうち病気になってしまい、彼の友人たちの手によって、1543年5月23日に長い間の研究の成果をまとめあげた1冊の本『天体の回転』が発表されました。

そして、彼は『天体の回転』が発表された翌日、息をひきとりました。

つまり、明日はコペルニクスさんのご命日です。

凡人の私には、天体のどこをどう観測したら、地球が動いているとわかるのか・・・そこんところがまったくわかりません。

宇宙は無限というけれど、ほんとうに限りなくどこまでも続いてるのかしら?

最後の最後にここから先は行けませんよ・・・みたいな場所があってその向こうへは、出られないって事なのか?

それともほんとうに延延と空間が広がっているのか?
そんな事を考えてると・・・はたして今夜は眠れるのかな?
 

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2006年2月26日 (日)

枚方・意賀美神社の梅林に行ってきました

 

大阪は枚方にある意賀美(おがみ)神社の梅が美しく咲き誇っていましたよ。

毎月26日は風呂の日ですが、今日はお散歩してきたのでその事を書きますね。

私が運営している『京阪奈ぶらり歴史散歩』というサイトに写真を掲載しようと思い、今日、京街道を歩いてきました。

みなさん、東海道53次はよくご存知でしょうが、それは、お江戸の日本橋から京都の三条大橋まで。でもホントはその先に4つの宿場があって大阪まで続いているんです。

慶長二十年(1615年)大阪夏の陣の後、幕府は伏見・淀・枚方・守口の4宿を設け、幕府の公文書にも『東海道は品川宿から守口宿まで』と書かれています。特に京都から大阪までを京街道と呼びます。

その4宿のひとつ、枚方宿を訪ねてきました。

メインはやはり天正年間(1573~92年)創業の宿屋『鍵屋』ですが、近くの意賀美神社にも梅林があるというので行ってきました。キレイに咲いていましたよ。

半分くらいはまだつぼみだったので今からでも間に合いますよ。写真載せておきます。

 Dscn0591 Dscn0592

★意賀実神社周辺の地図や枚方宿の歴史散歩の記事をHPにupしています。
よろしければコチラからどうぞ→
 

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