菅原道真没
延喜三年(903年)の2月25日菅原道真が亡くなりました。
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♪東風吹かば
匂い起こせよ 梅の花
主なしとて 春なわすれそ♪
今は学問の神様で知られる天神様こと菅原道真(すがわらのみちざね)ですが、早くから才能が認められていた(2月18日参照>>)にもかかわらず、なかなか出世できなかったらしく、その生涯の中で幸福な時代は、短かったようです。
全国の神社の中で稲荷神社に次ぐ第2位の数を誇る天満宮は、人間が神として祀られた中では、ダントツの数です。
それにはちょっとしたワケが・・・。
遅咲きとは言え、30歳から出世コースに乗った道真は、55歳で右大臣にまで上り詰めます。
しかし当時のトップだった左大臣・藤原時平とのライバル関係が仇となり、謀反の疑いをかけられ、わずか2年後に57歳で九州の大宰府に左遷され(1月25日参照>>)、これまた2年後の延喜三年(903年)の2月25日、59歳で失意のまま亡くなります。
冒頭の歌は、最後の頃の歌で、今も各地の天満宮には、道真の愛した梅の花が植えられています。
さて、道真が神として祀られるようになるのは、これからあとの数々の出来事によってです。
まずは、張本人である藤原時平が、道真の死の直後39歳で死亡します。
次に皇太子の保明親王が21歳で死亡、次の皇太子に立った慶頼王(時平の孫)にいたっては、わずか5歳で死んでしまいます。
続いて干害、水害と起こり、この後、20年余りも飢饉や、凶作、疫病に悩まされます。
もうその頃にはすっかり都じゅうに道真の祟りが噂されるようになっていました。
そして極めつけは、延長八年(930年)京都の内裏の清涼殿(天皇の住居)への落雷(6月26日参照>>)・・・藤原氏ゆかりの公卿二人が直撃され、無残な死を遂げます。
この落雷事故によって、道真=雷神というのが定着し、もともと雷神を祀っていた北野に、道真は天神として祀られたのです。
今でもお年よりなどが、雷が鳴ると「くわばら、くわばら」と言うと雷が落ちない、というのは道真の屋敷のあった場所が『くわばら』だったからだとも言われています。
さすがに自分の屋敷には落とさないだろうという事らしいです。
しかし、一方では、道真はこんなう歌も詠んでます。
♪心だに
まことの道に かないなば
祈らずとても 神や守らん♪
一生懸命がんばった人は、必ず神様が守ってくれる・・・という事だそうです。
ありがたいことでおます。
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