義経の腰越状
文治元年(1185年)5月24日、義経は、腰越から1通の手紙を兄の頼朝に渡してほしいと、側近の大江広元にたくします・・・有名な義経の『腰越状』です。
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ご存じのように源義経(みなもとのよしつね)は、一の谷、屋島と次々に平家に勝利し、ついに寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、壇ノ浦にて滅亡へと追い込みました(3月24日参照>>)。
京に凱旋した義経は、それはもう大人気で、本人にとっても平家打倒は父の仇をとったわけですから、それを素直に喜び、ここに絶頂期を迎えます。
義経勝利の報を聞いた後白河法皇(ごしらかわほうおう)からは、義経のもとに勅使(ちょくし=天皇の使者)が訪れ、法皇の親衛隊長とも言える院の御厩の別当(いんのみうまやのべっとう)に任ぜられました。
その後、そのルンルン気分まま、壇の浦で捕虜にした平宗盛(むねもり)たちを護送しながら(6月21日参照>>)、意気揚々と兄・頼朝(よりとも)のいる鎌倉へと向かいます。
文治元年(1185年)5月15日に、相模の国(神奈川県)に入った義経は、「明日は鎌倉に参上します」と告げます。
ところが、頼朝は、北条時政(ときまさ=政子の父)を使者として捕虜だけを受け取り、義経には、鎌倉に入るなという命令を出すのです。
これには・・・
- 頼朝の承諾なしに朝廷から冠位を授かった。
- 三種の神器のうちの宝剣を得られなかった(2007年3月24日参照>>)。
- 独創的で自発的な義経は合戦では役立つが、武士の統制をとろうとしていくうえでは、邪魔になる。
- 義経の人気と強さが怖かった。
・・・などなど、その頼朝の真意は、現在でもさまざまに取りざたされますが、『義経記』では、梶原景時(かじわらかげとき)が
「日本の半分をよこせと言ってる」とか
「あれじゃ、子孫の代になったら反逆するだろう」とか
「屋島や一の谷でも勝手な事ばっかりやってわがままだ」とか、
さんざん義経の悪口を頼朝に言った事になってます。
まぁ、『義経記』は軍記物語なので、告げ口する景時が、めっちゃヤラシイ人みたいに少々オーバーに書かれてますが、その告げ口も、半分は誇張ですが半分は当たってる感あります。
実際に、平家との合戦のいくつかでは、義経は、全軍の統率を無視して、勝手な作戦に出る事も多々あったようです(2月16日屋島の戦い参照>>)。
また、これから御家人の統率をとって行けねばならない頼朝にとって、鎌倉を無視して後白河法皇から冠位を授かった義経を、「弟だから…」と大目に見ていては、部下への示しがつかない事も確かですし、それをやっちゃう弟は、はなはだ危険です。
とにもかくにも・・・
この腰越で十日ほどの足止めをくらった義経は、文治元年(1185年)5月24日、1通の手紙を書き、兄=頼朝に渡してほしいと、側近の大江広元(おおえひろもと)にたくしたのです。
それが、『腰越状』です。
「僕は、メッチャ頑張って朝敵(国家の敵)を倒しましたよって、本来なら賞賛されるべきところやのに、思わんところからの讒言(ざんげん=悪口)によって、大きな武功が無視されて、罪も無いのに罰せられて・・・
功こそあっても、誤りなんておませんのに、お兄ちゃんはご機嫌ナナメ・・・
毎日、血の涙を流して悲しんでますわ」
そのあとに、生い立ちから、現在までの苦労、頼朝への思いがめんめんと綴られた物でしたが、結局、頼朝からの返事はなく、6月9日、義経はそのまま、空しく京の都に戻ります。
この後、ふたりの兄弟が会う事は、2度とありませんでした。
最終的に頼朝は、弟=義経に兵を向ける事になります(10月11日参照>>)
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