大海人皇子・吉野出発で壬申の乱勃発
白鳳元年(672年)6月24日、大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)は、舎人二十余人、女官十余人と妃・鵜野讃良々皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)を、つれて滞在中の吉野を出発しました。
これが、事実上の壬申の乱の始まり、古代最大の内乱の勃発です。
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複雑な細かい事情はあるものの、一言で言うと、叔父と甥の天皇・相続争いです。
天智七年(668年)に即位した第38代・天智天皇(中大兄皇子)。
翌年の669年に、弟の大海人皇子を皇太子に任命しますが、いつしか、日々成長しつつある息子の大友皇子に、皇位を譲りたいと考えるようになっていたと言われています。
その事は、いずれ周囲にも伝わり、宮中も、自然と大海人派と大友派に2分されていきます。
671年の秋に、天智天皇が病に倒れたのをきっかけに、派閥争いは表面化・・・危険を感じた大海人皇子は、側近をつれて吉野に入ります(くわしくは10月19日参照>>)。
この、危険を感じた時に『吉野に入る』というのは、この時代の習慣のようで、645年の蘇我入鹿・暗殺事件(6月12日参照>>)の時にも、中大兄皇子の兄で蘇我氏の血を引く古人大兄皇子(6月14日参照>>)が、事件の後、危険を感じて吉野に入っていますが、彼は、その後、中大兄皇子の計略により、謀反の罪で死刑になります。
古人大兄皇子は、どちらかと言うと『逃走』のような感じでしたが、大海人皇子の吉野入りは、それとは少し違い、「虎に翼をつけて放すような物だ」とまわりからウワサされるくらい危険なにおいのプンプンする物でした。
案の定、天智天皇の死後、たった半年で、こうして吉野を出発・・・乱が勃発する事になります。
とにかく、大海人皇子側の行動が素早い!
大友皇子側のほうは、結局すべての行動が後手にまわってしまい、太刀打ちできない・・・といった所でしょうか。
壬申の乱の関連ページ
●壬申の乱~大海人皇子の鈴鹿越え行軍>>
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●壬申の乱~大海人皇子・進発と朝廷軍>>
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