百姓の叡智・加賀の一向一揆
長享二年(1488年)6月9日、加賀に一向一揆が起こり、守護の富樫正親を自害に追い込みました。
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そもそもは、赤松満祐(あかまつみつすけ)が将軍・足利義教(よしのり)を暗殺した嘉吉の乱(6月24日参照>>)をきっかけに、加賀の守護大名だった富樫家が、教家(のりいえ)派と泰高(やすたか)派の二流に別れて、守護職を争い始めました。
そこに北加賀・半分の守護に任ぜられた赤松政則(まさのり)も加わり、血みどろの戦いが繰り広げられていたのです。
応仁元年(1467年)に起きた応仁の乱(5月20日参照>>)でも、富樫政親(とがしまさちか)と赤松政則は東軍の細川勝元に、政親の弟の富樫幸千代(こうちよ)は西軍の山名宗全(そうぜん=持豊)について家督争いを激化させていました。
以来、加賀の国の農民たちは、ず~っと富樫家の内部争いに悩まされ続けていたんです。
戦いがあれば、軍費を徴収されるし、田畑は荒らされるし、男たちは人夫に駆り出される・・・農民たちは、たまったもんじゃありません。
それでも、それまでの農民たちは、ただ黙って泣き寝入りするしか手立てはありませんでしたが、この頃の、そしてこの北陸・加賀の農民は違っていました。
浄土真宗の教えによって団結すれば、強い集団になれる事に気づいたのです。
真宗の布教のため、北陸各地を巡っていた蓮如(れんにょ)(2月25日参照>>)は、教えを広めるとともに、部落ごとに、道場をを建て、信者が集まって談合をする事を勧めていました。
農民たちにとって、道場は信仰の場所でもあり、議会を行う場所でもあった・・・ここに、農民たちは、一致団結し、組織として活動するようになったのです。
文明六年(1474年)、その団結を警戒した幸千代が、本願寺門徒を弾圧し始めると、彼らは、幸千代と対立する兄=政親と組んで対抗・・・これが、最初の加賀一向一揆である文明一揆です(7月26日参照>>)。
しかし、実は、その団結力は、政親にとっても脅威・・・結局、幸千代に勝利した政親は、すぐさま一揆衆と結んだ同盟を破棄して、一転、本願寺門徒の弾圧に取りかかるのです
(2月18日参照>>)。
ますます過激になる本願寺門徒・・・そんな過激な行動に反対する蓮如は、とうとう吉崎を後にし(8月21日参照>>)、以後、蓮如は、大坂を拠点にする事にします。
やがて訪れた長享元年(1487年)・・・近江(滋賀県)にて六角氏と戦う第9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)(12月2日参照>>)の出陣要請を受けて、政親が近江へと向かいます。
これをチャンスとみた一揆勢が活発に動き始めると、慌てて戻って来た政親が、更に弾圧を強化・・・すると、一揆勢は、富樫一族の中でも、政親と対立していた泰高を総大将に擁立して、政親の高尾城を取り囲んだのです。
長享二年(1488年)6月9日、南無阿弥陀仏と書かれたむしろ旗を先頭に20万人ほどの大軍となって高尾城に押し寄せる一揆勢・・・
この時、政親とともに高尾城を守る城兵は、わずかに1万・・・籠城側を圧倒するその数に、もはや、どうしようもなくなった政親は自害します。(2016年6月9日参照>>)
これが長享一揆と呼ばれる加賀一向一揆最大の一揆・・・ここに、約100年間に渡る百姓の持ちたる国が誕生する事になります。
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★一揆の方法や惣については6月9日【一味同心・一揆へ行こう!】で書いています>>>
★加賀一向一揆の終焉については3月9日【金沢御坊・落城~加賀一向一揆にの終焉】でどうぞ>>
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コメント
ありがとうございます!! 学校のノートまとめるのに使わせてもらってます!これからもがんばってください!
投稿: 真田幸村 | 2010年1月 7日 (木) 18時53分
真田幸村さん、コメントありがとうございます。
お勉強のお手伝いになれば、幸いです。
投稿: 茶々 | 2010年1月 8日 (金) 00時01分