天慶の純友、瀬戸内に散る
平家物語の冒頭、有名な『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の・・・』の文の後に『・・・近く本朝をうかがうに、承平の将門、天慶の純友、・・・』と続く。
承平の将門は、ご存知『承平の乱』を起こした東国の雄・平将門(たいらのまさかど)(2月14日参照>>)です。
常に、将門と並び称される瀬戸内の雄、『天慶の乱』を起こした藤原純友(ふじわらのすみとも)が、本日の主役。
天慶二年(939年)、伯父との領地争いに勝利して、その勢いで関東一円を支配下に納めた平将門は、自ら「新皇」と名乗り、関東の独立を宣言しますが、そもそも、それ以前に、海上交通の要所だった瀬戸内海に出没する海賊を制圧させるべく、朝廷から派遣された伊予の国司が藤原純友であったのです。
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ところが制圧どころか、逆に伊予の国・日振島を本拠地とする海賊の首領になって、伊予の国はもちろん、大宰府までも攻め落としていきました。
そして、将門の「新皇」宣言と同時期に、京の近くで神出鬼没しだしたのです。
朝廷では
「将門と純友は、共謀して反旗をひるがえした」
「西から純友が海賊を率いて上陸、東から将門が大軍を率いて上洛」
などと、ウワサが流れ、あわてて純友に冠位を授けよう・・・などの行動にでる始末。
しかし、情勢は急転直下します。
天慶三年(940年)希代の英雄・藤原秀郷(ひでさと=俵藤太)と平貞盛が将門を討ち取ってしまい(2月14日参照>>)、急遽、純友は京突入を断念。
将門の乱を鎮圧した事に勢いづいた朝廷は、純友鎮圧軍・源経基と小野好古を送り込んできたのです。
明けて天慶四年(941年)の6月20日、純友は瀬戸内海を逃げながら、伊予に帰ったところを討たれてしまいます。
将門と純友の反乱は、短い間でしかも失敗に終わりましたが、反乱を起こした側も、鎮圧した側も、ともに武士であった事が大きな意味を持っています。
朝廷は、右往左往しながら命令を出しただけで、実際に動いたのは武士たちです。
この事で、朝廷への信頼は一気に失われ、まさに武士の時代の幕開けとも言える出来事でありました。
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