暴れん坊の享保の改革
享保七年(1722年)7月26日、徳川八代将軍・吉宗が享保の改革の一環として、新田開発を推し進め、幕府の財源確保に勤めました。
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七代将軍・家継が、まだ8歳という若さで死んでしまい、棚ボタ式で、御三家の一つである紀州徳川家から吉宗が八代将軍となったのは、享保元年(1716年)の事(8月13日参照>>)・・・就任後すぐ、享保の改革に着手し始めました。
その頃は、徳川の時代になってから、もう百年くらいたっていて、戦国の世には、あまり数が多くなかった町民層が町にあふれ、百姓も農具の改良や効率化によって、かなり豊かになっているのに対して、武士は何を生産するわけでもないため、昔のままの状態・・・。
そのため、武士は貧困にあえいでいて、イコール幕府の財政も火の車!
暴れん坊も、暴れてばかりはいられません。
そこで、武士にも町民にも『倹約令』を出して支出を抑え、諸大名には、石高一万石につき百石を献上させる『上米(あげまい)令』を布告しました。
また、『人材投与』にも熱心で、代官の不正を暴き、年貢の徴収を確実な物にしたりなんぞもしました。
そして、享保七年(1722年)7月26日に出された新田開発です。
さらに、高騰を続ける物価には『物価引下げ令』を、米相場安定には『米市場』を設置し、『株仲間(同業組合)』を結成させたり、新しい産業の開発を促進させたり、防火対策に基づく都市開発をして、町火消『いろは四十七組』(3月4日参照>>)を設置したり・・・。
まだまだ・・・
『目安箱』を設けて庶民の意見を投書させたり、貧民救済の『小石川養生所』を作ったり・・・。
これは、スゴイ!
さすがに、「中興の祖」「稀代の名君」と呼ばれるだけあります・・・少しくらいの暴れん坊はご愛嬌!
ってなもんですが、いやいや、このやるにはやった数々の改革が、果たして本当に効果があったのかどうかは、チョイと怪しい部分がなきにしもあらず・・・
そこンとこは、6月18日【徳川吉宗の「享保の改革」に学ぶこと】でご覧あれ>>
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コメント
茶々さん、こんばんは。
今回は、私の好きな(歴代将軍の中で)吉宗ですね~!
紀伊の時代から藩政改革で頭角を現していましたが、享保の改革でその手腕をさらに開花させた感がありますね。
学問や新田開発など、多岐に渡って的確に着手しその名を残した将軍です~現代の政治化にそれらしい方は・・・?ですが、やはり庶民の生活を視点に改革しないことには国も潤わない気がします。
今はその逆を進んでいるようで「痛み」だけが伴う政策が多いのですが・・・(汗)
当時もそうですが、農家・農民(庶民)を大切にしようとした米将軍・吉宗はやはり稀有な政治家だったのでしょう。
投稿: ルーシー | 2006年7月27日 (木) 22時15分
ルーシーさん、コメントありがとうございます。
やはり、吉宗さんお好きでしたか・・。
この時期に吉宗さんが、紀州からやって来てなかったら、徳川も危うかったかもしれませんね~。
また、庶民の立場に立った改革というのもすばらしい!
私は、大奥の改革で美人をクビにした話もけっこう好きです。
クビになった人たちは、将軍様から美人のお墨付きをもらえたような物ですが、残った人はどうなんでしょう?
「私ってブサイクなの?」って悩んだりしなかったんですかね?
ちょっぴり、複雑な心境ですね。
投稿: 茶々 | 2006年7月28日 (金) 01時04分