細川ガラシャ最期の日
慶長五年(1600年)7月17日、細川ガラシャ(お玉・玉子)が亡くなりました。
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お玉は、明智光秀の三女として生まれ、天正六年(1578年)に、織田信長の薦めで、同じ16歳だった細川忠興(ただおき)(12月2日参照>>)と結婚しました。
とにかくお玉さんはものすごい美人で、和歌などもたしなむ才媛、忠興さんはそんなお玉さんにぞっこんでした。
ふたりの運命が変わるのは、天正十年、お玉の父・明智光秀が主君・信長を襲った本能寺の変(6月2日参照>>)と、その後の山崎の合戦(6月13日参照>>)で羽柴(豊臣)秀吉に光秀が敗れてから・・・
父親の謀反のとばっちりで、お玉は夫に丹後の山奥で軟禁状態にさせられます。
この時の夫に対する不信感や、精神的苦痛から徐々にキリスト教にのめり込んでいきます。
そして天正十五年(1587年)に正式に洗礼を受け『ガラシャ』と称するようになります。
これには、さすがにお玉スキスキの忠興さんも激怒、改宗するように迫りましたが、お玉さんの意志は固かった・・・
そして、慶長五年(1600年)徳川家康は、「豊臣への謀反の兆しあり」(4月1日参照>>)として会津の上杉景勝を討つために軍を動かし、細川忠興もこれに同行します。
しかし、おそらく、これは家康の作戦。
わざと畿内を留守にして、豊臣家内で何かと対立している(3月4日参照>>)石田三成にしびれを切れさせて行動をおこさせるのが目的でした。
家康の思うツボにはまってしまった三成さん、案の定、挙兵を決意します(7月11日参照>>)。
ここから、あの天下分け目の関ヶ原へ一直線(【関ヶ原の合戦の年表】を参照>>)・・・となるのですが、
まずは、武将の妻子たちを、人質とするべく大阪城に入城の命令を下す(7月14日参照>>)のです。
なんせ、この関ヶ原での西軍&東軍というのは、ともに豊臣政権下にいる武将たち・・・政権内の派閥争いなのですから、基本、西につくか東につくかは本人の自由・・・
しかし、会津征伐を大義名分に北へ向かった家康には、現時点で多くの武将が従っているわけで、彼らを西軍につかせるには、彼らの妻子を確保して「嫁さんと子供がコッチにおるねんから、お前もコッチおいでや~」ってするのが手っ取り早いわけで・・・
もちろん、この時、家康とともに会津に向かっていた忠興の屋敷にも、三成の捕縛隊がやってくるわけです。
慶長五年(1600年)7月17日・・・この時、大阪・玉造の細川家の屋敷にいたのは女ばかり。
ガラシャは自分の娘・二人を大阪教会のオルガンチノ神父に預け、息子の嫁をお隣さんの宇喜多家へ避難させてから、自分はキリスト教信者であるため、自殺は許されないと、留守家老の手によって、その生涯をとじました。
♪ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ ♪ 細川ガラシャ:辞世
大阪・玉造の聖マリア大聖堂の細川ガラシャ像
大聖堂のとなりにある細川家跡
台所にあった越中井が残っています
夫・忠興さんについては【ブログ:12月2日・細川忠興の意外な才能】へGo→
追記:このページは、ブログを初めて間もなくの2006年に書いた記事・・・という事で、2013年の7月17日に、再び、ガラシャさんの、さらにくわしいページを書かせていただきましたので、よろしければ、ソチラの【関ヶ原に花と散る~細川ガラシャ=明智玉の壮絶最期】もどうぞ>>
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コメント
来年のガラシャさんの配役がミムラさんになりました。これで必然的に細川忠興も出ますね。楽しみです。
投稿: えびすこ | 2010年8月30日 (月) 10時31分
えびすこさん、こんにちは~
どんな風になるのか、楽しみですね。
投稿: 茶々 | 2010年8月30日 (月) 17時11分
くしくも明日17日の「江 姫たちの戦国」ではガラシャさんが奔走しますね。
ブログ登場1000人目前ですね。来週中に達成できそうかも?
投稿: えびすこ | 2011年7月16日 (土) 22時43分
えびすこさん、こんばんは~
やっと活躍しはるんですね~よかったです。
今まで、何のために出てるのかわからないわからない状況でしたもんね。
投稿: 茶々 | 2011年7月16日 (土) 23時28分
こんばんは。
国会図書館の企画展「あの人の直筆」を
見てきました。
細川ガラシャの書簡が特別展示されていました。かなのくずし字です。侍女あてです。
http://www.ndl.go.jp/jp/event/index.html
投稿: やぶひび | 2014年10月19日 (日) 02時15分
やぶひびさん、こんばんは~
へぇ~そんなステキな企画展が…
昔の方は、皆さん達筆ですよね~
おかげで、読むの大変ですが…
投稿: 茶々 | 2014年10月19日 (日) 05時28分
明治きっての女流歌人与謝野晶子が、大阪の越中井を訪れた際、2首の歌を詠みました。「聖女をば 越中町の火に焼きて 傾き始めぬ大坂の城」「この婦人 歓喜と悲哀を併せ持ち 帰依の始めも 身の終わりにも」ガラシャの気持ちが痛い程分かるからこそ、詠めた歌なのでしょう。
投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月14日 (木) 18時36分
クオ・ヴァディスさん、こんばんは~
越中井は、昔は道のド真ん中にありましたが、今は、広かった側をさらに広げて、狭かった側を歩道にして、ウマイ事、違和感無くなってます。
投稿: 茶々 | 2015年5月15日 (金) 01時48分