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2006年7月28日 (金)

木曽義仲、堂々の入京

 

寿永二年(1183年)7月28日、木曽義仲が入京を果たし、同時に後白河法皇が平家追討の院宣を下しました。

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北陸で、平家軍に大勝利した(5月11日参照>>)木曽(源)義仲が、北陸の五万の兵を引き連れて、堂々と都に入って来たのは、平家が都落ちして(7月25日参照>>)から3日後の寿永二年(1183年)7月28日の事でした。

北陸勢を一目見ようと人垣を築いた人々は、新しい都のあるじに期待をしていました。

「平家にあらずんば人にあらず」の言葉に代表されるように、刃向かう事も、文句を言う事もできなかった時代を経て、「何かが変わる」という思いがあったのでしょう。

Kisoyosinaka500ast しかし、その期待を義仲軍はみごとに裏切ってくれちゃいます。

都には北陸の兵士たちがあふれ、人家に押し込んでは略奪・暴行、そして、ようやく刈り入れ間近になった稲を青田刈りして、馬の餌にする。

「これなら、まだ平家がいた頃のほうがマシだった」という人も出る始末。

この北陸の兵士たちの評判の悪さは即、義仲の評判の悪さとなっていきます。

牛車の乗り方も知らず、車の中で転倒したままワケのわからん事を大声でどなり続けたとか、公家に対する口のききかたがなってないとか、『平家物語』『源平盛衰記』も、口をそろえて悪口を書きたてます。

しかし、私は一・義仲ファンとして、男前の彼をそんなアホだとは思いたくはありません。

都の人々も新しいあるじに期待していたかもしれませんが、北陸の兵士たちも華やかな都に期待していたはずです。

ところが来てみれば、昨年からの大飢饉で食べる物も満足するにはほど遠く、故里・北陸で夢見ていた煌びやかな都とはかけ離れた世界だったはずです。

今とちがって、都のウワサが何年もかかって地方にやっとこさ伝わるような時代です。

育ってきた環境も、つちかってきたポリシーも、言葉さえも違います。

おそらくは、ある事無い事、悪口ばかりを書きたてている『平家物語』『源平盛衰記』が、ある程度事実を伝えているとしても、先程の牛車の一件や、口のききかたの一件なんかも、都の人間が義仲のしゃべる北陸弁がわからなかっただけにすぎません。

彼は、相手に合わせて態度を変えて、うまく世渡りしていくような器用さは持っていませんし、顔で笑っておきながら水面下で策略や陰謀を張り巡らせてばかりいる都会人を巧みに操る戦術も身につけてはいなかったでしょう。(そこがイイとこなんです)

ただ、二歳で孤児になってから、兄弟のようにして育った樋口兼光今井兼平らと木曽の野山を駆け巡りながら「天下とったるぞ~」っていう夢を、ひたすら突っ走ってきただけなんだと思います。(そこがイイとこなんです)

しかし、ここに、地方育ちでありながらも緻密な計算力と冷静な判断力を持ち、海千山千の都会人を巧みに操る人物が後白河法皇と接触します。

そう、鎌倉にいる源頼朝です。

義仲に手を焼いた後白河法皇は、義仲に平家追討の命令を下し西の方へ追いやっておいて、その間に頼朝に都に来るように要請します。

しかし、今の都の状態では、自分も義仲の二の舞になる事を予感していた頼朝は、近畿地方の飢饉を理由に上洛を延期します。

そして逆に、朝廷に「東海・東山・北陸の国衙(国の領地)と荘園を、もとの国司に返還せよ」という命令を出してくれるよう要請します。

源平の内乱が始まってからというもの、各地からの年貢が届かず、貴族たちは困り果てていました。

東海や北陸は飢饉ではなかったので、この命令が守られると飢饉にあえいでいた後白河法皇はじめ貴族たちはウハウハです。

朝廷は、ご丁寧に『この命令に従わない者には、(頼朝が兵を出して)必ず実行させる』という文章をつけて命令を発布します。

これによって頼朝は、鎌倉にいながらにして、『朝廷の直属である事』『源氏の大将である事』『軍を進める大義名分』そして、何より『都の貴族たちのご機嫌とり』・・・これらすべてを手に入れる事に成功したのです。

この後、頼朝の弟・源義経が大将となり、年貢の事を名目に、兵を進めていく(1月16日参照>>)のですが、その前に、木曽義仲と後白河法皇の決定的な亀裂が・・・の話は、11月18日のページでどうぞ>>
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

木曽義仲軍乱暴狼藉事件の真相

いわゆる源平合戦の頃、木曽義仲軍のみが京都で乱暴狼藉を働いたというのが平家物語その他の書物による通説になっていますが、これは平家物語やその解説者の捏造(つくりばなし)です。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉通り、勝者に都合の悪いことは歴史物語、歴史書に記述出来ない。敗者については悪事を強調し捏造しても記述される。
1.平家物語や「玉葉」にも平家軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。(北国下向の場面)
2.平家物語延慶本には鎌倉軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。(梶原摂津の国勝尾寺焼き払う)
3.「吉記」には義仲軍入京前に僧兵や京都市民の放火略奪の記述がある。
4.「愚管抄」には義仲軍入京前に平家の屋敷への火事場泥棒や京都市民の略奪の記述がある。
 義仲軍入京後には放火略奪などの記述は無い。
5.「吾妻鏡」には鎌倉軍の守護・地頭の乱暴狼藉の記述が多数ある。

つまり通説とは逆に義仲軍以外は全て乱暴狼藉を働いていた。平家物語は琵琶法師による庶民への語り物として広まった。その時庶民の乱暴狼藉を語る事は出来ない。

「玉葉」は九条兼実の日記です。
「吉記」は吉田経房の日記です。
「愚管抄」は慈円の歴史書です。
「吾妻鏡」は鎌倉幕府の公式記録(北条氏より)とされています。

参照
詳細は「朝日将軍木曽義仲の洛日」
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/
http://www.geocities.jp/qyf04331/
http://asahishogun.cocolog-nifty.com/

投稿: 義仲弁護人 | 2008年4月17日 (木) 09時29分

義仲弁護人さん、ご訪問ありがとうございます。

義仲弁護人・・・私が名乗りたいです。

他のページも読んでくださると、わかっていただけるかと思いますが、それくらい、私も義仲が大好きです!

義仲さんの汚名を晴らすには・・・
「愚管抄」が「吾妻鏡」よりも、正史に近い事を、いかに推すかにかかってますね~

投稿: 茶々 | 2008年4月17日 (木) 15時04分

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