ヤマトタケルは実在したか?
景行四十年(110年?)7月16日に、景行天皇が息子の日本武尊に東方征伐の命令を下しました。
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日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、日本の歴史の波に飲まれ、ある時は実在した英雄と言われ、ある時は架空のおとぎ話の主人公とされてきました。
『日本書紀』では「日本武尊」と表記され、『古事記』では「倭建命」と表記され、どちらも『ヤマトタケルノミコト』と読みます。
古事記によれば、ヤマトタケルノミコトは、景行天皇と針間の伊那毘能大郎女(イナビノオオイツラメ)との間に生まれた双子の兄弟の弟です。
兄が大碓命(オオウスノミコト)、弟が小碓命(ヲウスのミコト)。
このヲウスノミコトが顔色一つ変えず平気な顔で兄を殺してしまった事に恐怖を感じた景行天皇は、すぐにヲウスノミコトに西方の熊曾に住む熊曾建(クマソタケル)の征伐を命令します。
建(タケル)というのは、猛々しい強い者という意味で、みごと、クマソタケルを討ったヲウスノミコトは、この時から、『ヤマトの猛々しい者』という事で、ヤマトタケルと名乗ります。
そして帰り道で、出雲建(イヅモタケル)も討ち負かして都へ帰ってきますが、旅のつかれを癒す間もなく、景行四十年(110年?)7月16日、東方征伐の命令が下る事になります。
この時、ヤマトタケルは「父は私が早く死ねばいいとでも思っているのだろうか」と嘆きながら、命令が出てから、わずか2ヶ月半後の10月2日に東方の征伐に出発しています。
この後半のヤカトタケルノミコトは、あの、兄を平然と殺害した前半のヲウスノミコトとは、まるで別人のように天皇の命令には従順に働きますね。
そんな別人のように変わる人が神話の中にもうひとりいました~。
そう、スサノオノミコトです。
彼も、高天原で大暴れして、姉のアマテラスオオミカミに岩戸隠れまでさせて、高天原を追放されたのに、追放されて出雲の国に降りてきてからは、ヤマタノオロチを退治して、草薙の剣をアマテラスオオミカミに献上して・・・と、まるで別人のように従順になります。
これは、ヤマトタケルノミコトもスサノオノミコトも、古事記・日本書紀の筆者によって作り上げられた架空の人物・・・というよりは、多数の実在の人物をモデルにして、それらを一人の人物として表した結果のように思えてなりません。
スサノオノミコトは、出雲の国の建国と大和朝廷の支配下になる過程を一つの人格としたもの、ヤマトタケルノミコトは、西方の国々と東方の国々を支配下に治めたそれぞれの過程を一つの人格としたものなのではないでしょうか。
『旧唐書』の倭国日本伝には、『倭と日本は別の国である』と記されています。
日本は、倭より東、つまり日の本にあったという事になっています。
『倭』『日本』『大和』このすべてをヤマトと読むのは、それぞれの国の出来事をひとつの物語にまとめあげた名残りなのではないかと思えてならないのでます。
HPでは、大和朝廷によって、経歴査証や存在抹消された神様たちについてヤマトタケル以外にも色々書いています。
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