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2006年7月24日 (月)

斉明天皇の心の内は…

 

斉明七年(661年)7月24日、第37代・斉明天皇が九州・朝倉宮にて、崩御されました。

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この天皇の68年の生涯は、自分の心とはうらはらに、まわりの人物たちによって波乱に満ちた物になりました。

斉明天皇は、宝皇女(たからのひめみこ)という名前で、女性です。

最初は高向臣(たかむくのおみ)という人物と結婚していましたが死別して、田村皇子(後の舒明天皇)再婚したのが32~3歳の頃

この結婚がすでに、彼女の心の内とは関係のない蘇我蝦夷(えみし)の計らいでの結婚でした。

この頃在位していた推古天皇には、二人の次期天皇候補がいました。

田村皇子ともうひとり、聖徳太子の子・山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)です。

理想主義で豪族を排除し、皇室を重視する聖徳太子の考えを受け継ぐ山背大兄皇子は、蘇我蝦夷にとって目の上のたんこぶ・・・当然、蝦夷は性格がおとなしく扱いやすい田村皇子を押しますが、天皇になるには、ふさわしい皇后も必要です。

田村皇子には、蘇我馬子の娘・法提郎女(ほていのいつらめ)が嫁いでいて、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)という男の子をもうけていましたが、推古天皇の例もあり、いざという時、天皇になる事も考え、皇后に立つ女性は天皇家の血をひく人でなくてはなりません

それで、敏達天皇の曾孫で、やっぱり扱いやすい宝皇女との結婚を勧めたのです。

蘇我蝦夷のもくろみどおり、推古三六年(628年)に推古天皇が亡くなった後、田村皇子が舒明天皇として即位し、宝皇女が皇后になります。

この頃から蘇我蝦夷の政界における実権は確実に増強していきます。

そして、舒明十三年(641年)に舒明天皇が亡くなった後、皇后の宝皇女が第35代・皇極天皇として即位します。

この頃には、蝦夷の息子・入鹿(いるか)も政界に登場して、先の山背大兄皇子一族を滅ぼし、ますます蘇我氏の天下で、天皇が新嘗祭(新米を神に供え五穀豊穣を祈願する皇室の行事)を行った同じ日に、蘇我氏は蘇我氏で新嘗祭を行うなど、露骨に、その権力を見せつけるようになりました。

そんな蘇我氏にブチ切れたのが、皇極天皇の息子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・・・露骨な事をされながらも、のほほんとしていたお嬢様の心の内とは関係なく、クーデターは決行されました。

そう、乙巳(いっし)の変蘇我入鹿暗殺事件です(6月12日参照>>)

この時の皇極天皇の驚きぐあいから見ても彼女はクーデターの事は知らなかったし考えてもいなかっただろう事がわかります。

クーデターの後は、皇極天皇の弟・軽皇子(かるのおうじ)が即位して孝徳天皇となります(6月14日参照>>)

しかし、ここからは、案の定、クーデターを決行した中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかわたり)実権を握り、蘇我氏よりだった兄の古人大兄皇子も滅ぼしてしまいます。

そして、飾り物のように無視をされた孝徳天皇は失意のまま10年とたたない間に亡くなり、今度は、またまた本人の気持ち関係なく、斉明天皇元年(655年)1月3日再び宝皇女が斉明天皇として即位しました。

今度の天皇はお母ちゃんですから、遠慮なしに中大兄皇子も政治やりまくり?・・・でも、今回は斉明天皇も負けてません。

Dscn1566←斉明天皇の頃に造営されたとされる亀型石造物

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多武峯
(とうのみね)新宮殿を築いたり岡本宮の東の山に石垣を造ったり吉野離宮を造ったり・・・土木事業に勤しみました。

しかし、これがまた評判が良くなかった・・・。

石垣の石を運ぶために造った溝を人々は、天皇の身勝手な土木工事だと、その建造物を「狂心(たぶれごころ)の溝」と呼んだといいます。

人手と費用がかかったわりには、あまり意味のない物だったのかも知れません。

そんな時、先の孝徳天皇の息子・有間皇子が謀反の罪で死刑となります(11月10日参照>>)

またまた、皇極天皇の感知しない所で、甥っ子が邪魔者として排除されたのです。

それから、間もなくの斉明六年(660年)・・・政局は急展開を迎えます。

朝鮮半島で、新羅(しらぎ)の連合軍に敗れた百済(くだら)救援を求めてきたのです。

今までの付き合い上、無視するわけにもいかず、わが国も朝鮮半島への出兵を覚悟し、護りを固めるため、天皇自ら大船団を組んで九州に出発します。

もちろん皇太子・中大兄皇子もお供します。

斉明七年(661年)、斉明天皇68歳の正月の事でした。

到着後、いったん磐瀬(福岡県)に落ち着いた後、5月には、朝倉の宮殿も完成します。

しかし、朝倉に移ってから、わずか2ヶ月後の斉明七年(661年)7月24日・・・斉明天皇はその生涯を閉じてしまうのです。

ことごとくまわりの人間関係に振り回された感のある女帝の生涯・・・ひょっとしたら、彼女自身は政治になんて興味がなく、ただ、普通の、良き妻、良き母、良きおばあちゃんでありたかったかもしれませんね。

百済救援の出兵をした【白村江の戦い】について8月27日のページへどうぞ>>
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