蓮如、吉崎に道場を建立
文明三年(1471年)7月27日、浄土真宗の僧・蓮如が越前・吉崎に道場を建てました。
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蓮如は室町時代の僧で、本願寺八世、女人往生を説いた人です(3月25日参照>>)。
よく『北陸同行に安芸門徒』と言われるように、北陸一帯は浄土真宗の盛んな所ですが、昔からそうだったわけではなく、それにはやはり蓮如が深く関わっているのです。
寛正六年(1465年)、京都の比叡山・延暦寺の弾圧によって、大谷廟が焼かれ、蓮如は近江・堅田から北陸へと逃げ、加賀と越前の境・吉崎に落ち着きました。
それまででも、仏教には多くの宗派がありましたが、布教の対象はほとんど貴族や武士で、農民層はまったくと言っていいほど無視されていて、農民を布教活動の中心に据えたのは浄土真宗が始めてでした。
浄土真宗の開祖は親鸞(11月28日参照>>)ですが、親鸞が布教活動をしていた鎌倉時代は、農民は数の上では武士や貴族にまさるものの、社会的にも経済的にも、ほぼ奴隷に近いような状態でしたから、生きる事に必死で、いくら教えを説いても集まってくる農民は、そう多くはありませんでした。
しかし、南北朝・・・室町・・・と時代がたつにつれ、農民たちも今までの惨めな境遇から抜け出して、徐々に自分たちの生活を自分たちで築きあげていけるようになってきて、ここで始めて人間はいかに生き、いかに死ぬべきか、来世の事を考える余裕が出てきたのです。
ただ、そのような農民は、近畿地方にいるだけで、まだ全国的には鎌倉時代と、あまり変わらない状況でした。
でも、ちょうどその頃、そういった農民パワーが近畿の外へ広がりつつあった時期で、延暦寺の僧兵からの逃亡とは言え、ナイスなタイミングで蓮如さんは、北陸にやって来たことになります。
今まではほとんどの宗派から、無視されていた北陸の農民たちは、自分たちだけを救ってくれるという蓮如の教えにまたたく間に影響され、蓮如が吉崎に来てからわずか数年後に、北陸の農民のほとんどが、本願寺派の門徒となり、各村に『組』ができ、『組』が集まると『道場』をつくり寄り合いが行われ、『組織』ができあがっていくのです。
文明三年(1471年)7月27日、吉崎に道場が完成した後、その4年後の文明七年(1475年)には、蓮如自身は、吉崎をはなれ京に戻りますが(8月21日参照>>)、蓮如の手が離れても農民パワーは衰える事がなく、やがて彼ら農民は、農地を荒らし、年貢を徴収し、若い働き手を戦にかりたてる守護に対して、一致団結して「えぇかげんせぇ~」と、集団でブチ切れてしまします。
後に『百姓の叡智』と称される加賀の一向一揆・・・その始まりの始まりは文明六年(1474年)7月の文明一揆でした(7月26日参照>>)。
関連ページ
●吉崎の鬼面伝説…「嫁威し肉附きの面」
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