足利義満の「王権争奪計画」
延文三年(正平十三年・1358年)8月22日は、室町幕府三代将軍・足利義満さんのお誕生日です。
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足利尊氏が開いた室町幕府(8月11日参照>>)は、後醍醐天皇の南朝に対する北朝という言わば逆賊からのスタートでした。
南朝という最大の敵と戦いながら、幕府の中でも内紛が起こるという混乱を乗り越えて、応安元年(1368年)に、足利義満が11歳で室町幕府三代将軍になってから後は、徐々に落ち着き始めてはいました。(12月30日参照>>)
そして、将軍職を継いでから10年後、京都の室町に花の御所と呼ばれる華麗な邸宅を建設し、そこで政治をおこなった事から、この時代は室町幕府と呼ばれます。
官僚や侍所、政所といった政治機関を足利一門で固め、京常駐では最大規模の『奉公衆』という将軍・親衛隊まで持つ事になり、ついに明徳三年(1392年)、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇(10月20日参照>>)に皇位を譲る形で、南北朝時代は終わりを告げます。
その間すでに、義満は宮中に参内した時に武家のマナーではなく、公家のマナーで天皇と接したり、次期天皇の即位の大礼の日程を決めたり、元号を決定したりと、うさん臭さ丸出しの行動をとっています。
やがて、応永元年(1394年)、37歳の若さで将軍職を息子の義持に譲り、朝廷から任命された最高官である『太政大臣』を、翌年すぐに辞退してしまいます。
武家と公家、両方の最高職を蹴った事になるわけです。
これは、将軍や太政大臣より上の地位を狙っていた証拠とも言えますねぇ~。
しかし、それより上の地位というのは、天皇しかありません。
その直後、義満の邸宅を訪れた関白・一条経嗣が、決定的な場面を目撃してしまいます。
それは、参議に昇進した西園寺実敦が邸宅の庭で舞を舞っていて、それを義満が見ている・・・という場面。
これは「拝賀奏慶(はいがそうけい)」という物で、新しい官職に任命された公卿が謝礼の意味で舞を舞う、という儀式のような物で、当時めずらしい事ではありませんでした。
ただ、それは上皇に対して行う儀礼であって、未だかつて将軍の前では、ただの一度も行われた事はなかったのです。
そのうち、義満は右大臣や内大臣の任命まで行うようになります。
そして、応永八年(1401年)義満は、明との国交を開きますが、明の皇帝からは「日本国王」としての扱いを受け、自分自身も皇帝に対して「日本国王臣源」と署名しています(5月13日参照>>)。
いよいよ義満が天皇になる日も近いのでは?・・・と思いきや、応永十五年(1408年)あっけなくこの世を去ってしまいます。
それまで日本の歴史上、天皇をしのぐ権力を持った人は何人もいます。
しかし、天皇にとって代わろうとした人は、まずいない。
はたして、義満が本当に天皇になりたかったかどうかは、「本人のみぞ知る」・・・といったところでしょうか。
今となっては、状況証拠による憶測でしかありませんが・・・
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コメント
茶々さん、こんばんは!
今日は足利義満の誕生日なんですか!
史上最強の独裁者の!!
彼はいろいろなしがらみを無視して、とにかく自分に得になるように動いてますよね!
朝貢貿易とかw
あっけんからんとしてていいですね、分かりやすいw天皇…狙ってそうですよね☆
義満と義政だったら義満の方が私は好きですw
義政はぐだぐだしてて嫌だ…。
私も平城京行きました!せんとくんと握手しましたヽ(´▽`)/お盆に行ったので、混んでました…。
その一週間前は、大坂城行きましたよ!
秀吉さんの兜かぶりましたw
京都で秀吉さんゆかりの場所も巡りました!
方広寺や高台寺、豊国神社にも行きました!
あと、豊国廟も…。
階段ヤバイですね、死ぬかと思いました。そのぶん達成感もありましたが!
来年は長浜に行ってみたいです!
茶々さん、いろいろと教えてくださり有難うございました。時間があるときまたじっくりと廻りたいです。
やぶひびさんもアドバイス有難うございました!機会があったらそちらにも行きたいです。
長々とすみませんでした。
投稿: 暗離音渡 | 2010年8月22日 (日) 21時45分
暗離音渡さん、こんばんは~
そうですか…行ってこられたのですね。
いろいろ楽しまれたようで、良かったです。
投稿: 茶々 | 2010年8月22日 (日) 22時39分
足利義満は見かけ(肖像画)に似合わず策士だと思います。京都に幕府を置いていたので、公家社会とのつながりもできたんでしょうね。そのせいか時代が下ると、足利家自体がだんだん「貴族化」したような気もします。
投稿: えびすこ | 2011年5月14日 (土) 09時07分
えびすこさん、こんにちは~
やっぱり、義満の時代が全盛期でしたね~
投稿: 茶々 | 2011年5月14日 (土) 16時05分
『BS歴史館』の足利義満の回(1月24日)面白かったです。出演者がしばしば熱くなりがちなこの番組ではわりと平静に話が進んだと思います。
番組では義満の「悪評」は同時代の貴族とか後世の南朝びいきの人たちが作ったもので、当時の世の中は混迷を極めており、有力貴族がまだ10代だった義満を貴族社会に引き込んでなんとか事態を収拾しようとしたこと、大陸では元が滅んで明が勃興し新しい国際秩序ができつつあり、そこへ義満も参入しようとしていたこと、などが語られます。また、義満にとっては天皇家は傀儡として独立してあったほうが何かと都合がよいのではないかという意見も出ました。
そうやってあの手この手で義満を弁護するのを見ると、今回の出演者もやっぱり熱い人たちなんだなと思います。
しかし当時の貴族の国際感覚のなさをかんがみれば、日明貿易を続けていくに当たっては義満が最高位に上り詰めていなくてはならない、と考える事もできるわけです。前にたしかNHKの番組で義満の死は暗殺かもしれない、と言ってましたが私も暗殺はありだと思います。そして日本人の国際感覚は今も大して進歩していないもかも。
ちなみに再放送は2月1日午前8時からです。
投稿: りくにす | 2013年1月25日 (金) 19時14分
りくにすさん、こんばんは~
そうですね。
南北朝の時代だけに、義満の評価もイロイロあるでしょうね。
また、後を継ぐ義持が、父の政策を受け継がないところが「暗殺」を臭わせる感もあります。
再放送、チェックしときますね。
投稿: 茶々 | 2013年1月25日 (金) 21時32分