鉄砲伝来で戦国が変わる
天文十二年(1543年)8月25日、、種子島に中国船が漂着、乗っていたポルトガル人より、鉄砲が伝えられました。
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昨日までの暴風雨がうそのように、その日の種子島は台風一過の晴天に恵まれていました。
そんな大隅国・種子島・西村浦に昨日の台風で被害を受けた一艘の商船が漂着します。
最初は、普通の船だと思ってのんびり見ていた村人たちは、船が近づいて来るにつれ、その見た事もないような造りにびっくり仰天!
おそるおそる様子を見ていると、その船から異国の人々が次々と下りてくる・・・。
「中国人だ!」「この船は中国船だったんだ!」
村中が大騒ぎになる中、上陸した約百人の乗組員の中に見た事もない人たちが2~3人混ざっていました。
赤い毛、青い目、誰とも言葉が通じない・・・村人の驚きはさらにアップする。
あわてて駆けつけた村領主・西村織部丞(おりべのじょう)が、昔、勉強した漢文をたよりに、砂浜に文字を書いて、中国人とみられる船員に「船中の客人はどこの人なのか?」と訪ねます。
中国人は「この人たちは、西南蛮の商人である」と、答えました。
当時は、東南アジア(カンボジアやタイのあたり)の事を南蛮と呼んでいて、西南蛮とはそのもっと向こうのすべての地域を指していました。
もちろん、彼らはポルトガル人だったわけで、ポルトガルも西南蛮に含まれます。
西村は島領主の種子島時堯(ときたか)に連絡します。
この時、時堯=16歳・・・何でも興味津々のお年頃。
早速、ポルトガル人と謁見した時堯。
見た事も無い顔つき・・・見た事もない服装・・・しかし、時堯が一番興味を抱いたのは、彼らが大事そうに抱える黒い鉄の棒でした。
「これは、何だ?」
彼らは、一生懸命説明しますがらちがあきません。
「百聞は一見にしかず」とばかりに、ポルトガル人は城の庭で実射して見せます。
庭いっぱいに響き渡る轟音と、あらゆる物を一発でしとめるその威力を目の当たりにした少年は、目を輝かせ大興奮!
早速、大金をはたいて、彼らの持っていた2丁の鉄砲を、その場で購入します。
ここで時堯が、この鉄砲を家宝としてうやうやしく神棚にそなえたりなんぞしてたら、そこでストップしていたかも知れませんが、さすがに16歳の少年、そうはしませんでした。
島の鍛冶屋に1丁を渡し、分解して製法を調べるように命じたのです。
やがてその製法は、根来の僧・杉之坊によって内地に伝えられ、大阪・堺の町に伝わります。
そうなると日本人お得意の製品向上に向けての職人の腕が鳴ります。
ポルトガル人の持っていた鉄砲は、一発撃つたびに筒がばらけ、また組みなおして次に撃つ・・・といったような物でしたが、あっと言う間にその難点を克服した本家よりスゴイ改造型を作ってしまいます。
しかも、アッと言う間に、それを大量生産するシステムも開発し、『種子島』という名前で販売されるようにまでなるのです。
こうして、南の島に伝わった、たった2丁から始まった鉄砲は、やがて戦国の戦い方を一変させてしまう・・・これは、もう皆さん、ご存じですよね。
●鉄砲伝来は種子島じゃない?という話については
2009年8月25日【異説とその後】をどうぞ>>
●火縄銃・種子島のご使用方法については
11月29日【火縄銃取扱説明書】をどうぞ>>
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