古代海外出兵・白村江の戦い
天智称制二年(663年)8月27日、日本+百済軍が唐+新羅軍に白村江の戦いで敗れました。
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斉明天皇五年(659年)の頃、朝鮮半島では、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、百済(くだら)の三国がたがいに、しのぎをけずっていましたが、ここに来て、百済と高句麗に多くの城を奪われた新羅が唐に助けを求めます。
年号も唐に合わせすっかり唐の傘下に収まっていた新羅は、唐の高宗から十万の援軍を得てその年の7月に百済を攻撃。
唐も同時に海路から攻撃を仕掛けます。
挟み撃ちされた百済は、次々と城を奪われ、やがて百済王・義慈(ぎじ)は捕虜となって唐に送られ、ここに百済は滅亡しました。
しかし、一つの国が一発でそう簡単に滅ぶわけもなく、その後も朝鮮半島での生き残りたちが、百済の復活を願って、各地でテロを起こしたりしていました。
そんな彼らが、復興の旗印として白羽の矢が立てたのが、当時、日本に滞在していて難をまぬがれた義慈王の息子・余豊章(よほうしょう)でした。
彼を、王として担ぎ上げ、日本の救援を得て再び百済を再生しようと考えたのです。
日本の朝廷は議論の末、百済の救援を承諾・・・つまり、唐・新羅を相手に戦う事を決断します。
天皇自らが指揮をとるべく、斉明天皇七年(661年)正月、大船団を組んで出兵の拠点となる九州へ出発しました(7月24日参照>>)。
九州に着いて、間もなく高齢のためか斉明天皇が亡くなりましたが、息子の中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)が引き続き指揮をとり、将軍・安倍比羅夫(あべのひらふ)を豊章とともに日本海へと送り出しました。
しかし、日本軍は、唐軍の待ち受ける白村江(はくすきのえ・朝鮮半島の西側の沖)に吸い寄せられるように船を進め、見事に負けてしまいます。
唐の書物には・・・
「倭の船四百隻を焚く、煙焔 天にみなぎり、海水皆赤し」
と、記され、戦闘の激しさが伺えます。
これによって百済という国は完全に滅亡してしまいました。
その後、中大兄皇子は本土決戦を視野に入れて、九州に防人を置いたり、大宰府を始め西日本の各地に朝鮮式の城を築きます。
幸か不幸か、この時の百済からの大量の亡命者により、日本に大陸の様々な技術が輸入される結果となりました。
白村江の戦いにが敗戦となった要因については、2008年の8月27日で書いておりますのでコチラからどうぞ>>
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