千島最北端に初の上陸!
明治二十六年(1893年)8月30日、郡司成忠海軍大尉ら一行が、千島列島の最北端に位置する占守島に到着しました。
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当時は、まだ手付かずの状態だった千島列島に漁業基地を置く事を考えた郡司成忠は、開拓団を組織しようと仲間に声をかけます。
趣旨に賛同して集まった人は60人程で、その中には南極探検(1月29日参照>>)で有名な白瀬矗(しらせのぶ)もいました。
最初は海軍の船で出発する計画(海軍大尉ですから・・・)でしたが、それがうまく行かず、なんと、無謀にも東京・隅田川からボートでの出発となりました。
ボートって・・・他に何とかならなかったのか?という思いもありますが・・・とにもかくにも、大勢の見送りを受け、明治二十六年(1893年)3月20日に出航します。
しかし、岩手沖で暴風雨に見舞われ18名の隊員が死亡・・・居合わせた軍艦・磐城に助けられ、からくも函館に到着します。
函館からは、あまりにもボートが無謀という事で、定期船や民間船に便乗させてもらいながら、択捉島・斜古丹島へと上陸します。
ここで、希望した9名が島に残り、やっと乗船が許された軍艦・磐城に再び便乗し、最北端をめざしました。
そして、いよいよ明治二十六年(1893年)8月30日・・・最北端に位置する占守島(しゅむしゅとう)に足を踏み入れたのです。
当時としては、大変な快挙で、郡司大尉の名前は一躍有名になりました。
しかし、彼らの探検はこれで終わったわけでは、ありませんでした。
そうです・・・越冬です。
漁業基地にするためには、越冬して様々な調査をしなければなりません。
日本人初の北千島越冬は壮絶なものでした。
食料事情もままならない中での探検調査・・・。
占守島は何とか無事だったものの、斜古丹に残った9名は全員死亡という悲惨な状態でした。
翌年、日清戦争の勃発により、郡司は帰還を命じられ、後のことを白瀬に託して彼は帰りました。
2度目の越冬も死者を出し、最終的に50余名の犠牲をはらいながらも、カムチャッカ南部の調査に加え、千島の経営の貴重な資料を得て、調査としては満足な結果が得られたとして、明治28年(1895年)に残っていた全員が帰還しました。
この探検をきっかけに千島経営は、本格化していく事になります。
ちなみに、余談ですが、郡司成忠大尉は、あの文豪・幸田露伴のお兄さんだそうです。
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