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2006年8月20日 (日)

三笠の山に出でし月かも…安倍仲麻呂、唐へ

 

養老元年(717年)8月20日、遣唐使・安倍仲麻呂(中国)へ出発しました。

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ご存知だとは思いますが、この遣唐使というの簡単に言えば日本から中国への留学制度です。

推古十五年(607年)に聖徳太子が、第1号の小野妹子を派遣(7月3日参照>>)してから、寛平六年(894年)に廃止される(9月14日参照>>)まで、300年近くの長きにわたって実施されていました。

途中、中国で隋が滅び唐になったため名前も、最初の遣隋使から遣唐使に変わります

全盛期には、数百名が4艘の船に分乗して海を渡りました。

ただ、そのうち純粋の遣唐使は百名くらい・・・純粋の遣唐使というのは、国が外交目的で派遣する今でいうところの外交官のような人と、特に優秀な人材でコイツには先進国で学ばせたいと思って100%国費で留学する留学生と僧です。

残りの4~5百名は、私費で渡る留学生や学問僧でした。

以前最澄のところで書きましたが(6月4日参照>>)最澄は国費、空海は私費で行ってます。

安倍仲麻呂(あべのなかまろ)も、養老元年(717年)8月20日20歳のときに私費で留学しました。

・・・とはいえ、かなり優秀な人であったらしく、当時の都・長安で、儒学や算術・法律といったさまざまな学問をマスターしていき、現地の中国人でもなかなか受からない役人の試験・科挙(かきょ)にも合格しています。

やがて仲麻呂は、時の皇帝・玄宗の右腕として働き、高い位の役人へと上り詰めます。

しかし、いくら出世しても、生まれ育った故里への望郷の念は忘れる事がせきません。

唐にわたって十五年程の時に、日本からの遣唐使船がやって来たとき、玄宗皇帝に帰国を願い出ますが、その時は許しがでませんでした。

その次に遣唐使船がやってきたのは、二十年後・・・もう彼は55歳になっていました。

今度が最後のチャンスかも知れないと、ふたたび帰国を願い出ます。

さすがに今回は玄宗皇帝も、仲麻呂の年齢を考慮したのか、帰国の許しが出ました。

天平勝宝五年(753年)、勤めを終えた遣唐使たちを乗せて、4艘の船は唐の港を出発しました。

しかし、この時代、海を越える事はたいへんな事でした。

げんに、遣唐使船は全部で16回派遣されていますが、出発した4艘が4艘とも無事に帰還したのは、たったの1回だったと言われています。

それだけ、当時の東シナ海は、海の難所でした。

この時の4艘も、1艘は和歌山に、次に鹿児島に漂着。

3艘めも、歳月はかかったものの日本に無事到着しました・・・ちなみに、この遅れて帰ってきた船に鑑真が乗っていたと言われています(12月20日参照>>)

しかし、残念ながら仲麻呂の乗った船はベトナムに漂着してしまいます。

しかも、海賊に襲われたり、病気にかかったりで、無事長安に戻れた者は10人ほどでした。

仲麻呂は、命があっただけでもラッキーだったのかも知れません。

しかし、結局その後、日本に帰ることはできませんでした。

Dscn0699_2♪天の原 ふりさけ見れば
  春日なる
 三笠の山に 出でし月かも

 

今、唐にいる自分が見ているあの月は、遠い故里の三笠山に出ている月と同じ月なんだ!

仲麻呂の故里への思いが伝わってくる一首です。
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