なにわのことも夢のまた夢~豊臣秀吉が逝く
慶長三年(1598年)8月18日、百姓から天下人にまでのぼりつめた、あの豊臣秀吉が63歳で、その生涯を閉じました。
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秀吉が病に倒れたのは、慶長三年(1598年)の端午の節句の後でした。
最初はそんなに思い病気だとは、誰も思っておらず、年のせいでちょっと体長を崩したかな?・・・という感じでした。
現在では、秀吉の病気は、肺結核か気管支炎などの呼吸器系の病気だったのでは?と言われていますが、ともかく7月2日には、意識がなくなり、一旦危篤状態になります。
その後、意識を取り戻した秀吉は、このままで、ふたたび意識がなくなっては、えらいこっちゃ!とばかりに、大阪城と伏見城に大名を集めて、十一ヶ条の『覚書』を提示して、五大老に遺言を残し、五奉行を任命します。
7月15日には、諸大名に秀頼への忠誠を誓う誓詞を要求し(7月15日参照>>)、
8月9日には、皆の前で、しっかりと今後の事を話した(8月9日参照>>)秀吉・・・
それでも、秀吉の心残りは、やはり、まだ6歳だった息子・秀頼の事・・・自分自身が織田信長の死後にとった行動を思い出した事でしょう。
秀吉は、信長が本能寺で自害(6月2日参照>>)した時、大急ぎで京に戻って(6月6日参照>>)、山崎の合戦で明智光秀を討ちました(6月13日参照>>)・・・
そして、織田家の後継者を話し合う『清洲会議』(6月27日参照>>)・・・
この時、秀吉は、織田家の重臣・柴田勝家の押す信長の三男・信孝を退け、わずか3歳の孫・三法師を担ぎあげました。
後見人として、実権を握る目的です。
そうやって、織田家を見守るポーズをとって、結果的には、自らが天下を握ったわけで・・・
今度は、自分の跡継ぎが、わずか6歳です。
その時の自分自身が走馬灯のように浮かんだに違いありません。
『かえすがえす秀頼の事、頼み申し候。
五人の衆頼み申し候。
委細、五人の者に申し渡し候。
名残惜しく候。』
天下人の遺言にしては、悲しいまでに幼い息子を心配している様子が伝わってきます。
この五人の衆というのは、五大老・・・徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の五人です。
五人の者というのは、五奉行・・・石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家の五人。
特に、まだ足軽だった頃からの友人・前田利家には、その手を握り「どうか、秀頼を護ってくれ」と何度も何度も頼んだと言います。
そして、慶長三年(1598年)8月18日・・・希代の出世男・豊臣秀吉は息をひきとりました。
しかしこの後、秀吉の思いもむなしく、五大老のひとり・徳川家康が大阪夏の陣(5月8日参照>>)で、淀君・秀頼親子を自害に追い込む事になります。
♪つゆと落ち つゆと消えにし
わが身かな
なにわのことも 夢のまた夢 ♪
秀吉辞世
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コメント
ご丁寧にコメント有り難うございました。
拙ブログに書きましたとおり、ちょっと、エッセイを寄稿したもので、是非、ご覧頂きたく、毛利輝元とは少し、違うかな・・・とも思ったのですが、秀吉の命日と言うことで、これも何かの縁だろうと思い、厚かましくもTBさせていただきました。
これに懲りず、今後とも宜しくお願い致します。
投稿: へいたらう | 2006年8月18日 (金) 16時31分
へいたらうさん、TB&コメントありがとうございました。
歴史関連の書籍とかエッセイなど書いておられるとか・・・あこがれますね。
こちらこそ、これからも宜しくお願いします。
投稿: 茶々 | 2006年8月21日 (月) 01時20分
たくさんいた側室たちが秀吉没後にどうなったかあまり知らないのですが、そのうちの1人・松の丸殿こと京極龍子は(番組の筋書きでは?)実家に戻ったんですね。他の人はどうなったんでしょうか?
気が付くと淀殿1人が大坂城に留まった感の印象です。大河ドラマではあまりここに触れないので少し気になっています。
投稿: えびすこ | 2011年4月19日 (火) 22時30分
えびすこさん、こんばんは~
そうですね~
あまり、その後はドラマでは描かれませんね~
戦国の女性として、夫が亡くなったのだから出家するという人もいたし、武家の娘で若ければ、再び別の人にお嫁に行った人もいましたね~
まぁ、普通の生活をしてれば記録には残らないって事もあるでしょうし…やはり、嫁いだ相手が出世するとか、何かの出来事に絡むかしないと、ドラマでは描き難いでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年4月20日 (水) 01時14分
豊臣秀吉の晩年に関することで気になったことがあるのですが、失禁を度々したらしいというエピソードがあるのをご存じありませんか? というのは、数々のNHK大河ドラマにおいて、秀吉が失禁をしてしまうシーンを見たことがあるからです。確実なのは、10年前に放送された「功名が辻」で、柄本明さんが演じた秀吉が、失禁をしてしまうシーンを見ました。あと、29年前に放送された「独眼竜政宗」では、今は亡き勝新太郎さんが演じた秀吉が、失禁をしてしまうシーンを見ました。これらを総合的に見て思ったのは、秀吉は、老化によるものが原因で、失禁を度々してしまうようになった可能性が高いかもしれません。同時に秀吉は、本質的には、心の弱い人だったような気がしてなりませんでした。元気でいるうちは、物事に対して、前向きな考えで突き進むことができますが、その逆になってしまうと、老化が原因とはいえ、精神的に脆くなってしまうことの恐ろしさを痛感してしまいましたね。
投稿: トト | 2016年1月26日 (火) 11時10分
トトさん、こんにちは~
秀吉の死に関する事で、現在残る史料から推測される死因は「脚気」が1番有力ですが、未だ確定はされておらず、今後の新発見の史料が待たれる段階です。
最有力が「老衰」で無い以上、失敗があったとしても老化ではなく、その病気による物と考えられると思います。
トトさんは、「失禁」=「かなり老化」=「恥ずかしい」と連想されているみたいですが、現代ではかなりサポートが整っているので目立たないし、あえて自分から発表しないだけで、老化まで行かなくとも、ある程度の年齢になったら、アブナイ事が多々あると思いますよ。
当時は、テレビCMでやってるような見た目にわからないカッコイイ紙パンツも無いですし、尿モレパッドなんかも無いですから、失禁するとすぐに周りにバレちゃって恥ずかしいって事もあったかも知れませんが、そのぶん、それほど特別な事では無いように思います。
本文にも書かせていただいたように、7月には、意識不明となって一時は危篤状態になったにも関わらず快復し、死の1週間前でも、家臣たちを集めて、今後の事についてしっかり話しているので、「功名が辻」で描かれたほど老人っぽくな無かったんじゃないかな?と思ってます。
ただ、さすがに調子良い時と、悪い時とあったでしょうね~病気でもあるし、死ぬのが怖いというのは古今東西共通ですしね。
投稿: 茶々 | 2016年1月26日 (火) 17時20分