万葉の貴公子・大伴家持
延暦四年(785年)8月28日、万葉集の編さんで知られる大伴家持が亡くなりました。
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大納言・大伴旅人(たびと)の嫡子として生まれた大伴家持(おおとものやかもち)は、父を早くに亡くしましたが、母親がわりの坂上郎女(さかのうえのいつらめ)が常に身近にいて、けっこう裕福な恵まれた環境で育ちました。
そんな家持が国守として越中(富山県)の地に派遣されたのは、30歳前後の頃。
天平十八年(746年)から天平勝宝三年(751年)の5年間を、国守として富山で過ごします。
家持の57年の人生でのたった5年間ですが、この富山での生活は彼にとって特別なようです。
なぜなら、全万葉歌の1割を占める家持作の歌の中で、約半数をここで作っています。
歌の専門家によれば、帰京後の歌のできばえは、かなり低落し、一説には、万葉集の編さんの仕事さえ、この地でやったのでは?という話もあるくらいです。
しかし、そんなノリノリの時期だった富山時代も、実は二つの思いを持っていました。
♪春の日に 萌れる柳を
取り持ちて
見れば都の 大路思ほゆ♪
♪東風 いたく吹くらし
奈呉の海人の
釣する小舟 漕ぎかくる見ゆ♪
この二首の歌。
一つ目は、「都恋しい!早く帰りた~い」と言ってるように思え、二つ目は、「この海の景色めっちゃキレイやん!」と言ってるみたいに聞こえますね。
私も、大阪生まれの大阪育ちでありながら、仕事の関係で10年間富山で暮らした時、まさに同じ思いでした。
慣れ親しんだ故里に思いを馳せる反面、富山の自然の美しさには感銘をうけました。
しかも、彼は富山の冬が特にお気にめさなかったようで、あんなに歌を詠んでおきながら、冬の歌はほとんどありません。
(私は、生まれて初めて見る大量の雪にけっこう興奮してましたが・・・(≧∇≦))
二つ目の歌に出てくる『東風』は、菅原道真の歌のように『こち』と読むのではなく、『あいのかぜ』と読みます。
これは、春に吹く富山湾独特の強風の事・・・地元では、その風を「あいの風」と呼ぶんです。
実際には台風みたいな強風で、音の響きから感じる優雅な雰囲気の風ではありませんが・・・
少し話しが寄り道してしまいましたが・・・
家持は越中での5年間のつとめを終えた後も、因幡、薩摩など遠国への勤務を命じられ、最後はみちのくの多賀城で、その生涯を閉じました。
その時は、都で起こった桓武天皇の側近・藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関わっていたとされ、冠位を剥奪され、葬式をあげる事さえ許されませんでした。
この事件は真犯人がわからないにもかかわらず十数名が死刑になったという謎の事件・・・結果的に、桓武天皇の弟=早良(さわら)親王(9月23日参照>>)を恐怖の怨霊にしてしまうアノ事件です。
結局、関わった人たちの罪が許されたのは、桓武天皇の次に天皇になった平城天皇の時代になってから・・・罪人である家持が編さんした万葉集も、やっとここで日の目を見る事になりました。
秀歌がたくさん収められた万葉集が、もしかしたらお蔵入りして、闇に葬られていたかも知れないと思うと・・・家持でなくても、ホッと胸をなでおろしますね。
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