八朔と家康、江戸入府
天正十八年(1590年)8月1日、徳川家康が江戸に入りました。
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『八朔』と書いて「はっさく」と読みます。
これは、8月1日の事・・・
八月朔日の朔日を「ついたち」と読み、それを縮めたものです。
この日、農家では、新しい穀物を収めて祝う『田実(たのみ)の節句』という行事が行われます。
このお祝いの起源は、様々な説があって決定打はないのですが、一番古い説では、承久の乱後の後嵯峨天皇(2月17日参照>>)が天皇になる前の不遇の時代(1230年代頃?)に、近臣の者が田実(稲の事)を献上して慰めたのを、即位後も恒例の行事にした・・・というのがあります。
鎌倉時代の後期の頃からは、武家の社会でもこの風習が取り入れられ8月1日を祝うようになります。
ことに、江戸時代からは、『徳川家康が江戸入りしためでたい日』という事で、幕府の重要な式典の日となりました。
ところで、家康さんが、豊臣秀吉から関八州を与えられた時(2008年7月13日参照>>)・・・
確かに秀吉の打診があったという話もありますが、最終的には、家康自らこの広い江戸の地を自分の本拠地にする事を決めました。
江戸には、太田道灌が築いた江戸城がありましたが(4月8日参照>>)、萱葺きの粗末な物で、畳や襖もボロボロでした。
その頃の江戸は、まだな~んにもない所だったんです。
小田原や鎌倉といった大都会をさしおいて、この地を選んだのは、やはり広大な関東平野。
家康さんは、もう出来上がった町ではなく、この広~い土地に、自分の思い描く通りの大都会を築きたいと思ったのでしょう(2011年7月13日参照>>)。
おかげで、とんでもないややこしい道路網になってしまいましたが、これは、京都や奈良のような碁盤の目をした道路の都ではなく、町全体が鉄壁の要塞となるような町並みにしたのです。
それでいて、四神相応の風水にかなった理想の町造りをして、鬼門には東照宮を配置し、自らが神となって悪霊から護っています。
(四神相応については、HPの古墳を知ろうのページへどうぞ>>>)
家康さんの思い描いた『千年の都』は、本当に『千年の都』になりましたね。
家康さんが、入府した当初は、約2千人だった江戸の人口は、5代将軍・綱吉の元禄の頃には百万人の世界一の大都市にふくれあがるのですから・・・
そして、平成の現在は・・・・。
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コメント
茶々さん、おはようございます。
家康の江戸入りですね~八朔にはそんなお祝いの起源があったんですね~勉強になります。
あの天才・太田道灌ですが、まさか当時はこれほどの東京の繁栄を想像していなかったでしょうね~。
また、江戸を風水都市として造営した天海僧正~そういえば、(江戸城としての)鬼門に上野の寛永寺、そして裏鬼門に目黒不動を配置しましたが、その2点を結ぶとなぜか国会議事堂の中心を通るらしいのです!
議事堂を建てた時も風水を考慮していたのでしょうか~偶然にしては・・・謎(?)です。
平安京をはじめ、陰陽五行・陰陽道は日本にかなり浸透していたんでしょうね~アメリカの首都ワシントンも風水都市でしたか・・・仰るとおり、四神相応の風水ってパワーがある気がします。
投稿: ルーシー | 2006年8月 1日 (火) 07時34分
ルーシーさん、いつもコメントありがとうございます。
一直線上に並ぶ話は、私も聞いた事があります。
レイラインとか言うのですね。
おっしゃるとおり国会議事堂もその事をふまえて建築されたのかも…
平安京も、猿ヶ辻、幸神社、上御霊神社、下鴨神社、赤山禅院、延暦寺・・・と、これでもか!というくらい鬼門にこだわってますからね。
こんなに科学が発達した現在でも、家を建てる時は、家相を気にしたりします。
投稿: 茶々 | 2006年8月 1日 (火) 15時26分