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2006年9月26日 (火)

織田信長、上洛!

 

永禄十一年(1568年)9月26日、織田信長が、足利義昭を奉じて上洛しました。

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永禄十年(1567年)の夏、斉藤家の内部分裂のゴタゴタという願ってもないチャンスを、織田信長は見逃しませんでした。

一気に稲葉山城を攻め落として、十年来の美濃制覇を成し遂げました(8月15日参照>>)

古代中国の周を統一した文王が、岐山を本拠地として天下を統一した故事を引用し、稲葉山城下町・井ノ口を岐阜と改め、難攻不落の稲葉山城をさらに難攻不落の岐阜城に造り替え、いよいよ天下取りを意識し始めます

この頃、父・後奈良天皇の火葬の費用さえままならないほど、家計が火の車だった第106代・正親町(おおぎまち)天皇などは、早くも信長に目を付け、美濃・尾張の御料所の復興や、息子の元服の費用などをムシンしています。

信長も、『天下布武』(天下に武をしく)というハンコを作り、それまで、書類や手紙などで使用されていた花押(サイン)の代わりに重要書類に使用するなど、天下取りの意志を内外に表明し始めまるのです。

(この時の信長さんのこの行動がなかったら、日本もハンコ社会ではなく、欧米のようにサインだったかも・・・)

そんな、昇り調子の信長の所へ、接近してきたのが、幕府再興をもくろむ足利義昭でした。

当時、義昭は、兄で13代将軍の義輝が暗殺された後(5月19日参照>>)奈良に幽閉されたいましたが、そこを脱出し越前(福井)朝倉義景の保護を受けながら(7月28日参照>>)「誰か自分を助けて京へ上ってくれる有力な大名ないないものか」と、せっせと手紙を書いていたのです。

上杉や武田といった名だたる武将はもちろん、僧兵のいる寺院にまで手紙を書きましたが、誰も良い返事は返してくれませんでした(10月4日参照>>)

そんな義昭と信長の、仲介をしたのが明智光秀でした(10月18日参照>>)

信長は早速、足利義昭を奉じ、4万の軍勢とともに、9月の始め岐阜を出発します(9月7日参照>>)

信長にとって足利将軍家の再興など眼中にありません

なんせ、自分が天下を差配したいんですから・・・。

しかし、天下を取るには、京に上って畿内を制し、朝廷と接触して全国ネットのブランドを手に入れなければ、他の戦国大名より一歩抜きんでる事はできません。

信長にとって、この義昭は、上洛のための絶好の大義名分といった所でしょうか。

途中、伊勢を平定し、浅井長政の軍勢も加わり、京へと進みますが、そこに立ちはだかったのが近江の名門・六角氏

しかし、その六角氏の17箇所の城をたった3日で攻め落としてしまった信長軍。

六角承禎は観音寺城を捨てて敗走します(9月13日参照>>)

岐阜を出発してからわずか20日足らずで、義昭を奉じた信長軍が意気揚々と京に入ったのが、永禄十一年(1568年)9月26日でした。

Dscn2789a その後、義昭を清水寺に入れ、信長は東寺に陣を置いて、京を牛耳っていた三好三人衆(9月29日参照>>)を倒し、京を制圧したのです。
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コメント

戦国武将の夢は「上洛して天下に号令をかける」ですからね。ただ(単独で)上洛しただけでは意味がないので、「将軍の同伴」が必要ですね。尾張の織田家は地理的には「最右翼」でしたが、父親の代までは勢力が小さいので拡大する必要がありますね。

ところで、「大軍」とは何人以上を指すのでしょうか?戦いの規模にもよりますが、例として「武田信玄は1万もの大軍で、上杉謙信の本陣背後を攻撃した」とあるので、1万人以上なら大軍でしょうか?織田信長⇒豊臣秀吉⇒徳川家康を天下人が変わるにつれて、「大軍」の規模が大きくなっています。

投稿: えびすこ | 2010年5月28日 (金) 13時36分

えびすこさん、こんばんは~

>上洛しただけでは意味がないので・・・

そうですね。
どこかのページに書かせていただきましたが、信長は一度目の上洛が、本人こそ意気揚々だったにも関わらず、将軍・義輝に軽くあしらわれ、田舎侍の単なる物見遊山になってしまった事をかなり、気にしていたんじゃないでしょうか?
「今度は、同じ徹を踏まない」とばかりに、大義名分を探していたんでしょうね。


大軍は・・・
やはり、相手との数の違いではないでしょうか?
何千という場合でも「大軍」と称する場合もあるので・・・

投稿: 茶々 | 2010年5月29日 (土) 01時18分

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