神功皇后の三韓征伐
日本書紀によれば、仲哀天皇八年(200年?)9月5日、神功皇后に三韓征伐の神託がくだりました。
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神功(じんぐう)皇后は、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)という名前で、父は開化天皇から数えて三代目の息長宿禰王(おきながすくねのみこ)で、母は新羅(しらぎ)からやって来た渡来人の娘・葛城高額比売命(かつらぎたかぬかひめのみこと)。
あ゙ぁ~、ややこしい~名前長過ぎ!
ま、天孫降臨のニニギノミコトはもっと長いですが・・・いったい、お互いを呼ぶ時、何て呼んでたのかメッチャ知りたい~落語のジュゲムみたな感じだったんですかね?
とにもかくにも、記紀でのお話。。。
あのヤマトタケルの息子である第14代仲哀天皇の皇后となった神功皇后が、まだ新婚さんの頃・・・
仲哀天皇の熊襲(くまそ)征伐に従って筑紫へ渡り、橿日宮(かしひのみや)にいた仲哀天皇八年(200年?)9月5日・・・その神功皇后に、「天皇は、熊襲が従わない事を気にして熊襲を討とうとしているが、海の彼方に豊かな国がある。この国を与えよう。」という神託がくだるのです。
それを聞いた天皇は、高い山に登ってはるか水平線の彼方を見渡したがそのような国は見えなかったので、「神のいたずらである」と、信じませんでした。
とにかく、古事記も日本書紀も、この神功皇后に関しての部分は、ホント皇后を主役に持ってきます。
天皇、影うすいです。
古事記なんか、天皇と皇后と大臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)と、三人で神様を呼ぶ儀式を行ってるのに、やはり皇后に神託が下ります。
この、シャーマン的な部分から、歴史好きの人の中には、神功皇后こそが、卑弥呼では?という人もいます。
・・・で、この神託を一蹴した天皇に神の怒り爆発!
「神を疑う天皇にはその国は与えない。皇后のお腹の中の子供がその国を得るだろう」と、もう一度神託がくだって、その直後に仲哀天皇は死んでしまいます。(ホンマかいな?)
そして、臨月の皇后は、腰に石をはさみ、「どうぞ、旅の途中で子供が産まれませんように・・・」と、帰還の日に出産する事を祈願して、和珥津(わにのつ・対馬・鰐浦)から出航・・・神のお告げにあった「海の彼方の豊かな国」を目指しました。
この時、風の神は風を起こし、海の神は浪をあげ、海の魚まで皇后の軍船の後押しをしたと言います(ホンマかいな?)
皇后の船を押した大波は、新羅(しらぎ)の国中にうちあがったので、新羅の王は戦う前に恐れをなして降伏しました(ホンマかいな?)
そして、『三韓』と言うくらいだから、あと二つ、百済と高麗(高句麗)の王も、「勝つ見込みがない」として、自発的に降伏を申し込んで来たと言います(またまたホンマかいな?)
ま、この時代には、まだ無かったはずの百済という国名が出ているし、相手国の歴史書にもそのような記述がない事ですし、実際には、大陸には行ったかも知れないけれど、征服・・・とまではいってないであろうとの見解です。
ともかく、神功皇后は、臨月で出発したにもかかわらず、ちゃんと帰還してから無事赤ちゃんを出産します。
その赤ちゃんが次期天皇になる応神天皇です。
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コメント
>お互いを呼ぶ時、何て呼んでたのかメッチャ知りたい~
「おい」
「なぁに?おまえさん」
でしょう
投稿: 通りすがり | 2008年11月20日 (木) 11時50分
通りすがりさん、コメントありがとうございます。
この時代の方々は、名前が長いだけではなく、いくつもあったりなんかして、どう使い分けてたのか?どう呼んでたのか?
考えるとオモシロイです。
明治の初めの頃まで、名前は一生モンではなかったみたいですから、やはり、今とは感覚が違うんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2008年11月20日 (木) 18時22分
広開土王碑
仲哀天皇は可哀想ですね。
投稿: 立花宗茂 | 2009年8月25日 (火) 11時10分
立花宗茂さん、こんにちは~
ホントです。
天皇なのに・・・なんだか神功皇后が主役みたいになってしまっていてお気の毒です。
投稿: 茶々 | 2009年8月25日 (火) 11時38分