天下分け目の関ヶ原
慶長五年(1600年)9月15日は、ご存知!天下分け目の関ヶ原の戦いがあった日です。
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思えば、豊臣秀吉が亡くなったその時から、関ヶ原への扉はすでに開かれていたのです。
その頃からすでにあった、政治担当の文系・石田三成と、朝鮮出兵の最前線で戦ってきた体育会系・加藤清正たちとのすれ違い・・・(3月4日参照>>)。
徳川家康は、このすれ違いを利用して、体育会系の加藤清正らを味方につけ、豊臣家を分断しました。
しかし、豊臣家をぶっ潰そうと思っても、自分から直接弓を引いたのでは、謀反になってしまいますから、何とか三成側から攻撃を仕掛けさせ、内紛を起こさせなければなりません。
そんな時、五大老のひとり、会津の上杉景勝に謀反の疑いがかかります(4月1日参照>>)。
家康は上杉討伐を口実に、東北に軍を進めます。
「自分が大坂を離れれば、三成は攻撃をしかけて来るに違いない」と確信していたのです。
案の定、三成は挙兵します(7月19日参照>>)。
しかし、その時の西軍の数は、家康の予想をはるかに超えるものでした。
家康は早速、会津へ行くのをやめ(7月25日参照>>)、江戸城に入り、せっせと手紙を書きます。
西軍に味方している大名に片っ端から、恩賞をちらつかせ、自分に寝返るように説得をするのでした。
かくして、慶長五年(1600年)9月15日午前八時、井伊直政が宇喜多秀家軍に発砲したのを合図に、天下分け目の合戦の火蓋が切られました。
最初は、互角の戦い・・・いや、むしろ西軍がやや有利に駒を進めていましたが、戦闘開始から2時間たっても、西軍の半数はまったく動かず見ているだけ・・・。
やがて、三成の右腕として活躍していた島左近が負傷するにあたって、三成は、島津義弘に再三救援を要請しますが、島津はまったく動かず、やる気ゼロ。
そこで、総攻撃の狼煙(のろし)をあげますが、家康の周りを取り囲んでいた毛利も吉川も長束も、そして小早川秀秋も、まったく動く気配がありません。
家康は、その動かない軍からの寝返りに期待していました。
なかでも、小早川秀秋は豊臣秀吉の正室・ねねの甥にあたり、幼い時は子供のいない二人の養子となって秀吉の後継者となるはずでした。
しかし、淀君が秀頼を生んだため、小早川家に養子にだされた・・・という過去があります(9月14日参照>>)。
「小早川は必ず寝返る」と、家康は確信して、一刻もはやく決断させようと、小早川軍に鉄砲を打ち込みます。
正午過ぎ、秀秋はようやく軍を動かします。
それも、西軍の大谷吉継に向けて・・・(2022年9月15日参照>>)
秀秋の寝返りで、次々と寝返り組が続出し、大谷軍に襲い掛かります。
戦況は一気にくつがえされました。
大谷吉継は自刃(2008年9月15日参照>>)、小西と宇喜多は敗走、最後まで戦った三成軍も崩壊しました。
天下分け目の大合戦は、わずか半日で終結・・・この戦いの勝利で、豊臣家内でのトップの位置を獲得した家康は、やがて天下へと突き進む事となります。
このお話の続き関ヶ原の後始末・佐和山城攻めは9月17日>>>です
今日のこの合戦を武将たちが振り返り討論する【関ヶ原の合戦大反省会】>>
個々の出来事へのリンク集=【関ヶ原の合戦の年表】>>
も見ておくなはれ~~
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コメント
関ケ原の戦いは本当にすごいですよね。
正しい歴史を丁寧に書かれて参考になりました。
これからも勉強しに来ます。
投稿: touyou | 2006年9月17日 (日) 01時47分
touyouさん、ご訪問そしてコメントありがとうございました。
「正しい歴史を丁寧に・・・」などと言われると・・・お恥ずかしいです。
つたない文章ですが、自分なりに頑張って書いております。
また、時々訪問してください
投稿: 茶々 | 2006年9月17日 (日) 15時04分