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2006年9月14日 (木)

墨俣の一夜城凸建設中!

 

永禄九年(1566年)9月12日、木下藤吉郎の指揮のもと、墨俣に城の建設を開始し、15日に完成・・・世に言う墨俣一夜城です。

・・・・・・・・・

桶狭間の戦い(5月19日参照>>)今川義元を破ってノリノリの織田信長にとって、美濃・稲葉山城斉藤氏は、目の上のタンコブでした。

これから天下を狙うにあたって、是が非でも手に入れておきたい重要地点です。

『美濃のまむし』と呼ばれた斉藤道三の娘・濃姫を奥さんにしていた信長は、その道三を倒して(4月20日参照>>)美濃を継いだ道三の息子・義龍(よしたつ)に対して、『義父の弔い合戦』という名目で攻撃をしかけますが、なかなか討ち負かす事ができません。

義龍が病死した後、14歳で家督を継いだ龍興(たつおき)の代になっても、再三に渡って攻撃を仕掛けますが、さすが『まむし』の造った難攻不落の稲葉山城はびくともしません。

いつしか、最初の攻撃から六年もの歳月が流れていました。
そこで、信長は美濃攻略の最終手段として、墨俣に出城を築こうと考えます。

たしかに、墨俣は長良川を挟んで稲葉山城の真正面・・・ここに、城を築けば格段に攻撃がしやすくなります。

しかし、墨俣は木曽川と長良川と揖斐川が接近する中州の湿地帯で、しかも敵地の真っ只中です。

とても城を築ける場所ではないところに、果敢にも挑戦した佐久間信盛柴田勝家でしたが、二人とも失敗・・・

Toyotomihideyoshi600 そして、3番目に手を上げたのが木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)でした。

藤吉郎はその頃、まだ足軽頭という低い身分ではありましたが、合理主義者で身分に関係なくやる気のある者、できる者を登用する信長は、藤吉郎に墨俣の築城を任せる事にします。

さて、藤吉郎の一世一代の大仕事の始まりです。

まずは、人材集め・・・藤吉郎は、尾張の土豪・蜂須賀小六(正勝)に頼んで、地元の土豪や野武士に声をかけます。

そうやって集まった二千人の中には野武士たちだけでなく、山方衆や川の船頭衆も含まれていたため、地元の地理にもくわしく、フットワークも軽いという願ってもないラッキーな人材が集合しました。

各担当部署の代表者にあらかじめ図面を配り、何をどうするかをしっかりと頭に叩き込んでから、まずは、4分の1の500余人を木曽川の上流へ出発させ、木材の切り出しにかかります。

決められた寸法に切り分けられた木材をいかだに組んで船頭衆が川を下り、稲葉山より少し下流で待ち受けていた2分の1・約1000人が次々と岸に引き上げ、今度は大工の棟梁の指揮のもと、築城用に加工していきます。

その間に、残りの300人余りが土木・建築道具と食糧の調達をすると同時に、美濃一帯に「この大量の材木は、信長が伊勢を攻めるための準備だ」というウソの情報を流します。

そして、すべての準備が整った9月12日午前2時、高らかに上がった狼煙(のろし)の合図とともに、各地に集合した藤吉郎軍は一斉に行動を開始します。

藤吉郎、自らが率いる信長から預かった鉄砲隊75名を含む500人ほどが木曽川に向かって出発。

同時に、残りの1500人は木曽川沿いに集めておいた加工木材を長良川へとつながる枝川に運び、そこから小船に乗せて運びます。

やがて、川を渡り墨俣の目の前の長良川の岸までやってきた藤吉郎は、一緒に来た500人を半分に分け、1隊を食糧作りや負傷兵の手当てをする後方支援にまわします。

そうしているうちに、お昼頃には加工木材が到着し始め、残りの人数で周囲の堀や馬よけの柵を作り始めます。

このあたりで異変に気づいた美濃の軍勢が襲ってきますが、鉄砲や弓で応戦。

夕方になって、大型の木材が到着し、本格的に築城を開始します。

寸法通りに加工された木材を現地で組み立てる・・・今で言うプレハブってヤツ?ですね。(建築に関してはあまりくわしく知りませんが・・・)

かがり火の中、夜を徹して築城作業が続けられました。

13日も、不眠不休の工事が続行されます。

そして、9月14日には、再び美濃の軍勢が攻撃をしかけてきます。

藤吉郎軍は、半数が死傷しながらも、傷の手当てをしながら、時々届く食糧を補給しながら、そしてもちろん城の建設もしながら、何とかしのぎきり、とうとう15日の朝、墨俣城は完成しました。

翌年の8月に美濃が降伏する(8月15日参照>>)までの約1年間、藤吉郎は墨俣の城主としてここを守り、これを足がかりに織田家の重臣へとのし上がっていくのです。

ただし、実際のところ、墨俣城に関しては、諸説あります。

『信長公記』『真書太閤記』には、この永禄九年以前に墨俣城(もしくは別の名前の城)があったと書かれていたり、逆に『太閤記』には、墨俣の名前が出てこないとか。

あるいは、単なる砦のような物で、とても城と呼べるほどのシロモノではなかった・・・など。

ホントのところは、まったくなかった話なのかもしれませんが、今日のところは、あまりにも見事で、痛快な胸のすくようなこのお話を、あえて書かせていただきました。
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コメント

茶々さん、こんばんは!
私もこの墨俣城エピソード大好きですw
チームごとに競わせたんですよね?
さすが秀吉!頭いいですww
このころって半兵衛もう手下にいましたっけ?

明日は関が原ですね…なんかしみじみとします。明日の朝5時には布陣してるわけですね。死へのカウントダウンですね…。
私は西軍寄りなので、ちょっと悲しいです。

投稿: 暗離音渡 | 2010年9月14日 (火) 23時58分

暗離音渡さん、こんばんは~

今頃、三成は雨の中を走ってますね…
ワクワクします~(*^-^)

投稿: 茶々 | 2010年9月15日 (水) 00時18分

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