悲劇の人・おたあジュリア
慶長元年(1596年)9月1日は、豊臣秀吉が、再び朝鮮へ出兵する事を決意した日だという事です。
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一度目の出兵は、文禄元年(1592年)、朝鮮と親交の深かった対馬の宗氏を通して、明(中国)の征服の手伝いを頼みますが、拒否されたため15万の軍勢を派遣します。・・・文禄の役(4月13日参照>>)
最初こそ秀吉軍有利でしたが、朝鮮水軍の活躍や、明国の参戦によって兵糧の補給路を断たれるなどして、結局、休戦となりました。
しかし、秀吉の出した講和条件が拒否されたため、再び出兵を決意するのです。
実際にはこの翌年・慶長二年(1597年)に14万の大軍を朝鮮に送ります。
これが慶長の役(11月20日参照>>)ですが、本日はその秀吉の朝鮮出兵によって、人生を狂わされた悲劇の人・おたあジュリアという女性について、お話させていただきたいと思います。
おたあとは、『大姉(たいねい)』という意味で、ジュリアは洗礼名です。
彼女の本名も生年もわかりません。
なぜなら、彼女は1度目の朝鮮出兵=文禄の役で捕らえられ、日本に連れてこられた朝鮮人だからです。
戦場で両親をなくし、泣き叫んでいた幼い彼女を見つけた肥後(熊本)の戦国大名・小西行長が、「このままでは、この子は飢え死にするだけだ」と思って、日本に連れて帰り、自らの宇土城で、奥さんの侍女としたのです。
戦場でこんな事いっても、キレイ事の言い訳になってしまいますが、熱心なキリスト教徒であった行長は、一応、強制連行ではなく、親切心で連れて帰ってきたようです。
当時九州ではキリスト教が盛んで、その行長のもとで、彼女は洗礼を受けました。
ところが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦で小西行長は敗れて処刑されてしまいます(10月1日参照>>)。
その時、彼女に声をかけたのが徳川家康でした。
おたあは、たいへんな美人で、しかも、朝鮮貴族の娘だったという事もあって、気品もあり、かつ聡明で意志の強い人・・・完全にモノにする気で声をかけた家康の側室への誘いを蹴って、夫人の女官として江戸城に入ります。
(家康さんフラれました~)
信仰に関しても、だんだんと立場が悪くなるキリスト教を曲げる事なくつらぬき続け、信者の中でも『慈悲の人』と尊敬されていました。
しかし慶長十七年(1612年)、またも彼女は歴史の波にのまれる事になります。
3月21日・・・家康が、徳川幕府初のキリシタン禁止令を出し、彼女はその最初の犠牲者となって、伊豆七島の神津島へ流罪となってしまうのです(3月21日参照>>)。
それから40年間、彼女は島を1歩も出ることなく、流人としての生涯を送ります。
日本の天下人に人生を狂わされた悲劇の人、しかし、自分の意志をつらぬき続けた強い人・・・彼女は、今も神津島で眠っています。
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コメント
神津島では、〈おたあジュリア祭〉が開かれ、韓国のカトリック信者の方もくるそうです。
投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月 5日 (火) 11時50分
クオ・ヴァディスさん、こんばんは~
お祭りもあるのですね。
投稿: 茶々 | 2015年5月 6日 (水) 01時44分