最後の武士・乃木希典
大正元年(明治四十五年・1912年)9月13日、明治天皇の大葬が行われ、陸軍大将・乃木希典・静子夫妻が殉死しました。
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この年の7月に明治天皇が崩御され(7月30日参照>>)、元号も明治から大正に変わった大正元年(1912年)9月13日、明治天皇の葬儀が行われました。
その、大葬の列が宮城を出発する午前八時・・・まさに、その時刻、陸軍大将で学習院に勤める乃木希典(のぎまれすけ)は、時世の句を詠んで軍刀を持ち腹部を切った後、頚動脈を切断して絶命・・・63歳の生涯を閉じました。
妻・静子は、それを見届けてから懐剣を深く胸に突き刺して自害しました。
乃木には、ずっと以前から、明治天皇への負い目がありました。
その一つは、明治十年(1877年)の西南戦争の時に、小倉第14連隊長だった乃木が、熊本鎮台(政府陸軍)に救援に向かっている途中で、薩摩軍に攻撃され、連隊旗手が戦死してしまい、その時に連隊旗を奪われてしまった事(2月22日参照>>)。
その頃の軍隊にとって、天皇から授かった連隊旗は、自分たちの象徴であり、魂でした。
それを奪われておきながら、何の処分も受けなかった事を、ずっと重荷として背負っていたのです。
そして、もう一つは明治三七年(1904年)に勃発した日露戦争で、自らの指揮ののもとで、多くの犠牲者を出してしまった事でした(1月2日参照>>)。
乃木は、当時難攻不落と言われた旅順の港を攻撃するため、203高地を占領するのに第三軍司令官として出陣していました。
そして、1度目は4800人の死傷者を出して失敗。
2度目は、2800人の死傷者を出したにも関わらず、これも失敗。
この時、一度、「乃木の司令官をやめさせるべきだ」という意見が出ましたが、それに反対したのは、他ならぬ明治天皇でした。
「そんな事をしたら、乃木は生きてはいまい」という明治天皇の一言に、その一件は見送られたのでした。
その後、3度目の攻撃でやっと占領し、一気に旅順港内のロシア軍艦を攻撃、旅順を陥落させ奉天を占領しました。
この事で乃木は、凱旋将軍と讃えられる事になりますが、彼にはやはり、この事も重荷となって大きく圧し掛かり、「自分の理解者は明治天皇だけだ」と思うようになったのです。
乃木夫妻の死は、世間を大きく騒がせました。
森鴎外も、夏目漱石も、小説に書きました。
しかし、すでに、この時代には、『忠臣』と賛美する意見ばかりではなく、殉死の是非について、世論は大激論になったと言います。
殉死、というあまりに古風なふたりの死は、時代の変わり目を感じさせるものとなったに違いありません。
映画『ラスト・サムライ』では、西郷さんらしき人物をラスト・サムライとして描いていましたが、ここにもう一人ラスト・サムライがいた・・・って感じですね。
♪うつし世を 神さりましし 大君の
みあとしたひて 我はゆくなり♪ 乃木希典・辞世
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コメント
明けましておめでとうございます。今回は、乃木希典についてのコメントになりますが、明治天皇の大喪の礼の日に合わせて自害した希典は、賛否両論があったでしょうが、忠誠心の高い人物だったのではないでしょうか。今の時代なら、殉死すること自体が、馬鹿げていると思われて当然だと思いますが、希典としては、明治天皇に対する精一杯の忠誠心を示すには、殉死するしかないと思ったのかもしれません。だとすれば、あまりにも、悲しすぎるものがありますね。
投稿: トト | 2018年1月 3日 (水) 13時25分
トトさん、明けましておめでとうございますm(_ _)m
明治の頃は、まだ殉死の感覚が残っていましたから…今とは違う考え方だったのでしょう。
投稿: 茶々 | 2018年1月 4日 (木) 01時53分