悪女・藤原薬子の乱
弘仁元年(810年)9月11日、藤原薬子とその兄・仲成の、平城天皇・返り咲き計画が発覚し、薬子が自殺しました。
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藤原薬子(ふじわらのくすこ)は、平安京遷都で知られる第50代桓武天皇の片腕として活躍した藤原種継(たねつぐ)の娘です。
種継は、桓武天皇のお気に入りで、長岡京遷都の仕事(11月11日参照>>)などをまかされたりした重要人物でしたが、反対派に暗殺され、その真犯人がはっきりしないまま十数名が処刑された事から、後々桓武天皇がその時死刑にした人物の怨霊に悩まされる(9月23日参照>>)という出来事の原因となった人物です。
薬子は、父の死後、同じ藤原氏の縄主(なわぬし)という人物と結婚して、三男二女をもうけていました。
やがて、成長した薬子の長女が桓武天皇の息子・安殿(あて)親王の妃として、宮中に召される事になりました。
ところが安殿親王は、宮中へやって来た薬子・親子をひとめ見るなり、娘のほうではなく、母親の薬子のほうを好きになってしまうのです。
とにかくこの薬子、歳のわりにはとてつもない美人!
安殿親王のほうは、一気に燃え上がるタイプの情熱派!
ペタジーニ真っ青の歳の差で不倫関係が始まってしまいます。
この事を知った桓武天皇は、当然激怒・・・すぐさま薬子を宮中から追い出しました。
その時、一旦はもとのさやに納まったものの、しばらくして桓武天皇が亡くなると、安殿親王は、平城天皇として即位して、二人の関係は復活!
早速、天皇は薬子の夫・藤原縄主を九州へ転勤させて、薬子を宮中に呼び戻します。
薬子は、尚侍(ないしのかみ)という天皇の身の回りの世話をする女官の係長として、今度は堂々と、毎日々々、天皇の「あの世話」も「この世話」もやりまくる事ができるようになりました。
さらに・・・
桓武時代の重臣として活躍した父のDNAを受け継ぐ薬子・・・こうしてある意味頂点に立つと、なんやかやと政治にも口出しするようになります。
そこへ、ハイエナのように、今までうだつが上がらなかった薬子の兄・仲成(なかなり)までくっついてきて天皇にとり入り、すき放題やり始めました。
ところが、薬子や仲成とは逆に、平城天皇は政治があまり好きではないようで、しかも薬子に一目ぼれしたように、何かと熱しやすくさめやすいタイプ。
思うように政治がいかなくなると「や~めた!」とばかりに、あっさりと皇位を弟に譲ってしまい、自分は上皇となって、大好きだった奈良の都に戻って暮らし始めます。
すると、平城天皇の後を継いだ弟・嵯峨天皇は、前天皇時代の政策を変更したりして、けっこううまく政治をこなしていきました。
ところが平城上皇は、奈良の古都に引きこもってみると、またまた熱しやすくさめやすいコロコロ変わる性格が飛び出してきて、「惜しいことをした~」と思うようになるのです。
それは、薬子も仲成も同じです。
せっかく頂点に立ったと思ったのに、気まぐれ坊ちゃんのわがままで、その座を渡してしまったのですから・・・。
とにかく、三人で新天皇・嵯峨天皇の悪口言いまくりの政策に反対しまくりで、平安京と平城京の二つの朝廷があるような状態になってしまいました。
ここまで事が大きくなると、嵯峨天皇も黙ってはいられません。
とうとう、仲成を逮捕し処刑(2013年9月11日参照>>)、薬子の官位を剥奪してしまいました。
「こうなったら武力に訴えるしかない!」と平城上皇は、東国で挙兵する計画を立てますが、未然に発覚し、身柄を拘束され無理やり出家させられてしまいます。
ひとりぼっちになってしまった薬子・・・弘仁元年(810年)9月11日に、毒を飲んで自殺をはかりました。
この薬子の乱の事が書かれている『日本後紀』には、希代の悪女として書かれている薬子ですが、これってホントに悪女なのかなぁ?
薬子を勝手に好きになったのも平城天皇だし、皇位を譲ったのも、また欲しくなったのも平城天皇だし、それを許さなかったのは嵯峨天皇だし・・・。
皇位継承の揉め事に巻き込まれてしまった感も拭えない気が・・・(゚ー゚;
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コメント
平城上皇とゆう人はどーしようもない人ですね(^_^;)薬子以外にも振り回された人がいたんじゃないかと勝手に推測しちゃいました。
教科書にも載ってないような内容で面白かったです(^o^)/
あと、ブログリンクしていただきましてありがとうございますm(__)m
投稿: 見習い大工 | 2006年9月11日 (月) 23時43分
見習い大工さん、コメントありがとうございます。
こちらこそリンクのお礼を言わねば・・・と思いながら・・・すいませんでした<(_ _)>
一応、平城天皇も、父・桓武天皇がデカイ計画を立てすぎた平安京建設を縮小するなどして、財政のたて直しに努力したりはしてたみたいですけど・・・なんせ3~4年で、天皇を辞めちゃってますからねぇ。
あまりに、ひどく書きすぎたので、ここでちょっとだけフォローしときます。
また、お暇でしたら時々除きにきてくださいませ!
投稿: 茶々 | 2006年9月12日 (火) 01時28分