和気清麻呂、大隅へ流罪
神護景雲三年(769年)9月25日、和気清麻呂(わけのきよまろ)が、称徳天皇と道鏡の怒りをかい、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に改名されて大隅(鹿児島県)に流されました。
・・・・・・・・・
このお話をするには、まず、時の天皇・称徳天皇と道鏡のアツ~イ関係についてのお話から始めなければなりません。
称徳天皇は二度、皇位についていて、一度めは、孝謙天皇という名前の女性です。
最近、にわかに注目を浴びている女性天皇。
歴史上、何人か女性天皇がいますが、そのほとんどがもともと皇后だった人で、後継者の皇子がまだ幼く、皇位につけない場合に、先に亡くなった夫(天皇)と次に後を継ぐ息子(皇子)の中継ぎ的な役割で即位します。
ところが、この孝謙天皇はそうではなく、歴史上まれに見る20歳のプリンセス時代に皇太子に任命された異例の女性天皇なのです。
彼女の父は、大仏を造った事で有名な聖武天皇、母はこれまた有名な光明皇后です。
彼女のたった一人の弟で皇太子であった基(もとい)王が早くに死んでしまい、「このままだと聖武天皇と別の妃の間に生まれた子供が皇位を継いでしまう!そんな事になったら、もう権力握れないじゃん」と焦った光明皇后の実家の藤原氏が、急遽仕立てあげた女性皇太子だったのです。
やがて、聖武天皇の後を継いで彼女は孝謙天皇として即位します。
32歳の時でした。
おそらくは、この時の彼女は恋も男も知らない純粋な女性だった事でしょう。
なぜなら、彼女は若い時に皇太子になり、いずれ天皇になる事が決まっていましたから、絶対に結婚してはならないのです。
もし、結婚して子供でもできたら・・・それが今、問題になってる女系です。
平成の世でこんなに問題になるんですから、奈良時代になんて許されるものではありません。
彼女は一生、独身を貫き通さなければならない宿命を背負っていたのです。
独身の彼女に子供はできませんから、天皇に即位した時、皇族の中から大炊王(おおいのおう)という人が選ばれ皇太子となりました。
この大炊王を押していたのが、時の権力者・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ=恵美押勝)でした。
大炊王は、早くに亡くなった仲麻呂の息子の嫁の再婚相手の子・・・ん~とりあえず、仲麻呂の意のままに動いてくれる皇子だったので、強く推薦していたのです。
仲麻呂は光明皇后の甥、つまり孝謙天皇とは、いとこになります。
どうやら、孝謙天皇はこの仲麻呂にほのかな恋心を抱いていたようです。
仲麻呂も、まんざらでないようで何かと世話をやいてくれる。
いとこ同士で、幼い頃から親しかった兄のような人に恋心を抱く・・・純粋な乙女の陥りそうなパターンです。
ところが、やがて孝謙天皇が大炊王に皇位を譲り、大炊王が淳仁天皇として即位すると、仲麻呂は、もう淳仁天皇にベッタリ・・・わがもの顔で、思い通り自分勝手にやり始めます。
彼女は、仲麻呂のやさしさは、女性としての自分にではなく、天皇という権力に対してのやさしさだった事に気づかされるのです。
そんな傷心な彼女に追い討ちをかけるように、大好きだった母・光明皇后が亡くなり、とうとう彼女は、体調を崩して寝込んでしまいます。
そんな時、病気になった彼女の治療に派遣されてきたのが、僧・道鏡だったのです。
道鏡は、葛城山で修行し、呪術や医術も身につけ、さらにサンスクリット語も理解する学識にあふれた僧でした。
そんな彼が、枕元でつきっきりで献身的な奉仕をしてくれる・・・もう、こうなったら女心は止まりません。
やがて、看護の甲斐あって元気になった孝謙上皇は、道鏡との恋に落ちていくのです。
この時彼女は44歳、道鏡も同じくらいか、少し上くらいだったそうです。
もう、誰が見ても夫婦にしか見えないくらいに、人目もはばからず彼女は、道鏡にゾッコンです。
その恋の進展と平行して道鏡は出世していくのです。
翌年の763年には、大・中納言の相当する少僧都(しょうそうず)
764年には、左大臣に相当する大臣禅師に昇りつめます。
この様子に腹をたてた藤原仲麻呂が、淳仁天皇を通じて彼女と道鏡の関係を非難した所、激怒した孝謙上皇は「もう、アンタたちの勝手にはさせない!これからは、私が政務をやる~。」と言い出します。
「そうは、させるか!」と仲麻呂は反乱を起こしますが、あえなく撃沈(9月11日参照>>)。
淳仁天皇も退位させられ、なんとここに、孝謙上皇がもう一度即位して称徳天皇となるのです。
こうなったら、道鏡の出世も止まりません。
765年には、太政大臣禅師、766年には、ついに法王になってしまいます。
もう法王の上は、天皇しかありません。
しかし、そこまでトントン拍子に駆け上がると、昇り調子の人物に取り入って自分も何とかしようと、コバンザメのようにくっついてくる輩が、いつの世にもいるものです。
(たぶん、道鏡は頼んでもいないのに)習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)という人物が、宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすれば、天下が太平になるであろう」というお告げが下った、と報告してきたのです。
しかし、歴史上、皇族でもない人物が天皇になった例は一度もありません。
さすがに、恋に目がくらんだ称徳天皇も、にわかには信じがたく、重臣の和気清麻呂(やっと出てきました~長くてすいません)を、宇佐八幡宮に派遣して、実際に向こうで本当かどうか確かめて来るように頼んだのでした。
清麻呂は、宇佐八幡で「天つ日嗣(ひつぎ)には、必ず皇緒(こうちょ)を立てよ」という神託を受け取ります。
つまり、やはり皇族以外は天皇になってはいけない・・・という事です。
清麻呂が、宇佐から帰って、この事を報告し、道鏡が皇位につくことはありませんでした。
しかし、その事を激怒した道鏡が、神護景雲三年(769年)9月25日に、和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に改名させて大隅(鹿児島県)に流した・・・となっていて、後世では道鏡は皇位を狙った『悪僧』、清麻呂は天皇家を救った『英雄』として、戦前などは教科書にも載っていたらしいのですが、どうも清麻呂を流罪にしたのは、道鏡ではないような気がしますね~。
もちろん、称徳天皇でもありません。
たぶん、先程言ったコバンザメのような輩たちです。
道鏡は、別に出世したいとも、天皇になりたいとも思っていなかったようですし、称徳天皇も、愛しいから彼を出世させたのではなく、能力のある人物だから出世させたのでしょう。
なぜなら、今回の事で天皇への道が絶たれてもふたりの関係は以前と変わらず仲むつまじく続いているからです。
もし、道鏡が本当に皇位を狙って称徳天皇のゴキゲンをとっていたのなら、先の藤原仲麻呂のように、皇位継承がなくなった時点で彼女から去って行くはずですし、称徳天皇もそんな皇位を狙ってる男をいつまでもそばに置いているはずがありません。
結局翌年、称徳天皇が亡くなり、後継者の光仁天皇が即位して、清麻呂は都に戻され宮廷に復帰し、逆に道鏡は下野(栃木県)の国分寺に追いやられますが、その後の道鏡は、ただひたすら称徳天皇の冥福を祈っていた、と言います。
なんか、道鏡さんって、天下の悪僧というよりも、野心まるだしのコバンザメにもてあそばれた、かわいそうな感じがするのは、私だけでしょうか?
←京都府八幡市・和気神社の境内に残る清麻呂が建立したとされる足立寺跡
内容がかなりかぶってますが、道鏡事件については【道鏡事件のウラのウラ】(10月9日参照>>)もどうぞ
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コメント
茶々様、こんにちは。
今日の記事から辿ってこちらにコメントさせていただきます。内容がごちゃ混ぜになりましてすいませんm(_ _)m
どなたの本だったか忘れましたが、「怨霊とは、それを恐れる者に現れる」とあって納得した記憶があります。
その点では、茶々様のおっしゃる通り称徳天皇には霊験あらたかな(゚ー゚;つよ~い味方がいたから、何にも怖くなかったし、あるいは淳仁天皇の死には本当に関わっていなくて、まわりのコバンザメどもが勝手に動いたとすれば、怨霊など何の心配もなかったかも知れませんね。
ところで、和気清麻呂は、藤原家とは何かかかわりのある人物だったのでしょうか。どうか教えてくださりませ。o(_ _)o
投稿: おきよ | 2009年10月23日 (金) 15時41分
おきよさん、こんばんは~
>怨霊とは、それを恐れる者に現れる
ホント、その通りですね~
私も、「丑の刻参り」だったか「こっくりさん」だったかのページで、「呪いは、呪われた人が自分が呪われている事を知ってる時にしか効きめが無い」的な事を書かせていただいたと思います。
絶対に、やましい事があるから、怨霊が怖いんですよね。
ところで、和気清麻呂ですが・・・たぶん、藤原家とは関わりはないと思いますが・・・
垂仁天皇の何番目かの皇子の末裔で、岡山のお医者さんの家系だったと思います(姉さんが家業を継いでます)
本名は忘れましたが、例の仲麻呂の乱の時に功績をあげ、藤野和気真人(ふじのわけのまひと)という名前を賜って、そこから和気清麻呂ってなったと思います。
投稿: 茶々 | 2009年10月23日 (金) 19時09分
日本史の深い深い、裏舞台が
詳しくかかれていて
学校ではやってくれないのでほんとに感動しました
盛者必衰。。。。
繰り返されるのですね
投稿: 葵衣 | 2014年6月 3日 (火) 20時43分
葵衣さん、こんばんは~
権力の奪い合い…今も変わらないような気がしますね~
投稿: 茶々 | 2014年6月 4日 (水) 02時34分
広仁 ではなく 光仁天皇
投稿: | 2018年1月16日 (火) 18時51分
ありゃま!!(゚ロ゚屮)屮
ホントだ!
ぜんぜんきづいてませんでした~ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2018年1月16日 (火) 19時09分
はじめまして。
ときどき読ませていただいています。
参考になる記事をありがとうございます。
>やがて、聖武天皇が亡くなって彼女は孝謙天皇として即位します
ウィキペディアには
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した
とあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
投稿: yu asada | 2018年10月17日 (水) 22時51分
yu asadaさん、こんばんは~
ありゃりゃ、ホントですね。。。
wiki等見るまでもなく、このブログの橘奈良麻呂のページ等で散々、譲位した後の聖武天皇と孝謙天皇&光明皇后との力関係等について書かせていただいたりしてますから譲位なのは当然ですね。
12年も前のページなので理由はわかりませんが、おそらく「その後を継いで」と書きたかったんだと思いますが、ご指摘を受けるまで完全に見逃してました…
申し訳ないですm(_ _)m
upする時に何度も読み直してはいるのですが、なにぶん自分が書いた文章を自分がチェックしてますもので、誤字脱字&書き間違い等を見逃す事も日常茶飯事…しかもページ数が多いので、時が経てばほとんど読み返さないため、古いページはスルーしてしまっている事も多々ありです。
また「オヤっ?」と思われる部分がありましたらお知らせくださいませ。
投稿: 茶々 | 2018年10月18日 (木) 00時34分
私もよく書き間違えるので、わかります。
茶々さんの解説はわかりやすいのがありがたいです♪
投稿: yu asada | 2018年10月18日 (木) 16時59分
yu asadaさん、こんばんは~
ご理解、ありかとうございます。
今後ともよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2018年10月18日 (木) 23時45分