日本初!正長の土一揆
正長元年(1428年)9月18日、日本の国が始まって以来、初めて土民がいっせいに反乱に立ち上がった正長の土一揆が勃発しました。
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戦国時代は、多くの名だたる武将が歴史を動かしました。
しかし、歴史を動かしたのは、貴族や武士だけではありません。
名も無き庶民たちが歴史を動かす・・・それが、一揆です。
一揆の火種は、この日本が戦国に突入するもっと以前、建武の新政(6月6日参照>>)の頃から、すでに少しずつくすぶり始めていました。
「このごろ都にはやるもの、夜討ち、強盗、にせ綸旨(りんじ・天皇の命令)・・・」で始まる有名な二条河原の落書。
「二条河原の落書」のイメージ(文章は「建武記」国立公文書館蔵より)
この落書きが張り出されたのが、後醍醐天皇の建武の新政が行われた翌年、建武元年(1334年)の事です。
同じ年、若狭国・太良荘(たらのしょう)では、派遣された代官が、自分の領地の耕作に地元農民を使ったり、城造りに農民を動員したり、農民の田畑を奪おうとしたりした事に怒った農民たちが代官の悪行を文書にまとめ、代官追放を訴える、という事件も起こりました(8月21日参照>>)。
この頃から農民たちの生活が徐々に変わり始めていたのです。
トラクターこそ無いものの、、鋤(すき)や鍬(くわ)などの鉄製道具の発達や、二毛作の開始。
物の流通や貨幣の流通がさかんになって、農家の作物が商品として作られるようになります。
その結果、どんどん豊かになる者、逆に借金に苦しむ者と格差が出るなかで、自分たちの農村を自分たちで管理する心が生まれてくるのです。
そうなると、領主が無理難題をふっかけてきても、村全体で抗議する・・・といった事が起こるようになってくるのです。
正長の一揆の二年前・応永三十三年(1426年)に、近江の国・坂本の馬借(貨物運送業者)たちが一揆を起こしました。
しかし、この時はそれほど広範囲に広がることはありませんでした。
そして正長元年(1428年)の年。
この年は、前年からの凶作に加えて疫病の流行、そして将軍の交代などが重なって、不安が高まっていました。
そんな時、二年前と同じく近江国の大津や坂本の馬借たちから始まった馬借一揆が広がりはじめ、土民たちが一斉に立ち上がる土一揆と変化し、高利貸しをしている酒屋・土倉・寺院などを破壊。
質に入っている品物を勝手に取り出し、借金の証文を破って捨てるといった行為に走ります。
この時は、管領の畠山満家が幕府の命を受け鎮圧に乗り出しますが、なかなかその勢いは衰えませんでした。
やがて、この土一揆は、播磨・丹波・伊勢・大和と近畿一帯を巻き込んでしまいます。
土一揆とは、土民(農民や都市の庶民)が、荘園領主や大名・高利貸しに対して起こす一揆の事をいいます。
たいていの場合、土一揆は「徳政」を要求する徳政一揆に変化します。
「徳政」とは、借金をチャラにしたり、売却地を取り戻したりする事です。
一揆の勢いで自分たちで徳政を行うのを「私徳政」と言いますが、時には一揆を終結させるため幕府が「徳政令」を出す事もありました。
この、正長の土一揆の時は、幕府は徳政令を出しませんでしたが、証文などが破棄されたため、私徳政が行われた・・・という事になります。
ただし、この時、大和では、多くの荘園を持っていた興福寺が徳政令を認めたためこの地域では徳政令が施行されました。
その記念に農民たちが、お地蔵様に刻んだ宣言文が、現在も奈良市柳生町に残っています。
やがて、徐々に一揆も成長し、山城の国一揆(12月11日参照>>)や加賀の一向一揆(6月9日参照>>)といった、より団結の強いものへとなって行くのです。
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