信長の比叡山焼き討ち
元亀二年(1571年)9月12日、織田信長によって、比叡山・延暦寺が焼き討ちされました。
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比叡山・延暦寺は、12歳で出家した最澄(伝教大師)が、延暦四年(785年)に、僧の資格を得た直後に比叡山に入山・・・その後、弘仁十四年(823年)に延暦寺と名を改めた天台宗の総本山です(6月4日参照>>)。
しかし、それと同時に多くの僧兵を抱える軍事勢力でもありました。
第72代・白河天皇が生前、「自分の思い通りにならない物は、賀茂川の水の流れと、サイコロの目と、比叡山の僧兵だ」と言った事は、あまりにも有名です。
天皇でさえ、仏罰を恐れて一歩退く・・・といった状態でしたから、僧兵たちが少々エラそうな態度に出ても、誰も正面から立ち向かうような事はなかったのです。
しかし、ここに神をも恐れぬ男がひとり・・・いえ、自分こそが神である!とまで思っていたかも知れない人・・・そう、織田信長です。
でも、信長さんも当時は大変な『四面楚歌』状態。
越前の朝倉義景に近江の浅井長政(11月26日参照>>)、三好長逸・三好政康・石成供通の三好三人衆に、長島一向一揆(5月12日参照>>)・・・と、まわりは敵ばかり。
石山本願寺とも交戦中だし(9月12日参照>>)、猛将・武田信玄の動きにも注意しなければなりませんでした。
ちょっとでも手をゆるめようものなら、そこから付け入られて崩されては命取りです。
この状況を打開するには、逆にひとつずつ敵を崩していくしかありません。
ちょうど、その頃、浅井・朝倉連合軍の落ち武者が比叡山に逃げ込んでかくまってもらう・・・といった事が何度かありました。
いくら僧兵が強いと言っても、彼らの本職はあくまで僧。
それに比べて信長軍は戦いのプロです。
崩すならここしかない!彼はそう思ったに違いありません。
9月に入って信長は近江の善立寺を攻め、その足で琵琶湖のほとり坂本に進みました。
信長軍の多くの者たちが、このまま京に入る・・・と思っていた所に、信長様の比叡山攻めの発表!
当然、明智光秀・佐久間信盛以下、そこにいた武将たちは驚き、そして必死で止めました。
しかし、当然そんな部下たちの声を聞く信長ではありません。
かくして元亀二年(1571年)9月12日、比叡山を焼き討ちしました。
根本中堂をはじめとする堂塔も、大切な仏像や経典もことごとく灰になり、逃げ惑う人々は捕らえられ、女・子供・僧を含む3千人余りが殺されたと言います。
・・・とは言え、個人的には、この比叡山焼き討ちは無かったかも知れないと思っている私・・・そのお話は=【信長の比叡山焼き討ちはなかった?】へどうぞ>>>
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