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2006年9月 9日 (土)

天武天皇崩御で持統天皇が動き出す

 

朱鳥元年(686年)9月9日、第40代・天武天皇が崩御されました。

そして、その死をきっかけに、いよいよ持統天皇『強烈ママの我が子を天皇にするぞ作戦』が、動き始めます。

・・・・・・・・・・

天武天皇は、乙巳(いっし)の変大化の改新(6月12日参照>>)を行った第38代・天智天皇の弟で、その天智天皇の娘のうち2人を妃にしていました。

姉・大田皇女(おおたのひめみこ)と妹・鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)です。

このふたりの皇女には、同時期に相次いで子供が生まれます。

大田皇女には、女子=大伯皇女(おおくのひめみこ)と男子=大津皇子(おおつのみこ)

鵜野讃良皇女には、男子=草壁皇子(くさかべのみこ)です。

しかし、大田皇女は大伯皇女が7歳・大津皇子が5歳の時に病気で亡くなってしまいます。

後に起こる大津皇子の悲劇は、この時に始まっていたと言ってもいいでしょう。

やがて、天智天皇が崩御され、その息子・大友皇子(おおとものみこ)との皇位継承の争いである壬申(じんしん)の乱(7月22日参照>>)勝利した大海人皇子が天武天皇として即位します(2月25日参照>>)

そして、鵜野讃良皇女が皇后となるのです。

天武天皇は、9人の妃に17人の皇子・皇女をもうけていましたが、もうすでに宮中では、次の皇位継承について波乱の噂が囁かれていたようです。

・・・と、言うのもこのふたりの皇子は、草壁皇子が10歳、大津皇子が9歳で、壬申の乱の時、父をアシストしましたが、その後、大人になるにつれ、徐々にその帝王としての素質に差が出てくるのです。

大津皇子は奔放で才気にあふれ・・・対する草壁皇子は悪くはないものの少し軟弱な青年でした。

ふたりの皇子がともに恋をした石川郎女(いしかわのいつらめ)という女性も最終的に大津皇子の手の中に落ちています。

やはり、男としても大津皇子のほうが魅力的だったようです。

天武天皇も、どうやら「大津皇子を皇太子にしたい」と、思っていたようですが、大津皇子の母・大田皇女はすでに亡く、草壁皇子の母・鵜野讃良皇女は皇后として君臨していますから、なかなかすぐには決定できません。

そこで、鵜野讃良皇女はここで、予防線を張ります。

彼女は、生涯の中で31回吉野に旅をしていますが、たった1回だけ、天武天皇も同行した吉野行きがありました。

それが、天武八年(679年)5月の吉野のちかいと呼ばれる旅で、この旅の中で「千歳の後に事なからしめむ」と神と天皇の前で誓う儀式が行われたのです。

その儀式の時、代表で天皇の前に進み出る役を、草壁皇子が行うようにダンドリをしたのは、言うまでもなく鵜野讃良皇女でした。

そのパフォーマンスが効いたのか、その翌年に草壁皇子は皇太子になります。

草壁皇子・19歳、大津皇子18歳でした。

しかし、鵜野讃良皇女の大津皇子を疎外しようという意図がミエミエだったのか?、宮中の大臣たちの声もあがり、その2年後には、天武天皇は大津皇子も政治に関わる役職につけたり・・・と配慮をしていました。

そんな中・・・今日の天武天皇・崩御です。

鵜野讃良皇女は、片方で夫の死を悲しみながら、いよいよ我が子のライバルを消しにかかります。

・・・が、そのお話は、その事件が起こる9月24日>>にさせていただく事にします。

Dscn1608

天武・持統天皇陵

 

 

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コメント

今の皇族と比べてみたら昔の方が大変だったんですね笑。

投稿: ケグリ | 2006年9月15日 (金) 07時21分

ケグリさん、こんにちわ~。
コメントありがとうございます。

そうですね。
昔は、天皇家も将軍家も継承問題では、悲惨ですからねぇ~。

源氏なんで、親兄弟で血みどろの戦いの末、三代で絶えちゃってますからねぇ。

権力を持つ・・・という事は、そこまで人を変えてしまうものなのか?
って思ってしまいますね。

投稿: 茶々 | 2006年9月15日 (金) 14時45分

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