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2006年9月28日 (木)

楠木正成登場!元弘の変

 

元弘元年(1331年)9月28日、後醍醐天皇が笠置山で挙兵し、元弘の変が勃発しました。

・・・・・・・

鎌倉幕府・将軍家はわずか三代で絶え、その後、執権としておおいに権力を握った北条氏でしたが、2度にわたる蒙古襲来(10月5日参照>>)で、御家人たちに不満がつのり、徐々にその権力に陰りが見え始めていた頃でした。

かねてから、天皇の皇位継承にまで口出しする幕府のやり方にムカついていた後醍醐天皇は、院政ではなく、天皇自らが権力を持って政治をしたいと思い、討幕の計画を立てます。

しかし、この正中の変(9月19日参照>>は事前に計画が漏れてあえなく失敗。

そして、7年後の元弘元年(1331年)、ふたたび討幕の計画を立てます。

息子の護良(もりよし・もりなが)親王宗良(むねよし・むねなが)親王を通じて僧兵を味方に引き入れ、側近の日野俊基に命じて畿内の悪党たちを集めようとしたのです

悪党とは、権力に対抗しようと集まった、非御家人の武士や土豪(地元密着型の半農反士の武士)たちで、荘園を襲ったり物資を強奪したりして、自分の領地を増やし、のし上がろうとしていた者たちです。

しかし、これまた側近の裏切りで計画が事前に発覚。

幕府は後醍醐天皇を捕まえようとしますが、天皇は御所を出て奈良の笠置山へ逃走し、畿内の悪党たちに挙兵を呼びかけます。

そんなある夜、天皇は夢を見ます。

南に向いた枝の勢いがいい大きな木の夢でした。

その枝の下には、公家たちが居並び、中央に立派な座席がしつらえてありました。

そこへ、二人の童子が現れ「あの座席はあなたが座る場所です。あの枝の下なら安心です」と言うのです。

そこで、目覚めた天皇は考えます。

南の方角に枝ぶりの良い木・・・へんにと書いて・・・笠置山の僧に聞いてみると「それは、楠(くすのき)という者が有力な見方になるであろう、という知らせにちがいありません。河内の国に楠木正成という評判の武士がいます。」と言う。

そこで、早速、楠木正成を呼び寄せた・・・というのが、太平記でおなじみの後醍醐天皇と楠木正成の運命の出会いです。(たぶん、かなり脚色されてますが・・・)

天皇を目の前にして、感激した正成は「正成ひとりが生きていれば、聖運は必ず開かれるとお思いになって下さい」と、答えるのです。

この言葉どおり、正成は湊川の戦い(5月25日参照>>)で自刃する最期の最期まで、たとえ後々足利尊氏が敵にまわろうとも、後醍醐天皇のために戦う事になるのです。

そうして、今日、元弘元年(1331年)9月28日挙兵した後醍醐天皇でしたが、なんせこの時、強そうな味方は正成だけ・・・。

結局、赤坂城はすぐに落とされ、正成は逃走・・・天皇は隠岐へ流され、側近の日野俊基は斬首されます。

しかし、一年後に正成は再び挙兵し、後醍醐天皇も隠岐から脱出・・・足利尊氏新田義貞といった東国の武士も味方について、鎌倉幕府を倒す事になるのですが(5月22日参照>>)、ご存知のように、後に尊氏は天皇と敵対する事になります(12月11日参照>>)

それにしても、なぜ、正成は、尊氏が裏切った後も、最期まで後醍醐天皇に尽くしたのか?

それは、やはり出身の違いでしょうね。

なんだかんだ言っても、足利家は源氏の流れを受け継ぐ名門。
正成は悪党と呼ばれる土豪。

名門の坊ちゃんには、はなから源氏という後ろ盾があるけれど、正成には天皇の忠臣というレッテルが剥がれると何も残りません。

誰も見方になってくれない時の、究極の選択とは言え、自分を一人前の武士として認めてくれた天皇に命を賭けたんでしょうね。
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コメント

日本人というか人間の世界で例外的に死ぬとわかっても行くしかないって行く人が出てくるんですよね。まさに義士でして有名なのが正成で桜井の別れだったかな、なけます。あまり知られてないけど凄いのが島津豊久で、兄弟仁義って歌で「一人くらいはこういうバカが、いなきゃ世間の眼が覚めぬ」ってありますがゴダイゴも三成も義弘もどうしょうも
ないのに、それが分かって、いっちゃうんですよね。

投稿: touyou | 2006年10月 1日 (日) 01時23分

touyouさん、こんばんは。
コメントありがとうございます~。

歴史の場合はどうしても、要領よく生きていけない人へ、味方してあげたくなりますね。

義理と人情をはかりにかけりゃ・・・って歌もありましたね。

昔はそれでも行かなきゃならない時があったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2006年10月 1日 (日) 03時33分

神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇行在所の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。

投稿: 後醍醐と楠木 | 2010年5月25日 (火) 07時37分

後醍醐と楠木さん、お早うございます。

明治の廃仏の一件は、とても残念ですね。
私も、いつも奈良公園を歩くたび、考えさせられます。

興福寺の境内のままが良かったのか?
近代公園として市民の憩いの場になって良かったのか?

投稿: 茶々 | 2010年5月25日 (火) 08時35分

今夜の「名将の采配」は楠木正成です。
何の戦いかわかりませんが、取り上げられます。

投稿: えびすこ | 2010年8月23日 (月) 16時00分

えびすこさん、こんばんは~

>今夜の「名将の采配」は楠木正成…

湊川でしょうか???
でも、負け戦ですね。

投稿: 茶々 | 2010年8月23日 (月) 22時10分

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