頼朝と義経,黄瀬川の対面
治承四年(1180年)10月21日、黄瀬川で源頼朝と源義経の兄弟が対面しました。
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流罪の身から平家に反旗をひるがえし(8月17日参照>>)、『頼朝追討』の宣旨(天皇家の命令)が下った(10月20日参照>>)以上、源頼朝にとっては平家を倒し、源氏の世を造る以外に生き延びる道はなく、これから西へ西へと攻め上らなくてはなりません。
平家もまた、自分たちの保身をかけて、これから頼朝追討のための軍備を整え、都を死守しなくてはなりません。
そんな頼朝が黄瀬川の陣屋にいた時の事。
三町ほど離れた場所に、陣をたて白旗をかかげる者がいます。
頼朝は、堀弥太郎(ほりのやたろう)という人物を使いに出し、誰の陣なのか探ってくるように命じます。
弥太郎がその陣を訪ねてみると、色の白い24~5歳のりっぱな大将が姿を見せました。
じっくりと顔を見る弥太郎・・・。
すると、その大将が言うには
「鎌倉殿も、ご存知のはずと思うが、わしは幼名を牛若と言い、弟にあたる者。
兄の旗揚げを聞いて奥州より馳せ参じた。
お目通りをお願い申す。」
弥太郎はあわてて戻り、頼朝に報告します。
頼朝は目を輝かせて、「すぐに、こちらに来るように」と大喜びです。
思えば、二人の父・義朝が平治の乱(1月4日参照>>)で敗死してからというもの、兄弟の運命は大きく変りました。
兄たちは皆殺され、頼朝も斬首は免れたものの(2月9日参照>>)、14歳で伊豆に流されずっと流人として暮らしてきました。
義経は義経で、その時まだ2歳・・・義朝の愛妾だった義経の母・常盤(ときわ)御前は、「追手から逃げきれない」と思い、三人の子供(義経とその兄・二人)をつれて、乱の勝者・平清盛のもとへ自首します(1月17日参照>>)。
しかし、この常盤御前が元ミス平安京の肩書きを持つものスンゴイ美人だったため、一目惚れした清盛は、彼女が自分の愛人になる事を条件に三人の息子の命を助けたとか・・・(あくまで伝説で、愛人なった事実はなかったととされています)
年長の二人の兄はすぐに出家させられましたが、あまりに幼かった義経だけが少しの間、手元に置かれ、その後、7歳の時に鞍馬寺に預けられます。
その後16歳の時に鞍馬を脱出、奥州の藤原秀衡(ひでひら)を頼って平泉に身を寄せていました。
そんな二人の初めての対面です。
頼朝にとっても、源氏の棟梁になったとは言え、味方になった豪族たちを完全に掌握しきれてはいない不安な状況。
孤独な頼朝にとって、ここに登場した血のつながった肉親は、何よりも強い味方であった事でしょう。
義経は、奥州の秀衡から預けられた佐藤継信・忠信兄弟と、最初に家来となった伊勢三郎義盛の三人を連れて頼朝に会いに行きます。
関東八カ国の大名たちが居座る中、前に進み出た義経は、おもむろに兜を脱ぎます。
「おお、牛若か・・・。よくぞ参った。」
その後は、お互いの顔を見合って涙があふれ、そのうれしさを語るのに、もう言葉はいりませんでした。
居並ぶ者たちも皆涙を流していました。
この中の誰も、やがてこの兄弟に訪れる運命(10月11日参照>>)を予測してはいなかったでしょう。
この後、頼朝は義経を、自分の代わりの大将として、京へ平家追討に向かわせる事になります(1月16日参照>>)。
以上、本日は『義経記』をもとに、黄瀬川の対面をご紹介させていただきました。
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コメント
こんばんは。
以前ご紹介くださったHP『京阪奈ぶらり歴史散歩』がたいへん素晴らしかったので、リンクさせていただきました。
義経が連れてきた佐藤兄弟は、奥州藤原氏のスパイだったのでしょうか?
そうなると対面当初から、頼朝・義経不和のタネはくすぶっていたのかもしれませんね。
投稿: M.M(仮名) | 2006年10月24日 (火) 23時39分
MMさん、コメントそしてリンクしていただいてありがとうございます~。
私としては、その戦いぶりと義経の信頼度を素直にに見ると、佐藤兄弟はスパイとは考えにくいように思いますが、都の情勢を奥州に伝えていたのは確かでしょうね。
秀衡としては、今、中央政治がどうなってるか知りたいところでしょうからね。
投稿: 茶々 | 2006年10月25日 (水) 16時31分