未完の都・平安京
延暦十三年(794年)10月22日、桓武天皇が都を平安京に遷しました。
毎年この日行われる京都三大祭の一つ時代祭は、明治二十九年(1895年)に平安遷都1100年の記念事業として始まりました。
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桓武天皇が都を遷したこの日から、明治二年(1869年)に東京に遷るまで、天皇が住み、政治を行った日本史上一番長い歴史を持つ都・平安京は、東西約4.5㎞、南北約5.2km、平城京を上回る大きさの壮大な都になるはずでした。
しかし、相次ぐ遷都で資金が不足。
その上に工事が難航、加えて東北地方平定のために人民が兵士として借り出され人手不足・・・結局、新都造営は行き詰まり、着工から10年で工事は停止されました。
そのため、右京(西側)は荒れ放題の無残な状態で、桓武天皇は都の完成を見る事なく、この世を去ったのです。
その後、左京(東側)のほうは発展し人口も増えますが、右京は荘園となり、鎌倉・室町の頃には、朱雀大路も畑になってしまっていたと言います。
(左京は洛陽城、右京は長安城に見立てられ、京都を『洛』と呼ぶのはここから来ています。洛中とか洛外とか上洛とか言うのがそうです。)
そもそも桓武天皇がまだ、山部王と呼ばれていた若かりし頃、まさか自分が天皇になるなど思ってもいなかったのです。
なぜならそれまで、あの壬申の乱以来、1世紀に渡って乱に勝利した天武天皇の系列が皇位を受け継いでいたので、天智天皇系列の自分は「皇位とは無関係にある」と思っていたのです。
ところが、第46代・孝謙天皇の後を継いだ第47代・淳仁天皇が、つるんでいた藤原仲麻呂とともに乱の失敗によって失脚(9月11日参照>>)。
弓削道鏡と組んだ先代・孝謙天皇が第48代・称徳天皇として帰り咲きますが(10月9日参照>>)、称徳天皇は一生独身を貫いた女帝だったので子供がなく、その為、桓武天皇の父・光仁天皇が62歳という高齢で第49代天皇として即位したのです(10月1日参照>>)。
そしてその後、父の後を継いだ桓武天皇も、45歳という年齢で第50代の天皇になります。
しかし、天皇即位の影には常に陰謀が渦巻いていました。
その頃は、以前失脚した天武系の子孫もまだいましたので、朝廷内が天武系派と天智系(桓武)派にわかれ、謀反を企てたとか、呪詛(死を願う呪いをかける事)したとか、という事件がたびたび起こっていました。
そんな天武系の影から逃れるため、そして強くなりすぎた仏教勢力からの離脱のため、桓武天皇は即位4年目に平城京(奈良)を捨て、当時、右腕として信頼していた藤原種継(たねつぐ)の薦める長岡京へ都を遷しました。(11月11日参照>>)
しかし遷都した翌年、その種継が暗殺されてしまうのです。
真犯人がはっきりしないまま、十数人が死刑となり、関係している人物の中には、桓武天皇の弟・早良親王も含まれていました。
早良親王は食物を絶って無実を訴えますが、聞き入れられず淡路へ流罪となり、その護送中、船の中で餓死してしまいます。
異変はその時から起こります。
桓武天皇の夫人、母、皇后そして後を継がせようと思っていた皇太子も相次いで亡くなり、長岡京も2度の洪水に見舞われます。
「これは、非業の死を遂げた早良天皇の祟りだ」と都じゅうの噂になります。
桓武天皇にとっては、早良親王以外にも、思い当たるふしがあります。
自分に反対する天武系の人々を、謀反や呪詛の疑いで、ことごとく抹殺してきていました。
もう、怖くてたまりません。
わずが10年で長岡京を捨ててしまいます。
桓武天皇は、和気清麻呂の助言を得て四神相応の地(四つの神に護られた土地)に、徹底的に怨霊を排除した都を造ります。
それが、平安京だったのです。
北に玄武の船岡山、東に青龍の鴨川、南に朱雀の巨椋池、西に白虎の山陽・山陰道。
これが、東西南北を護る四神です。
そして、北東・北西・南東・南西の都の四隅に早良親王と非業の死を遂げた人々の霊を祭る大将軍神社を建て、御所の北と南に、これまた早良親王らを祭る御霊神社。
都の鬼門には比叡山延暦寺があり、裏鬼門には石清水八幡宮。
さらに、怨霊を鎮める祭り・御霊会(ごりょうえ)が平安京の周辺で行われるようになります。
現在の祇園祭をはじめ、多くの京都のお祭りはこの御霊会が起源のようです。
何事も起こらないように・・・そんな願いを込めて桓武天皇は平安京と名づけました(11月8日参照>>)。
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平安京の遺跡を巡り東寺から二条城へ
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朱雀門跡付近
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コメント
茶々さん、こんばんは。
仰るとおり、早良親王の件や疫病、災害、治安の乱れなど、疑心暗鬼になっていた桓武天皇は動揺してしまったのでしょうね。
そういったこと全てをその土地に因果を押し付けてではないのでしょうけれど(?)~遷都。 当時の状況であればやむをえないことなのでしょう・・・か?
奈良時代に比べ、何となく閉鎖的、内向的な平安時代~文学小説などにもみられる魑魅魍魎の世界をイメージしてしまいます(汗)。
私の平安京についてのわずかな記憶(笑)というと、話がズレてしてしまいますが陰陽五行・陰陽道に通じていた陰陽師を連想してしまいます。
そして、しばらく後にあの阿倍晴明が登場するのでしょうね。
戦国時代や幕末とはまた違ったミステリアスな千数百年前の平安の世。そこにはやはり、数々のドラマが展開されていたのでしょうね~、平安時代もちゃんと勉強してみたくなりました!
投稿: ルーシー | 2006年10月23日 (月) 00時33分
ルーシーさん、こんにちは~。
平安時代、この怨霊の次は末法思想ブームがやってきて、この世の終わり的な物に都人は悩まされるんですよね~。
まもなく紅葉の季節、艶やかな表通りを1本裏道に入ると、ウソのように人通りがなくなり、独特のミステリアスな雰囲気が漂います。
そこがまた、京都の魅力だと思いますよ。
投稿: 茶々 | 2006年10月23日 (月) 13時33分
こんばんは。
この未完の都・平安京、そして青丹よしの平城京よりも、時代を遡る藤原京のほうが大きかったとの最近の発掘成果におどろいています。
持統帝って、すごい権力者だったんですね。
投稿: M.M(仮名) | 2006年10月24日 (火) 23時43分
MMさん、こんにちは~。
そうですね、つい先日、幻の都と言われていた『保良宮』が滋賀県で発掘されてましたね。
平城宮も、戦前は一面の田んぼでしたしね。
遺跡の真ん中を近鉄電車が走っちゃってますから・・・。
発掘によって、定説が一気に覆される・・・だからこそ、推理のしがいがあるという物ですね。
投稿: 茶々 | 2006年10月25日 (水) 16時48分