源頼朝、鎌倉で再起
治承四年(1180年)10月6日、先の石橋山の合戦で敗れた源頼朝が、再起を賭け鎌倉入りし、鎌倉を本拠地とする事を決めました。
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平治の乱(12月9日参照>>)に敗れて後、伊豆の蛭(ひる)ヶ小島で流人生活(2月9日参照>>)をおくっていた源頼朝(みなもとのよりとも)が、以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が発した平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)(4月9日参照>>)を受けて挙兵を決意・・・
治承四年8月17日には、山木兼隆邸の夜討ち(8月17日参照>>)をカッコ良くキメた頼朝でしたが、続く石橋山の合戦(8月23日参照>>)で敗れて山中を逃げ回り、真鶴岬から、何とか小舟に乗って、落ち武者狩りの包囲網から脱出しました。
先に到着していた三浦義澄(みうらよしずみ)・和田義盛(わだよしもり)・北条時政(ほうじょうときまさ)に迎え入れられ、勝山近くに上陸た頼朝は、みじめな思いをして5日間逃げ回ったにもかかわらず、すぐさま中央からはじき出された武士たちや、上総・下総の武士たちに、参集の命令を携えた使者を送りました。
その呼びかけに、まず応じたのは、千葉常胤(ちばつねたね)・・・彼の3百余騎の兵を得て士気もあがり、武蔵の国境・隅田川のほとりに到着した頃、今度は上総介広常(かずさのすけひろつね・平広常)(12月20日参照>>)が2万の大軍を引き連れてやってきました。
しかし、本当は広常は、これよりもっと早くに頼朝の所へ駆けつける事ができていたのですが、わざと様子を見ていたのです。
「平家打倒の旗揚げをしたものの、石橋山で敗れた源氏の御曹司が、もしたいした人物でないのなら、その首を討ち取って平家に献上してやろうか・・・ちょっと、その顔を見てきてやれ」ぐらいの、軽い気持ちでここまでやってきたのです。
ところが、頼朝はそんな広常に「参加するのが、遅い!」と、怒りまくるのです。
大軍を率いて味方に加わりに来たのだから、感謝されこそすれ、怒られるとは思ってもみなかった広常。
でも彼は、そんな頼朝の態度に器の大きさを感じてしまったのです。
「この人こそ、主として仰ぐにふさわしい」と、瞬時にして服従する事を決意したのです。
実は、頼朝という人は、こういう飴とムチの使い方がじつにうまかったんですねぇ~。
ある時は寛容なやさしさを見せ、ある時は威圧的に押さえ込む・・・まぁ、それが大将の器という物なのかもしれませんが・・・。
そんな感じで、頼朝はあっと言う間に、関東一円の東国の武士たちを従える棟梁となっていくのです。
かねてから、父・義朝の館跡でもあり、ゆかりの地でもあった鎌倉に居所を定めるよう進言していた千葉常胤の言葉を聞いて、頼朝は鎌倉を自分の本拠地とする事を決意しました。
そして、石橋山の敗戦からわずか1ヶ月余りしかたたない治承四年(1180年)10月6日、堂々鎌倉入りした頼朝の軍勢は、すでに5万の大軍になっていました。
翌日、伊豆からやって来た北条政子(ほうじょうまさこ)も迎え入れられ、晴れてふたりは正式な夫婦となりました。
父の反対を押し切って、かけおち同然で頼朝の胸に飛び込んだ彼女にとって(7月11日の前半部分参照>>)、その喜びは例えようもない物だったでしょうね。
しかし、やっと本拠地に落ち着いた頼朝でしたが、ゆっくりしている暇はありません。
そう、石橋山の出来事は、すぐに京の都へ伝えられ、西から、平家の轡(くつわ)の音が徐々に迫りつつあるのですが・・・
続きのお話は、富士川の合戦のあった10月20日に>>させていただく事にします。
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コメント
三浦義澄・和田義盛・北条時政それに石橋山の梶原景時など頼朝を支える武将がそろって
いくんですよね。永井路子「炎環」を茶々さんの文章を読みながら思い出していました。頼朝を支えた武将たちの悲劇がえがかれます。茶々さんの題材はいつも興味深い
ですね。
投稿: touyou | 2006年10月 7日 (土) 00時13分
touyouさん、いつもコメントありがとうございます。
そうですね。
結局、頼朝さんの直系は三代で絶えてしまうし、頼朝挙兵以来の重臣たちは、ほとんど潰され、北条氏の天下になってしまいますから・・・
悲しい運命です~。
投稿: 茶々 | 2006年10月 7日 (土) 00時41分