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2006年10月14日 (土)

大政奉還~徳川慶喜の思惑は?

 

慶応三年(1867年)10月14日、政権を幕府から朝廷に返す・・・という大政奉還がなされました。

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徳川幕府・最後の将軍となった第15代・徳川慶喜(よしのぶ)御三家・水戸徳川家の徳川斉昭(なりあき)の七男として生まれます。

やがて、御三卿のひとつ一橋家を相続しますが、第13代将軍・徳川家定の後継者争いで、ライバル・紀州家の慶福(よしとみ)に敗れ、慶福が第14代将軍・家茂(いえもち)として就任しました。

一旦、謹慎処分となりますが、その後、家茂の後見職として復帰

そして、家茂急死の後、慶応二年(1866年)12月に将軍職を継ぎ、徳川幕府・第15代将軍となるのです。

慶喜は就任早々、幕府改革に腕をふるいます。

急いで、旗本から優秀な人材を抜擢し、幕府の財政の再建、軍備の強化をはかります。

彼が急がなければならなかったのは、言うまでもなく、この年の1月にそれまで犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩が手を結び(1月21日参照>>)討幕という一つの目標に向かって力をつけてきたからです。

慶喜は稀代のリーダーシップを発揮します。

それは、あの木戸孝允(たかよし・桂小五郎)「徳川家康の再来」と評価し、維新の中心人物・岩倉具視(ともみ)にも「軽視してはならない敵」と言わせる程でした。

しかし、状況は次第に薩長の倒幕派が有利に展開していきます。

このまま幕府が倒されれば、当然、何もかも失ってしまいます。

慶喜は何とか、『何もかも失わない方法』を考えました。

薩長側も、慶喜が意外に名将軍である事を知り、「これは、早めに討幕を果たさねば・・・」という空気に包まれて行きます。

そんな悩みに悩んでいる時、慶喜の心を決定づけたのが、土佐藩・前藩主の山内容堂(ようどう)が提出した建白書でした。

この建白書に書かれてあったのは、あの坂本龍馬が長崎から京都へ向かっていたとき、その船の中で作ったとされる『船中八策』のアイデアをもとに、その船に一緒に乗っていた土佐藩の後藤象二郎が作り上げた『列藩会議』という物でした(6月22日参照>>)

それは、「まずは朝廷に政権を返し、天皇の下に諸大名で組織された列藩会議なる物を設けて、将軍はその議長となって政治を行う」というのです。

将軍という名前はなくなるものの、これなら、政治のトップは朝廷でありながら、実際には将軍家を中心に政治を行う事ができます。

この構想は、側近の西周(にしあまね)が考える「大君制」(11月22日参照>>)ともつながるもので、すでに、慶喜の選択肢の一つだったとも考えられます。

そうなると慶喜のフットワークは軽い。

10月9日に、幕閣・重臣たちを二条城に集め、大政奉還について一旦話し、翌10日には、朝廷に提出、11日に天皇の許しを得て、慶応三年(1867年)10月14日、あっさりと大政奉還をしてしまいました。

Taiseihoukan2zyouzyou2600 お馴染のシーン

「慶喜は最後まで政権を手放すはずはない」と思っていた討幕派は、これにはびっくりです。

政権が朝廷に戻った以上、討幕する理由がありません
大義名分が無くなってしまったのです。

慶喜の思惑はズバリ敵中!

10月26日には、慶喜は日本の総石高の4分の1にあたる800万石の直轄(ちょっかつ)と旗本八万騎の兵力を持ったまま、朝廷のOKサインをもらっています。

しかし、討幕派は黙っていません・・・もちろん、すでに手は打ってあります。

Dscn2879慶喜が最終決断を下した10月13日と14日・・・この同じ日に、薩摩と長州に「討幕の密勅(みっちょく)(10月13日参照>>)が下され、さらに、12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)というクーデターを決行するのです。

しかし、それでもまだ…公儀政体派(朝廷のもとで徳川家や諸藩主による議会での政治を理想とする)の諸士の尽力によって、幕府は、イギリス・アメリカ・フランスなど6ヶ国の外交権を掌握して、未だ政権担当能力ない朝廷から、慶喜の議定就任の約束を取りつけ、来たる12月28日には、慶喜が新政府の議会の最高責任者となるはずだった、、、

のですが、そこに起こったのが幕府軍による薩摩藩邸を襲撃事件(12月25日参照>>)で、先に手を出してしまった幕府は、鳥羽伏見にて、薩長から通せんぼされる事になるわけです(1月3日参照>>)
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コメント

こんにちは。
そういう意味で大政奉還がなされたんですね
~。素人発言ですが、もうめんどくさいから朝廷に返したのかと思ってました(^_^;)

二条城は修学旅行で行きました!廊下が鴬張りになってるとこですよね。当時、僕らを連れまわしてくれたタクシーの運転手が『あまり時間がないから早めに帰って来いよ』って言ったので、なるべく早めに見て帰ってきたら『なんだ!もう帰ってきたのか!?』って言われた思い出の場所です(^o^)

12月9日どっちを書くのか楽しみにしてます。ヽ(^o^)丿書いた話によっては『そっちか~い!!』と突っこませてもらいますが(笑)

投稿: 見習い大工 | 2006年10月14日 (土) 17時50分

見習い大工さん、こんばんは~。

そうですね、二条城は修学旅行生に人気のようですね。
あそこの鴬張りは、キレイな音で、しかも良く聞こえます。
歴史が動いたその場所が、今も残っている事にすごく感動しました~。

今度は本丸御殿の特別公開の時期に行ってみたいと思っています。

12月9日、ぜんぜん別の事書いてたりして・・・

投稿: 茶々 | 2006年10月14日 (土) 20時53分

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