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2006年10月 3日 (火)

武田信玄、上洛!

 

元亀三年(1572年)10月3日、武田信玄が甲斐を出発しました

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永禄十一年(1568年)に、将軍・足利義昭を奉じて上洛(9月7日参照>>)して以来、しばらくは蜜月を過ごした織田信長と義昭でしたが、しだいに、お飾りの将軍より、実力のある信長の方に、様々な実権が握られて行くわけで・・・

当然、義昭はおもしろくありません。

自分が、将軍としてもう一度権力を握りたかったわけですから・・・。

それに・・・
義昭以外にも、並み居る戦国武将たちが、このままやすやすと信長が天下統一をするのを黙ってみているはずがありません。

越前の朝倉、近江の浅井比叡山延暦寺三好三人衆、そして、石山本願寺(9月12日参照>>)、さらに、ここに武田信玄も加わって、「信長に、これ以上好きにはさせない!」とばかりに包囲網を張り巡らします。

しかし、もう信長の勢いはとまりません。

浅井・朝倉を姉川の合戦(6月28日参照>>)で破り、三好三人衆を攻め、石山本願寺とも戦い(8月2日参照>>)を始めました。

比叡山延暦寺も、合戦で負けた浅井・朝倉の落ち武者をかくまう形で参戦し、怒った信長は、比叡山を焼き討ち(9月12日参照>>)してしまいます。

そんな時、いよいよ武田信玄が動きだします。

宿敵・上杉謙信との戦い(9月10日参照>>)が、一段落ついて、とりあえず越後に封じ込め、ついに・・・と言うか、やっと・・・と言うか、上洛を決意?ます。(12月12日参照>>)

もう、すでに信玄は五十代・・・京を制する者は、天下を制す・・・この機会を逃せば、天下も逃してしまうかもしれません。

そして、元亀三年(1572年)10月3日・・・4万5千の軍勢を従えて、甲斐を出発しました。

謙信のてまえ、北陸道は通らず、東海道を西に向かいます。

そうすると、まず行く手を阻むのは、信長と同盟関係にある徳川家康浜松城です。

ほどなく、浜松城にいる家康のもとにも、『信玄上洛』の知らせが届きます。

「味方は1万足らず、まともに武田軍と戦っては勝ち目がない」と思った家康は、『籠城し信長の援軍を待つ』という作戦に出ます。

しかし、その頃の家康は、信玄にとって痛くも痒くもない、眼中にもない存在だったようで・・・

信玄は、「城を攻めれば間単に勝てるだろうが、時間が惜しい・・・一刻も早く上洛し、来たるべき信長との戦いに力をそそぎたい」と、思っていたようです。

信玄は、家康を無視して、浜松城を素通りして、そのまま西へ向かいました。

これは、家康を籠城させないで、城から出て戦わせるために、わざと素通りした信玄の作戦だったとも言われていますが、もし本当にそういう作戦だったとしたら・・・家康はものの見事にひっかかってしまいます。

この頃の家康は、まだ青かったんですね。

のちのち秀吉と対峙する頃の家康からは想像もできない言葉がでます。

「自分の城下を素通りして行くのを、見過ごすなんて武士の恥!末代まで腰抜けと言われる。城を出て戦を仕掛けるぞ~!」

重臣たちは、はやる家康をなんとか抑えようとしますが、信玄に無視された家康のプライドが許しません。

そして、家康は無謀を承知で、信玄に戦いを挑みます。

これが、『三方ヶ原の戦い』(12月22日参照>>)と言われている戦いです。
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