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2006年10月28日 (土)

梶原景時・弾劾状を作成

 

正治元年(1199年)10月28日、鎌倉幕府の御家人・66人が、鶴岡八幡宮に集結し、梶原景時の弾劾状を作成しました。

・・・・・・・・・・・

この梶原景時(かじわらかげとき)さんには、とにかく悪人の印象がつきまといます。

石橋山の合戦(8月23日参照>>)では、大庭景親(おおばかげちか)とともに源頼朝(みなもとのよりとも)と戦いながら、敵である頼朝を助け、そのすぐ後に平家に見切りをつけて、さっさと頼朝軍に加わってしまうしたたかさ。

その後、頼朝の弟・範頼(のりより)義経(よしつね)平家追討に目付け役として同行し、最終的に頼朝と義経の確執を生んだ張本人でもある事(5月24日参照>>)

それらの事が入り乱れて、時代劇では、ものすご~く意地悪な人に描かれています。

昨年の大河ドラマ・義経でも、主役の義経さんになんやかんやと文句ばっかり言う景時をネジネジの中尾さんが憎たらしく演じておられました(←演技がお上手なので憎たらしさ100倍!)

しかし、よくよく考えてみると、景時さんの行動は、別にそんなに批判されるべき物でもありません。

Kaziwarakagetoki800a 石橋山の合戦の後の寝返りにしても、当時は平家全盛の時代。

源氏が壊滅状態にあったわけですから、その時生き残っていた武士は、ほとんど平家の傘の下にいた人たちです。

あの北条氏も、流人の頼朝を見張る役だった平家の人。

木曽義仲(きそよしなか=源義仲)と運命をともにする中原一族も、幼子を殺すのはしのびないとして、彼を預かった平家の人。

この時に平家から源氏に乗り換えた人は景時さんだけではありません。

義経さんとの平家追討の時の論争も(2月16日参照>>)、時として独走しがちな義経を、兄・頼朝の代役として軍目付けの立場から、意見を言っただけですし、その事を頼朝に報告したのも、言わば役目を果たしただけです。

そのために、頼朝さんから派遣されてるわけですから・・・。

石橋山の合戦の後、頼朝の家臣となってからの景時は、とにかく頼朝第一で、忠誠をつくしていました。

頼朝も、事務処理にすぐれ、自分の命令には絶対服従してれる景時を高く評価していたのです。

景時の印象を悪くさせるのは、やはり北条氏の残した書物によるプロパガンダです。

『北条九代記』などには、建久三年(1192年)、源頼朝が征夷大将軍になった時、和田義盛(わだよしもり)に代わって景時が侍所の別当(現在の警察庁長官のようなもの)に就任した出来事を、かねてから侍所の別当の役職を狙っていた景時が、当時の別当だった義盛に「一日だけその職を貸してくれ」頼み込んで、単細胞の義盛が承知したのを幸いにそのまま居座った・・・などと書かれていますが、そんな事は常識で考えてありえない事です。

別当の交代は、あくまで頼朝の人事であって、そんな重要な役職を、そんな事で居座り続けられるものではありません。

とにかく、嫁の実家である北条氏にとって、自分たちより頼朝に気に入られている景時が、どうしても気に入らない。

目の上のたんこぶだったんでしょうね。

それは、北条氏以外の他の御家人たちにとっても同じでした。
誰だって幕府の長である頼朝に気に入られたいのです。

そして、訪れた正治元年の正月。

鎌倉幕府の確立を見ないまま頼朝が死んでしまいます(12月27日参照>>)

景時の不幸はその時から始まったのです。

頼朝という大きな柱をなくした鎌倉幕府・・・頼朝の嫁・政子(まさこ)の実家の北条氏と、後を継いだ二代将軍頼家(よりいえ)の嫁の実家の比企(ひき)、それと、多くの御家人たちが、主導権を争う事になります。

そんな中で、将軍・頼家は、どうしても嫁の実家を重視してしまいます。

このままでは統率が取れなくなるので、とりあえず頼朝時代からの重臣13人を宿老と定めて、その13人の宿老たちで政務を行う事を決めました(4月13日参照>>)

その13人の中には、景時に別当職を取られた義盛も、政子の父・北条時政(ほうじょうときまさ)も、将軍・頼家の嫁の父・比企能員(ひきよしかず)も、そして景時自身も入っていたのです。

しかし、頼朝という大きな後ろ盾を失った景時・・・まず、最初のターゲットとなってしまいます。

頼朝の死から一年とたたない正治元年(1199年)10月28日梶原景時・弾劾状が作成されるのです。

弾劾(だんがい)・・・を辞書で引くと『失敗や犯した罪を暴いて責めること』とありますが、要するに、景時が将軍(頼家)の悪口言ってた・・・とか、なんか裏でコソコソ画策してた・・・などという事をいっぱい書いて提出したのです。

この弾劾状を将軍・頼家に提出する役は、13人の宿老のひとり・大江広元(おおえひろもと)でしたが、この人は政所の長官を勤める良識のある人物で、さすがに「亡き主君の一周忌を迎えてもいないのに・・・」と、この弾劾状を将軍に渡さず、しばらく手元に止めておきました。

しかし、この弾劾状を作った張本人である義盛に即され、しぶしぶ将軍・頼家に取り次ぎ、頼朝一番の寵臣であった景時は鎌倉を追われる事になるのですが、もちろん、景時とて、このまま引き下がるわけにはいきません。

・・・と、そのお話は、弾劾状提出から3ヶ月経った翌年の1月20日・・・【梶原景時の乱】でどうぞ>>
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