南北朝の合一
元中九年・明徳三年(1392年)10月5日、足利義満の時代に、南朝・後亀山天皇が北朝・後小松天皇に譲位する形で、ようやく南北朝が合一しました。
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最初は仲良く、執権・北条氏を倒して、鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐天皇と足利尊氏でしたが、後醍醐天皇の建武の新政の失敗(6月6日参照>>)からふたりの関係に亀裂がはいり、尊氏は京都で北朝を、後醍醐天皇は吉野で南朝を(12月21日参照>>)、それぞれの天皇、それぞれの元号を主張した南北朝時代に突入します。
後醍醐天皇の大いなる味方・楠木正成が湊川の戦い(5月25日参照>>)で敗死しても、新田義貞が越前で倒れても(7月2日参照>>)ひとつの国にふたりの天皇がいるオカシナ形は、57年間に渡って続きました。
しかし、その57年間も、最初のうちこそ互角に戦っていたものの、そのほとんどは圧倒的に北朝=室町幕府の優勢で、政治の中心は京都にありました。
・・・にも、かかわらず、なぜ、57年間も北朝は南朝を倒せなかったのか?
それは、三種の神器を南朝の後亀山天皇側が持っていたからです。
三種の神器とは、神代の昔から天皇家に伝わる八咫の鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の3つの宝物です。
若いかたには、ピンと来ないかもしれませんが、この三種の神器はとても重要で、これを持っている事が正統な天皇家の証とされています。
現在でも、第二次世界大戦で無条件降伏した際、昭和天皇が三種の神器を相手側に奪われないかと心配されたという事がありましたし、現在の天皇陛下も即位される時、昭和天皇からの継承の儀式を行って即位されています。
昨年の大河ドラマでも、平家とともに海に身を投げた安徳天皇から三種の神器を奪えなかった・・・と義経さんが悔しがるシーンがありました。
ですから、南朝が三種の神器を持っている以上、本来はそちらが正統な天皇家となるわけで、いくら北朝がとてつもない強さであっても、一気に南朝をぶっ潰してしまう、という強硬手段になかなか出れなかったわけです。
しかし、やはり57年経って、圧倒的強さの北朝に、南朝はもはや虫の息。
北朝の出した講和条件を呑んで命をつなぐしかてだてがありませんでした。
そして、元中九年・明徳三年(1392年)10月5日に南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇に(10月20日参照>>)に、三種の神器と皇位を譲る・・・という形で講和が成立し、南北朝の時代は終わりました。
室町幕府はもう三代将軍・足利義満の時代でした。
その講和条件とは、
① 三種の神器を北朝・後小松天皇に渡し、南朝・後亀山
天皇は譲位する。
② 以後、天皇は南朝・北朝が交互に立つ。
③ 皇室領のうち、国衙領は南朝派の物、長講堂陵は北朝
派の所領とする。
という物でした。
しかし、結局はそれらの条件は一つも守られませんでした。
皇位継承は、三種の神器だけが後小松天皇のもとに渡され、譲位の儀式などはいっさい行われる事もなく、所領に関しても、すでに幕府が全面的に仕切っていて南朝側の入る余地もなく、元号も北朝の使っていた明徳がそのまま使用され、南朝の元中は消されました。
次の天皇さえも、北朝の次に南朝に来ることはなく、後小松天皇の息子が継承してしまいました。
もちろん、元南朝側は不満を抱いて、後亀山天皇は京都を出奔し(4月12日参照>>)、武士たちも各地で反乱を起こしたりもしますが、もはや室町幕府が揺るぐ事はなかったのです。
いつの世も講和条件というのは、対等の間でこそ成り立つ物で、ここまで力の差が出ていれば、無条件降伏も同じ事なんでしょうかね。
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