吉田松陰、死刑!
安政六年(1859年)10月27日、吉田松陰が、江戸小塚原において、斬首されました。
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時の大老・井伊直弼が断行した安政の大獄・・・多くの勤皇の志士が弾圧・処刑された、その中に、吉田松陰もいたわけです。
先日の【井伊直弼の本心】(10月7日参照>>)のページでも書かせていただきましたが、これは吉田松陰が、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺計画と梅田雲浜(うんびん)(9月14日参照>>)奪還計画を、自白したために極刑が言い渡された物で、しかもこの自白は拷問とかではなく、松陰自らの覚悟の自白だったと言われています。
彼の教えを受けた幕末の志士たちが、80人にも及ぶというところから、ついつい、それなりの年齢の人を想像してしまいますからね。
高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、数えあげたらきりがありません。
また、友人として親しくしていた桂小五郎も、少なからず彼の影響を受けていた事は確かです。
そんな松陰が、来航したペリーの黒船(6月3日参照>>)に忍び込んで、アメリカに渡ろうとして失敗したのが24歳の時。
この時、捕らえられた松陰は、萩の野山獄で3年間獄中生活を送る事になるのですが・・・ここで、同室になった11人の罪人たち・・・。
彼らは皆、世間を逆恨みし、未来に希望を持てず生きる気力さえ失った人たちでした。
しかし、松陰はそんな彼らにも、それぞれの長所を見出すのです。
それは、投獄される以前についていた仕事や趣味・・・といった類の物で、ある者は俳句が得意だったり、ある者は字が上手であったり・・・などのたわいのない物でしたが、松陰はそんな人たちに教えを乞いました。
そして、逆にお返しとして自分の持つ知識を彼らに講義します。
やがて、それは獄中サークル活動、獄中同好会のように野山獄の中で広がっていきます。
最終的にその活動は周囲も巻き込んで、看守までもが受講を願い出て同好会に入るようになりました。
まったくやる気のない人を、これほどまでに変えてしまう・・・松陰の教育法のマニュアルをぜひ見てみたいものですね。
某テレビ番組の冒頭のナレーションでも言っていましたが、「人は生まれながらに知る事を欲する」。
本来、人に備わっているはずの、その意欲を引き出す力・・・だからこそ、松下村塾(11月5日参照>>)は多くの逸材を輩出したのでしょう。
罰せられる事を承知で、進んで自白した松陰・・・。
自らの身を投じて、信頼できる教え子たちにバトンを渡す・・・そんな気持ちだったのでしょうか。
♪身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂 ♪
♪親思ふ 心にまさる 親心
今日のおとづれ 何と聞くらむ♪
この歌を時世の句として萩の両親に送り、安政六年(1859年)10月27日、松陰は刑に服しました。 .
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コメント
上記の「弟子」から先生と呼ばれたけれども、実際は年齢が近いんですね。先輩や兄のような感覚と言っていいですね。坂本龍馬とも年が近いです。
大河ドラマの幕末作品の場合は、中年俳優が集中する傾向(特に今年はすごい)にあるので、「年齢ギャップ」が大きくなりますね。
時代背景を勘定すると「幕末の志士」は、志で言うと早熟だったんでしょうね。今の政界で30代前半~40歳は、まだまだ「駆け出し」ですからね。
投稿: えびすこ | 2010年9月19日 (日) 15時17分
えびすこさん、こんにちは~
別のページにも書かせていただいたと思いますが、確か、松下村塾の塾生たちとも兄弟のように接していたと言いますから…
先生というより兄貴って感じだったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2010年9月19日 (日) 17時36分