奥州藤原氏の誕生~後三年の役・終結
寛治元年(1087年)11月14日、源義家と清原清衡の連合軍が清原家衡を破り、後三の役が終結しました。
あ~名前がややこし過ぎ!
・・・・・・・・・
時は平安後期、都では藤原氏があの藤原道長・頼道親子の全盛期が過ぎ、ちょっとばかり陰りが見えたか見えないかのあたりの頃・・・。
場所は東北・・・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の蝦夷征伐で(11月5日参照>>)、中央政府に服従する形になっていた蝦夷の子孫で、東北の半分くらいに勢力を誇っていた安倍一族を、前九年の役で滅亡に追いやって(9月17日参照>>)、もともと自分の持っていた出羽と合わせて、東北最大の豪族となった清原武則(たけのり)さん。
その戦いから30年くらいたって時代はその子・孫へと移ります。
武則の子・武貞(たけさだ)には三人の息子がいました。
長男・真衡(さねひら)は先妻との子供。
次男・家衡(いえひら)は後妻との子供。
そして、もうひとり、後妻の連れ子・清衡(きよひら)の三人・・・
(年齢的には真衡と家衡の間…つまり兄と弟に挟まれた状態です)
しかも、この後妻=清衡の母というのが、父・武則が滅ぼした安倍氏の娘で、父親は、先の戦いで安倍氏に味方して死んだ藤原経清(つねきよ)という人なのです(7月13日参照>>)。
もうすでに、昼ドラのような不穏な空気が・・・(゚ー゚;。
まずは、清原一族の中の吉彦秀武(きみこひでたけ)という人が真衡とモメて、家衡と清衡に助けを求めたため、真衡VS家衡&清衡の戦いが勃発します。
しかしこの時は、中央政府から陸奥守(むつのかみ)として派遣されている、あの八幡太郎と呼ばれ鎮守将軍・源義家(みなもとのよしいえ)が間に入り、大きくならずになんとか納まりました。
それから間もなく、真衡が病死してしまったので、義家は、真衡の残した領地を、家衡と清衡に分配します。
これが、家衡には気に入らなかった・・・。
なんせ、兄弟とは言え清衡は連れ子、真衡が持っていた領地は自分が独占するつもりでいたのです。
そんな家衡は清衡の留守中に家を焼き、一族を殺してしまうのです。
怒った清衡は合戦を決意し、義家に助けを求めます。
義家は、清衡に非はないわけですから、当然、清衡の味方・・・こうして始まった家衡VS清衡&義家の戦いが後三年の役です。
最初は家衡側が有利に戦いを進めていましたが、やがて、義家の弟・新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が加わり、清衡+義家の連合軍が、寛治元年(1087年)11月14日に勝利を収め、後三年の役は終結しました。
しかし、中央政府はこの事をあまり快く思っていませんでした。
なんせ、これは、あくまで東北の豪族・清原家のお家騒動・・・
個人的とも言えるお家騒動に中央政府の将軍が介入しまくってしまいましたからねぇ~。
もちろん恩賞もなく、結局、義家は陸奥の国司を解任され、追われるように東北を去ります。
お家騒動で荒れ果てた奥州の地に、一人残った清衡・・・。
彼は、姓を清原から父方の藤原に戻し、藤原清衡と名乗り、ここに中央政府の支配の届かない独立王国の建設を始めるのです。
奥州・藤原氏の誕生です。
★奥州・藤原氏の滅亡については8月10日へどうぞ>>
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