平安京、命名の日
延暦十三年(794年)11月8日、桓武天皇が新しい都に平安京と名付けました。
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桓武(かんむ)天皇が怨霊に怯えながら、何事もないように・・・との願いを込めて平安京と名付けた事は、都が遷された10月22日>>に書かせていただきましたが、当時は一般的に都の事を京、もしくは京都と呼んでいました。
ですから、藤原京も長岡京も、そして平安京も、京または京都と呼んでいたんです。
それにしても、最初は桓武天皇もまさか、ここまでこの地が長く都であり続けるとは、思っていなかったでしょう。
古来から、天皇が変れば遷宮(天皇の居所を都の中の別の場所に遷す事)したり、何か不吉な事で引越したり・・・という事がしばしばありましたから、平安京も最初のうちは、そのような不安定な状況だったようです。
桓武天皇の後を継いだ息子の平城(へいぜい)天皇が、たった三年で弟の嵯峨(さが)天皇に皇位を譲って、奈良の平城京で隠居暮らしをしている時、奈良の平城京に都を戻し+自分が天皇に返り咲こうとした例の藤原薬子の乱(9月11日参照>>)が起きた事で、ビビッた嵯峨天皇は、退位した元天皇の居場所として、現天皇の住む内裏の近くに、前天皇の住む後院という建物を造り、不穏な動きが起きるのを防ぐ・・・という措置をとりました。
鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記』にも
「この京はじめ聞けることは、嵯峨の天皇の御時(おんとき)、都と定まりにける・・・」
と、嵯峨天皇の時代にやっと平安京が落ち着いた事が書かれてあります。
これ以降は、平清盛(たいらのきよもり)が政権の建て直しを図って、福原に遷都した(11月26日参照>>)5ヶ月間を除いて、明治までの長きにわたり、ここに都が置かれる事になります。
源頼朝(みなもとのよりとも)は、かなり都志向が強かったらしく、それを心配した千葉常胤(ちばつねたね)の進言(10月6日参照>>)により、都で幕府を開くのをやめ、鎌倉で幕府を開きました。
足利尊氏(あしかがたかうじ)の場合は、すでに経済が京都を中心に回っていた事、南北朝の動乱で自身が京都を離れられなかった事などあって(8月15日参照>>)、京都以外では幕府を開けない状態だったと思われます。
もし、ここで強引に別の場所で幕府を開いていたら、現在の京都の町は大きく変わっていたのでしょう。
室町時代に、北山文化&東山文化が花開いた(6月27日参照>>)事によって伝統文化の息づく町となった京都は、明治に東京に遷都された後も、都としての魅力を持った町としての現在の位置を保っているのでしょうね。
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