落日の尼子氏と十勇士
永禄九年(1566年)11月19日、山陰の雄・尼子氏が月山富田城を毛利軍に包囲され、降伏を表明しました。
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南北朝時代、婆娑羅大名で知られる佐々木道誉(どうよ)の孫が名字を尼子としたのに始まる尼子氏は、室町時代に出雲(島根県)の守護代となってから、同族どうしの争いがなどがあったものの、戦国時代の尼子晴久の頃には、山陰・八ヶ国を治める大大名になっていました。
しかし、その晴久の晩年の頃に、またまた同族の対立による争いが起こり(毛利がウラで糸を引いていたとの噂もあります)、少し影が見え始めました(1月13日参照>>)。
絶好のチャンス!と見て取った安芸の毛利元就は尼子氏の領地に進攻し始めます。
晴久は必死に応戦するも、相手は今、まさに昇り調子の元就。
しかも、毛利はそれまで対立していた九州の大友氏とも和解し、その全力を対・尼子氏に注いできます。
そんな中、晴久が急死してしまい(12月24日参照>>)、後を継いだ息子・義久が毛利の圧迫に屈し、永禄九年(1566年)11月19日に降伏し、11月28日には開城されました。
ここに尼子氏はいったん滅亡してしまいます(12月28日参照>>)。
そして、ここで登場してくるのが、山中鹿之介です。
鹿之介は、尼子氏が滅亡する以前から仕えていた旧臣ですが、当時はまだ若僧。
この頃になって、その才覚を表してくるのです。
鹿之介ら尼子氏の旧臣たちは、尼子一族の勝久を擁立し、隠岐の豪族・隠岐為清の協力のもと、いったん出雲一国を奪還しますが、またまた毛利に攻められ、主君・勝久とともに京都に脱出。
そして、京都で織田信長に会います。
信長はこの頃、四方敵ばかりの状態。
毛利も気になるけれど、とりあえず石山本願寺との戦いに力を注ぎたい時期でしたから、対・毛利の軍勢が増える事は、信長にとっても好都合です。
勝久と鹿之介は中国攻めで尼子氏が先方を努める事を条件に、信長の援助を得る事に成功します。
その後、織田勢の助けを借りながら、因幡に進攻して若桜鬼ヶ城・私都城を攻略し、ようやく尼子氏の再興に漕ぎつけました。
しかし、ここに来て古くからの重臣たちが毛利へ寝返り、信長も援助を打ち切る(5月4日参照>>)・・・という事態になってしまい、残った者たちだけでは無理だと判断し、城を捨てて丹波に落ちのびていきます。
そして今度は、信長の命を受けた羽柴秀吉の中国攻めに加わり、播磨の上月城を手に入れ(11月29日参照>>)、またまた尼子氏復興のチャンスを得ますが、またまたまた織田軍が手薄の時に、毛利軍に包囲され勝久は自害し、鹿之介は毛利に投降します(7月3日参照>>)。
鹿之介はなぜ、自害せずに投降したのでしょう?
それは、まだまだ尼子氏復興のチャンスを狙っていたからだそうで、本当にそうだとすると、なんともスゴイ執念ですね。
しかし、そんな気持ちを秘めている鹿之介を、毛利が恐れないわけがありません。
毛利輝元のもとへ護送されている途中で、彼は殺されてしまいます(7月17日参照>>)。
尼子勝久と鹿之介の死によって、尼子氏は完全に滅亡してしまいました。
この間の何度も何度も御家再興に立ち上がる尼子氏を支えたのが、尼子十勇士。
山中鹿之介がそのリーダー的存在だったのです。
彼が御家再興のため「願わくば、我に艱難辛苦(かんなんしんく)を与えたまえ!」と三日月に祈った話は有名です。
しかし、これらは、やはり真田十勇士と同じく、いろんな人物のエピソードと史実を混ぜ合わせて面白くした講談のお話。
鹿之介以下、秋上庵介(あきあげいおりのすけ)、横道兵庫助、上田早苗助(さなえのすけ)の四人は、実在の人物だそうですが、残りの人物はどうやら架空のようです。
それにしても、尼子一族というと、あの「たたりじゃ~」の『八ツ墓村』を思い出してしまうのは、私だけでしょうか・・・。
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コメント
こんばんは!なんか彼の忠誠心とゆうか執念は凄いですね。でも、攻めては攻められだし、せっかく復興しそうな時に寝返る人が出てくるし(>_<)
読んでたら生死をかけた戦いなんて今の日本では考えられないことだなぁと思いました。
あと、昔やってた三国志のゲームみたいな感じだなぁとも思いました(^_^;)
投稿: 見習い大工 | 2006年11月19日 (日) 21時10分
見習い大工さん、いつもコメントありがとうございます。
そうですね。なんだかんだ言っても今の時代は平和ですよね。
私も、不謹慎ですが、湾岸戦争の映像を見て「ゲームみたい」と思ってしまいましたから・・・。
戦いは、ゲームの中だけが良いですね。
投稿: 茶々 | 2006年11月19日 (日) 22時35分
今更コメントさせて頂きます…最近になっての読者なので、過去記事が出て来ると読みたくなり、コメントしたくなってしまいます(笑)
尼子は第2の故郷出雲地方の大名なので好きなのですが(元就は欠かさず見てました(笑))、鹿之助は少しどうかと…再興活動前、勝久は禅寺に居て彼女もいて、鹿之助の尼子再興の説得を勝久はだいぶしぶったらしいです。しかし、どうしても再興させたい鹿之助は無理矢理同意させるため邪魔な彼女を殺したようです。勝久自身も新宮党の生き残りで尼子に義理もないし、なんか巻き込まれて可哀相な気がします…
ところで、八つ墓村の祟りは尼子絡みだったと初めて知りました。むか~し子供の頃見たんですが…まあ当時は尼子なんて知らないから初耳なんでしょうね。第1の故郷岡山県と第2の故郷出雲の意外な繋りがわかり嬉しい?です。
そういえば、鹿之助は岡山の高梁川で斬られて亡くなったのですよね。船で護送中に殺気のせいで斬りつけられ川に落ちるが、向う岸にいた吉川元春に一太刀をと縛れたまま泳ぎ、結局更に斬られて絶命、と凄まじい死に様だったと聞いています。
義久兄弟は終生毛利の下で平穏に暮らし、子孫も毛利家臣として続いたのと対照的ですよね。
やはりなんかすごいです。
投稿: おみ | 2009年6月12日 (金) 12時46分
おみさん、こんばんは~
かなり前の記事なので、お恥ずかしいです(#^o^#)
一応、このページの主役なので、カッコよく書いてますが、おっしゃる通り、鹿之助に関しては賛否両論・・・忠臣の中の忠臣だと感じる人もいれば、本筋をほっといて別の血筋からのお家再興は本末転倒で、尼子のためではなく、自分のために働いただけという人も・・・
そこのところは、いずれまた関連した「その日」に迫ってみたいと思います。
鹿之助の最期については、確か上月城のところで書いていたと思います・・・まぁ、そこも、まだまだ書き足らない部分はあるんですが・・・
投稿: 茶々 | 2009年6月12日 (金) 18時43分
尼子氏の一部は尼川と名前を変えて今も存続しています。人気ロックバンドのflumpoolのメンバー尼川元気さんはその子孫です
投稿: ? | 2010年12月 2日 (木) 15時22分
?さん、こんにちは~
そうですね。
戦国時代の滅亡の定義は、「攻め込まれて降伏し、以前の勢力を維持できなくなる」というような物で、豊臣家のように、その血筋も絶えるほうが、むしろ少ないと思います。
尼子も義久ら3兄弟は、関ヶ原の敗戦によって毛利の勢力が衰えた後、家康によって幽閉を説かれて奈古(なこ・岡山県)1292石を給わり、直系は佐々木姓を名乗って近代まで続いています。
なので、子孫の方も多くおられる事と思います。
投稿: 茶々 | 2010年12月 2日 (木) 16時08分
尼川元気さんについてです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%B7%9D%E5%85%83%E6%B0%97
戦国大名の子孫が現代も活躍されているというのは何だかいいですね
投稿: ? | 2010年12月 2日 (木) 16時47分
?さん、こんばんは~
>戦国大名の子孫が現代も活躍されているというのは何だかいいですね
ホントですね。
スケートの織田信成くんもいますね。
投稿: 茶々 | 2010年12月 3日 (金) 01時03分