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2006年11月28日 (火)

鹿鳴館,バカ騒ぎ真の狙い

 

明治十六年(1883年)11月28日、東京日比谷日本で最初の西洋式社交クラブ鹿鳴館が誕生しました。

・・・・・・・・・

「私たちは、ロンドンかニューヨークにでも到着したのだろうか・・・」
これは、鹿鳴館に招かれたあるフランス人の言葉。

鹿鳴館(ろくめいかん)は、煉瓦造りの2階建て、ルネッサンス様式の堂々たる迎賓館です。

『詩経(しきよう・中国最古の詩篇)にある高貴な人をもてなす宴会=鹿鳴の宴にちなんで鹿鳴館と名づけられました。

鹿鳴館時代と呼ばれる明治二十年前後には、夜ごと舞踏会や仮装会が開かれ、上流階級の人たちや、その婦人・令嬢たちが夜を徹して踊りまくり、高級官僚や実業家たちも、何かにとり憑かれたかのように競って催しを行いました。

Rokumeikan1
鹿鳴館の舞踏会

このバカ騒ぎには、いったい何の意味があったんでしょう?

第1回帝国議会招集(11月24日参照>>)でも書きましたが、やはりこのバカ騒ぎも、黒船来航のドサクサで結んでしまった不平等な条約を、改正させたいがための物でした(10月8日参照>>)

不平等な条約を改正してもらうには、何とか日本という国を一人前に見てもらわなければ国権回復は果たせない・・・そう考えた当時の外務卿井上馨(かおる)の案だったのです。

とにかく文明開化・欧米化が必要であるとの信念で、当時の最高実力者・伊藤博文もこの案に賛成し、まずは上流社会が外国使臣と交流する社交場が必要だとして、この鹿鳴館の誕生となり、ここから欧米化<欧米化と進んでいく事になるのです。

鹿鳴館からスタートした欧化政策は、またたく間に一般社会にも広がり、文化や風俗の改良運動へと広がり、ミーちゃんもハーちゃんも、とにかく外国かぶれが大流行の時代がやってきたのです。

しかし、それも長くは続きませんでした。

せっかくの接待外交も、不平等な条約の改正にはまったく結びつかなかったのです。

そうなると、当然、鹿鳴館のバカ騒ぎは、世論の非難を浴びる事になり、井上さんはクビ。

そして、鹿鳴館も明治二十二年に第十五銀行に払い下げられます。

結局この後、日本は色々模索しながら、また地道な外交を続けていく事になるのです(10月8日参照>>)

あ~ぁ・・・仮装舞踏会かぁ・・・
一度は、そんなん出席してみたいもんやね。

私は、帝国華撃団真宮寺さくらでいきま~す。
↑それは、違うパーティやろ!
 .

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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんばんは。

 鹿鳴館と聞くとなぜか切なくなります~。
仰るとおり、欧米への見栄を張るというか背伸びをしてなんとか・・・という苦しい政策(?)の一端だったのでしょうね。

 黒船以来、日本は西洋への過剰な憧れが続いています~メリットはもちろんありますが、一辺倒というのは健全ではありませんよね。
アジアの人々はそんな日本人を不思議で仕方ないそうです・・・やはりこのセリフで失礼致します。 
「欧米かっ!」(笑)
    いつもすみません・・・(汗)

投稿: ルーシー | 2006年11月28日 (火) 23時12分

ルーシーさん、こんばんは~。

そうですね、日本は鎖国を解いたあの日から、ず~と、欧米化と接待外交を続けている気がします。

今でも、「注文」と言うより「オーダー」と言ったほうがカッコ良く、「事務」より「デスクワーク」と言ったほうが、スゴイ仕事をしている気になっちゃいます。

いつになったら、このスパイラルから抜け出せるんでしょうかね。

投稿: 茶々 | 2006年11月29日 (水) 00時50分

三島由紀夫の小説で舞台になった「鹿鳴館」があります。これは明治当時の出来事を風刺したものですか?三島自身は昭和の作家ですが。

投稿: えびすこ | 2011年11月 6日 (日) 23時17分

えびすこさん、こんばんは~

三島由紀夫の「鹿鳴館」は、明治時代の落成間も無い頃の鹿鳴館が舞台だと聞きましたが、くわしい内容は知りません。
ゴメンナサイですo(_ _)oペコッ

投稿: 茶々 | 2011年11月 7日 (月) 02時25分

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