西郷隆盛と月照~共に入水自殺を図る
安政五年(1858年)11月16日、左幕派から逃れ、共に京都を脱出した西郷隆盛と僧・月照が、日向に向かう途中に入水自殺を図りました。
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安政五年の5月に、彦根藩主・井伊直弼(いいなおすけ)が大老になります。
続く6月には、『日米修好通商条約』が調印され、紀伊藩主・徳川慶福(よしとみ)が将軍・家定の後継者に決定します。
そして、直弼は、将軍の後継者に慶福のライバルである慶喜(よしのぶ)を押して幕府改革を唱えていた一橋派(慶喜が一橋家の当主だったので、こう呼ばれます)の人々を、公家や大名・志士にいたるまで、逮捕・投獄・死刑などにして一掃する=後に安政の大獄(10月7日参照>>)と呼ばれる弾圧を行おうと画策しはじめるのです。
これに不満を抱いていた薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)は、7月に鹿児島城下に薩摩軍を集め大々的な軍事訓練を行います。
この軍事訓練は、単なる訓練ではなく、実際に挙兵するつもりの下準備だったとも言われていますが、その真意のほどはわかりません。
なぜなら、その訓練の最中に、斉彬が急死してしまったからです(7月16日参照>>)。
京都で、尊敬する斉彬の死を聞いた西郷隆盛は、その時、すぐに殉死しようとしましたが、それを止めたのが、友人の僧・月照(げっしょう)でした。
月照は14歳の時に、叔父を頼って清水寺成就院に入り、22歳で成就院の住職になっていましたが、その時、「後を追って死ぬのではなく、その遺志を継いで改革を行う事こそ、主君の恩恵に報いる事なのだ」という事を、西郷に諭したのでした。
月照に支えられ、西郷は、斉彬の遺志を継ぐ事を決意し、水面下で仲間たちと、井伊直弼を大老の座から引きずり下ろす幕府改革計画を立てていましたが、9月になっていよいよ西郷らにも、直弼の弾圧の手が伸びてきました。
それは、月照も同じ・・・。
彼も、京都の公家たちと関係を持ち、尊皇攘夷派(一橋派)として動いていたため(8月23日参照>>)、危険人物と見なされていたのでした。
そして、西郷と月照は共に京都を脱出します。
しかし、途中で西郷は、友人に月照を鹿児島まで送り届けるように頼んで、自分は再び京都に戻り、なんとか、先の計画を進めようとしますが、警戒が厳しく、あきらめて月照たちとは、別ルートで鹿児島を目指します。
ところが、鹿児島に着いた彼らを待っていたのは、薩摩藩のNO!の答えでした。
追われる身の月照は、薩摩藩にとっては厄介者だったのです。
入国を拒否され、日向への追放を命じられます。
しかも、この日向追放は、あくまで名目上で、本当はその道中で斬り捨てるつもりだったのです。
安政五年(1858年)11月16日、夜・・・ゆっくりと錦江湾を進む船の上で、その事をさとった西郷と月照は、自らの死を覚悟して、二人とも海に身を投げたのです。
船に同乗していた者たちが、あわてて救助をします。
西郷は運良く生き返りますが、月照は帰らぬ人となってしまいました。
その後、1ヶ月して何とか快復した西郷を、薩摩藩は幕府の追跡を逃れさせるため、死亡として届出て、しばらくの間、奄美大島に移住させます。
そして、皆さまご存じのように、再び表舞台に登場するその日まで、西郷は沈黙する事になります。
♪大君の ためにはなにか 惜しからむ
薩摩の瀬戸に 身は沈むとも♪ 月照・辞世
清水寺成就院の「月の庭」…西郷と月照が明日を語りながら眺めた庭です(撮影禁止ですのでポスターの写真でご辛抱を・・・)
成就院への行き方は、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道・幕末編」でどうぞ>>
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