木曽義仲、法住寺殿を焼く
寿永二年(1183年)11月18日、木曽義仲が御所法住寺殿に放火し、後白河法皇を幽閉しました。
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初陣を飾った市原の戦い>>
北陸にその名を轟かせた横田河原>>
快進撃の般若野の戦い>>
圧勝した倶利伽羅峠>>
奇しくも命の恩人と戦った篠原の戦い>>
ここまで、負け知らずで攻め昇り、とうとう寿永二年(1183年)7月25日には、あの平家を都落ち(7月15日参照>>)させて、意気揚々と京の都に入って来た木曽(源)義仲(7月28日参照>>)・・・
しかし、北陸育ちの義仲も兵士たちは、言葉や態度が荒々しく、雅な都に馴染む事ができなかったため、平家全盛の世から新しい時代へ期待を膨らませていた京の人々からも、ひんしゅくを買うようになってしまいます。
それは、朝廷の貴族たちも同じでした。
後白河法皇は、とにかく義仲を都から追い出して、朝廷との礼儀もわきまえた源頼朝と接触しようと考え、義仲に瀬戸内へ落ちた平家追討を命じます。
そんな裏工作を知ってか知らずか、義仲は、はりきって平家追討に向かいますが、法皇は、その間に鎌倉にいる頼朝と、密かに接触。
なんと頼朝は、鎌倉にいながらにして、右兵衛佐(うひょうえのすけ)に復帰し、源氏の棟梁の座を射止めました。
一方の義仲は、勢力を挽回しつつある平家と備中(岡山)の水嶋で戦って、手痛い敗北を喰らいます。
しかも、自分が都を留守にしたいる間の、法皇と頼朝の画策を知って、怒り心頭!
あわてて、都に帰ってきます。
さっそく義仲は、法皇に頼朝追討の命令を下すように迫ります。
しかし、もはや法皇のお気に入りは頼朝のほうですから、そんな命令出すわけはなく・・・
これで義仲は、法皇を敵にまわし、頼朝にも注意を払い、西海の平家にも気をつけなければならなったわけで・・・住み慣れない都でどんだけ神経をすり減らした事でしょうね。
しかし、法皇と義仲の関係はますます悪化していきます。
やがて法皇は、「もう一度、平家追討に西へ向かえ、それができないなら京を去れ」と言ってきたのです。
ここにきて、義仲の怒りは爆発!
寿永二年(1183年)11月18日、法皇の住む御所法住寺殿を攻撃・・・矢を射かけ、火を放ち、多くの人が死に、法住寺殿は燃えてしまいました。
この時、義仲は法皇を幽閉しますが、もはや朝廷との亀裂は修復が不可能になったのは言うまでもありません。
ところで、この法住寺殿、その時燃えてしまったため、現在は三十三間堂のお庭にその跡だけが残っています。
当時は、上皇(天皇の位を譲った人)になると、天皇の住む御所とは別の『院御所』という場所を造営する慣わしでした。
後白河法皇も、皇位を譲ってすぐ、この法住寺殿の造営にとりかかったのです。
その広さは、東西は東山山麓から鴨川のほとりまで、南北は八条坊門小路(現在の東海道線南側)から六条通までの広範囲にひろがり、蓮華王院、法華堂、最勝光院、東殿、西御所など、壮大な伽藍が建ち並んでいました。
その建物は、政治を行う北殿と、『常の御所』と呼ばれる住居や、宗教的堂塔のある南殿に大きく分けられていました。
現在、通称・三十三間堂と呼ばれている蓮華王院は、南殿に位置していた建物だそうです。
法住寺殿跡より三十三間堂を見る
今日のお話の続きは1月11日【征夷大将軍・木曽義仲】へどう>>
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