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2006年12月31日 (日)

大晦日は除夜の鐘~108つの意味は?

 

今日は12月31日・・・いよいよ大晦日ですね。

毎月の最終日を“晦日”と言い、その中の一番最終日なので大晦日”

この日には、“年越しそば(みそかそば)を食べますが、これは「そばのように、細く長く幸福に・・・」という意味である・・・という説が一般的です。

しかし、別の説では、金箔の職人さんが散らばった金箔を集めるのに、そば粉のかたまりを用いた事から「金銀をかき集める」という意味だというのもあります。

そんな中、旧年を、「取り去る又は、のける日」という意味で大晦日の事を“徐日”とも言い、“徐日”の夜なので、“除夜”という事になります。

そして、その“除夜の鐘”108つというのは、中国の宋の時代からの仏教の儀式なのです。

・‥…━━━☆

強く、弱くを交互に54回ずつ撞くのが正式なルールで、107回目までは大晦日の間に、そして最後の一打ちを新年に撞きます。

でも最近は参拝客に撞かせてくださる寺院も多く、本家ホームページ:歴史散歩のイベント情報にも掲載していますが、そーゆー場合は、撞く回数や時間にこだわらず、来た人全部っていう方式にしてくださっている所も見受けられます。

仏教のルールには反するかもしませんが、せっかく行ったからには、撞きたいですもんね。
もし、いっぱい人が来たら、朝になっても撞いてるのか?気になりますが・・・

ちなみに、この108つの数の意味ですが・・・
もともとは、一年12ヶ月と、二十四節季、そして、それをさらに3等分した七十二侯(10月8日【二十四節季の話】参照>>)を足した数とも言われますが、最近では“煩悩の数”だというのが一般的に知られるようになりました。

・・・って、“煩悩”て、そんなにあるのかしら?

そもそも“煩悩”とは、人の心や体に潜む悪しき欲望・・・たしかに、108つくらいあるかも・・・。

でも、本当はこの“煩悩”にも、ちゃんとした数え方があるんです。

人には、“物事や世界を認識する6つの物理的な物六根”と、“悟りを開く妨げとなる六つの心理的な物六塵”があるのです。

六根=眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ
六塵=色・声・香・味・触・法の六つ

これには、それぞれ好・悪・平の3種類の状態があるので、ここで合計36個。

さらにそれらは、過去・現在・未来と3つの時間があるので、×3で108つ・・・という事になります。
んん~・・・深い・・・。

そろそろ今日は、お正月の買出しに行かなくては・・・。

Houkouzicc_1 写真(右→)は、あの徳川VS豊臣の大坂の陣の発端となった京都・方広寺の鐘(7月21日参照>>)

その年にもよりますが、この鐘も参拝客に撞かせてもらえる事もあるんですよ!
歴史好きには、ちょっと感激ですね。
 

では、皆様、今年一年、私めのブログにご訪問いただきありがとうございました。

来年も楽しく、その日の歴史を掘り起こして行きましょう!
良いお年をお迎えください・・・m(_ _)m
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2006年12月30日 (土)

平泉から北へ逃避行?源義経=ジンギスカン伝説

 

本日は“義経=成吉思汗(ジンギスカン)説”について・・・

・‥…━━━☆

Minamotonoyositune700s ご存知、源義経(みなもとのよしつね)は・・・
兄の頼朝(よりとも)と不和になり、都を落ちて奥州・平泉藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って東北へ逃れるも、秀衡の死後、頼朝の命を受けた秀衡の息子=泰衡(やすひら)に急襲され、文治五年(1189年)閏4月30日に衣川で自刃した」というのが通説です。

くわしくは
【衣川の合戦~義経・主従の最期】>>
【夫・源義経との最期を選んだ郷御前】>>
のページで>>

もっとくわしく・・・という方は、【源義経の年表】>>で、それぞれの記事を見ていただければ幸いですが、“義経=ジンギスカン説”に飛躍する前に『義経の北行伝説』を・・・

海を渡る前に、まずは、「義経は頼朝の追手を逃れて北海道まで行った」という説から参りすが、これは、“判官びいき”の都の人々が、起こした噂かと思いきや、実は発祥は北にあるのです。

東北や北海道で発生した噂が、徐々に南に下って全国ネットになったようです。

・‥…━━━☆

12世紀の末、北海道の平取という所にあるアイヌの村に、見知らぬ武士の一団がやってきたのだそうです。

アイヌに人たちは「すわ!敵の来襲か?」と構えましたが、彼らは以外にも友好的で、農耕や漁業、船や織物の製法を教えていった・・・というのです。

アイヌには、「昔、オキクルミカムイという神様が空からやって来て衣食住や病気の治療法を授けた」という伝説が伝わっていたので、この武士の一団を「オキクルミカムイの再来だ~」と、大いに喜んだのです。

そして、この武士の一団の長のような人物の事を、仲間の武士たちは「はんがんさま」と呼んでいた事から、アイヌの人たちは、彼の事を「ホンカンカムイ」という名前で呼んだのです。

・‥…━━━☆

あくまで伝説なので、話の出どころ自体がよくわからないし、内容もちゃんと伝わってるのか微妙なわけですが、この“ホンカンカムイ”の伝説が、その後、北海道から東北一帯に広がるにつれ、「その人たちって平泉から北へ逃げた義経主従やないん?」ってなって、その物語が、いつしか“義経生存説”として語られるようになり、やがて、江戸時代に中央へ伝わり、江戸幕府のお抱え学者の林鵞峯(がほう)という人が「義経死せず、逃れて蝦夷に至る」と発表した事によって、江戸で“義経生存説”の大ブームが巻き起こるのです。

そうなると、北海道や東北の各地に、義経が宿泊した場所だとか、座った石だとか、そういった伝説の場所も登場してきますが、やはり、本当の歴史として語られる事はありませんでした。

とは言え、鎌倉幕府の公式記録とされる『吾妻鏡』の記述にも、少々不可解な部分があります。

合戦の常として、衣川で亡くなった後、義経の首が頼朝の待つ鎌倉に送られるわけですが・・・実は、通常20日間くらいで行けるはずの平泉~鎌倉間を、義経の首を運ぶ時だけ、倍の43日かかっているのです。

つまり、義経の最期が閏4月30日で到着は6月13日という・・・旧暦の文治五年(1189年)4月30日は1189年6月15日ですから、到着は7月31日と、メッチャ暑い真夏の季節。

このおかげで、義経の首は、本人かどうかなんて判断できるものではなかったのだそうです。

となると、「衣川で死んだ」という確実な証拠はないって事になり、様々な憶測が流れるわけです。

やがて、江戸中期になって“義経生存説”は海を越え、大陸に到達します。

「義経は満州に渡った」というものでしたが、やはり当時の学者たちには無視されたようです。

そして明治に入っって、後の文部大臣の末松謙澄が、学生時代に書いた『義経再興記』なる書物が刊行され、その中で「義経はジンギスカンになった」と発表されたのです。

ま、一般的なプロフィールでいくと・・・
ジンギスカンは1167年生まれ、義経は1159年生まれって事になってますので、ま、芸能界ならごまかしアリの年齢差か?

もし、義経が平泉から脱出したのだとしたら、その年数は1189年・・・ジンギスカンが歴史に登場しだすのが1204年頃で、“汗”の称号を得るのが1206年

東北から北海道、さらに海を越えて・・・となると、十何年はかかるわな。

さらに、ジンギスカンが戦いのとき使用したのは、白い旗・・・ご存知、源氏も白旗。

そして、何より興味深いのは、大陸では誰も使用しなかった日本式の弦の長い“大弓”・・・ジンギスカンはこの大弓を使っていたのだとか・・・。

壮大なロマンに心ワクワクしますね。

はたして、フビライが起こした2度の“蒙古襲来”には・・・
10月19日【蒙古襲来!文永の役】
6月6日【蒙古襲来!弘安の役】

鎌倉幕府に対する「ジッチャンのカタキ」の思いが込められていたのでしょうか?

しかし、それにしては、蒙古襲来時の蒙古軍の船の造りがダサイ気が(゚ー゚;・・・ホンカンカムイがアイヌに教えた船の製法は、孫の時代にはもう忘れ去られていたのかしらん・・・。

ちなみに、今まで数々映画化・ドラマ化されている義経さんですが、私の知る限りでは、少年隊の東山さん主演のドラマが唯一「北海道へ逃げる」という終りかただったように記憶しています。

その時は、北へ向かう旅に静御前も呼んでましたね。

「平泉の奥さんと子供(2011年4月30日参照>>)は見殺しかよ!」と思ったものです(笑)。

笑顔で終る義経ご一行を初めて見た気がしましたが、ドラマの場合はそれもアリです。
ドラマですから・・・。

*義経さんの伝説・・・と言えばもう一つ、本家HPでは牛若丸は義経ではない=別人説についてやってます。
 興味がおありでしたらコチラからどうぞ>>
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2006年12月29日 (金)

南方熊楠の最後の言葉

 

昭和十六年(1941年)12月29日、菌類学者であり、博物学者であり、民俗学者でもある南方熊楠が75歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

南方熊楠(みなかたくまぐす)は、慶応三年(1867年)に和歌山城下の金物商の家に生まれます。

幼い頃は体が弱く、8歳頃までお母さんのオッパイを飲んでいて、友達が「あそぼ~!」と誘いに来ると、「ちょっと待って~、乳飲んでから・・・」と言って、ちょこんと、母の膝の上に座ったそうです。

12歳で和歌山中学に入学し、ここで人生の師とも言うべき鳥山啓(とりやまひらく)先生と出会います。

なんせ熊楠さんは、小さい頃から驚異的な記憶力で神童と呼ばれ、“歩く百科事典”などと噂された人ですから、博学な鳥山先生との出会いは、様々な事を吸収していったこの頃の彼にとって、多大な影響を与えた事でしょう。

やがて、中学を卒業した熊楠さんは、共立学校を経て大学予備門に入学・・・同期には、夏目漱石正岡子規といった人々がいましたが、学業そっちのけで遺跡の発掘や菌類の標本集めに没頭し、落第をきっかけに中退しました。

Kumagusucc 20歳の時にアメリカに渡り、働きながら独学で菌類の研究に励み、26歳で、今度はイギリスへ・・・。

大英博物館で働きながら、やはり標本採集や研究に励みつつ、科学雑誌『Nature』に論文を投稿したりしています。

そして、33歳で帰国後は、故郷の和歌山で菌類の調査・採集・研究に勤しみます。

大正六年(1917年)には、自宅の柿の木から新種の粘菌を発見・・・この菌には“ミナカテラ・ロンギフェラ”という学名がつけられ、日本名は“ミナカタホコリ”と呼ばれています(←ほこり・・・って(^-^;)

この少し前から熊楠さんは、“神社合祀反対運動”を始めています。

それは、合祀によって規模が小さくなる神社の所有する森林の伐採によって、貴重な動植物が絶滅の危機にさらされる事を心配したもので、早くもこの頃に『エコロジー』を叫んでいたんですね。

そんな熊楠さんは、モロ天才肌・・・そのため、かなりの奇行ぶりだったようです。

あまりに集中力がありすぎて、ず~っとはなれの八畳間に篭もっていたかと思うと、ひょっこり母屋にやって来て「ワシ、今朝からメシ食ったかな?」と家族に確かめる・・・なぁんて事もしばしばあったそうで、夏は主に素っ裸ですごし、冬は「タバコの臭いが標本に着く」と言って、障子を開けっ放しにしていたとか・・・。

和歌山の山中で、ふんどし一丁で標本を採取するために駆け回り、「天狗」呼ばわりされたり、酔っ払って帰った日に、奥さんが日頃の不満をとうとうと語り出すと、頭からふとんを被って「ごめんなさい。もうしません・・・勘弁して~」という、供のような一面もあったそうです。

とにかく、自然が人の手で破壊される事の危険性を常に訴えていた熊楠さん・・・しかし、彼の生きた時代には、その事に耳を傾ける人はいませんでした。

ごく最近になって、世界的に“エコ”が叫ばれるようになって、やっと彼への再評価がされるようになったみたいです。

紫の花をつける“センダン”の木が大好きだったという熊楠さん・・・最後は「あぁ・・・天井に紫の花が一面に咲いている・・・医者が来ると花が消えてしまうから、今日は医者を呼ばないでおくれ・・・」
そう言って、息をひきとったそうです。

自然を愛した熊楠さんらしい最後の言葉ですね。
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2006年12月28日 (木)

八百屋お七と丙午

 

天和二年(1682年)12月28日、八百屋お七自宅に放火しました。

・・・・・・・・・

愛しい男に会いたい一心で、思いつめた16歳の少女が、自宅に火を放ち、近くの半鐘に登る・・・。

O7cc_1 「あぁ・・・吉三・・・吉三・・」と、男の名前を呼びながら、一心不乱に鐘を叩く・・・

しかし、おりからの強風にあおられた炎は、みるみるうちに江戸の町を焼き尽くし、あたり一面火の海に・・・

浄瑠璃、お芝居で有名な“八百屋お七”のクライマックスです。

当のお七は、翌年の3月に処刑された、という事ですが、このお話は数年後、井原西鶴『好色五人女』四人目として登場し大人気となります。

この日の火事は、通称“お七の火事”と呼ばれ「お七と言えば大火」と、江戸の人々に印象付けられる事となります。

お芝居では・・・

火事で焼け出されたお七さん一家。
地元の円乗寺へ非難します。

ここで、この寺の小姓の吉三と出会い、なかなかのイケメンぶりに一目惚れ。
吉三も可愛いお七に惚れられて満更でもない様子。

やがて、ふたりは焼け出された人々でごった返す中、人目を忍んで男と女の関係に・・・。

でも、その場所はあくまで避難所です。
落ち着きを取り戻した一家は、やがて急ごしらえの、もとの八百屋に戻ります。

しかし、吉三の事が忘れられないお七・・・。

当時は、今のように、若い娘が自分の好きな場所に、出歩く事は考えられない時代でしたから、恋焦がれ、「このまま会えないのなら死んでしまいたい」とまで思いつめる16歳の少女は、「また、火事になれば、愛しい吉三さんに会える・・・」と、自宅に放火をするのです。

このお七さん、16歳というのはかぞえ年で、今の満年齢だと14歳です。

たしかに、思いつめたらブレーキの利かないお年頃である事は間違いないですが・・・。

お芝居では、この出会いの火事が明暦三年(1657年)の大火“通称:振袖火事”(1月18日参照>>)で、放火したのが“お七火事”という事で、因縁めいた作りになっていますが、パッと見てわかるように、それでは年齢があいません。

翌年の刑が執行された時の記録を、一番正確なものと判断するならば、そこから逆算していくしかありませんね。

ちなみに、明暦の大火は、10万人もの犠牲者を出し、江戸の町並みを変えてしまうくらいの大火事だったという事ですが、その後も江戸の町では火事が絶えず、幕府も“火消し組織”を作ったり、火が燃え移らないよう空き地など作ったりもしましたが、なんせ、放火が後を絶たない状況で、寛文六年(1666年)ご存知“火附(ひつけ)盗賊改め”なる部署を設置しています。

そして、お七は“丙午(ひのえうま)の年の生まれ・・・と言われていますので、もし、その事を信じるならば、この寛文六年が“丙午”の年ですので、この年に生まれたと考えられ、それならば、上記の刑の執行記録の年齢に、一応、ギリギリセーフかな?という感じです。

ただし、この“丙午”というのは、昔から「“丙午”生まれの女性は、男を食い殺す」とか「気性が激しい」などと、あらぬ疑いをかけられていて、“丙午”の年は、子供の出生の数がガクンと落ちる・・・という現象が、昭和になってもあったくらいですから、「お七が“丙午”生まれ」というのも、その迷信にこじつけた事も考えられます。

それにしても、なぜ“丙午”生まれの人に、そんなレッテルが貼られてしまったのでしょう?

元号のところでも少し書きました(9月8日参照>>)が、この“丙午”“丙”“十干”と呼ばれる「甲・乙・丙・・・」と、続く10種類の暦。

“午”はご存知“十二支”12種類の“えと”ですね。

この“十干”“十二支”をあわせて、その年を表し、60年で一周(還暦)します。

昔は、コロコrと変わる元号よりも、むしろ、こちらの表現で、その年を呼んでいました。

ちなみに、来年=2007年は“丁亥(ひのとい)になります。

そして、もう一つ“五行説”というのがあります。

“五行説”は、「木・火・土・金・水」の五つからなる物で、宇宙や人の運命が、この五つに支配されている・・・という物で、現在の曜日の名前に使用されている物です。

Gogyoucc_1 この“十干”と“十二支”を“五行説”に当てはめると(右図→)、“十干”はそれぞれ二つずつ、“十二支”は、余るので“土”に四つで残りは二つずつあてはめられ、この考え方でいくと、“丙午”は「火と火」という事になるのです。

それで、「火=怖い・激しい」などのイメージとともに、いつしか「“丙午”の年は火事が多い」という噂が囁かれはじめ、このお七の一件が決定打となって「“丙午”生まれの女は・・・」的なイメージが付いてしまったという事なのではないでしょうか?

他にも、「火と火」の組み合わせになる年はあるのに、なぜか“丙午”だけが、因縁めいた話で残っていってしまうのです。

ところで、火事の話に戻しますが、やはり、例のごとく、お芝居と事実の違いは、多少あるもので・・・主人公の男性の本当の名前は“吉三”ではなく、“左兵衛”・・・ちょっと、こころなしかオッサンぽい名前(失礼)です。

それに、たしかにこの時期、江戸では火事が頻繁に起こっていましたが、町中を焼き尽くすような大火というのは、“明暦の大火”と“お七火事”の間には起こってはいません。

・・・となると、“お七の火事”というのは、お七が放火した火事ではなく、お七が避難した・・・つまり、実際には「左兵衛(吉三)と出会った火事」という可能性が高いですね。

事実、記録されている“お七の火事”の出火元は、駒込の大円寺で、お七の自宅ではありませんし、西鶴の『好色五人女』でも「火付けは煙が上がっただけ」と書かれていて、お七の放火はボヤだった事になっています。

お芝居では、やはり盛り上がるように脚色されているようです。

そして、最後に、放火したその日のうちに捕まって、奉行所で取調べを受けたお七・・・あまりの魂の抜けたような状態の彼女を見て、哀れに思った奉行は「お前は、まだ14歳であろう?」と問います。

この時代にも、今で言う少年法みたいなものがあって、14歳以下なら死罪を免れる事ができたので、奉行は情けをかけてそう聞いたのですが、「左兵衛(吉三)に会えないのなら死んだほうがマシ」と、思いつめていたお七は「いいえ、私は16歳です」と、言い切り、天和三年(1683年)の3月29日市中引き回しの上“火あぶりの刑”に処せられるのです。

一方、左兵衛(吉三)のほうは、事件後、自殺を図りますが死に切れず、その後、出家してお七の菩提を弔ったと言います。

“丙午”生まれのお七さん・・・「激しく怖い女」と言うよりは、「悲しく切ない女」という感じがしますね。
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2006年12月27日 (水)

源頼朝の死因をめぐる疑惑

 

建久九年(1198年)12月27日、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が落馬・・・これが原因で、翌年の1月13日に死亡したとされています。

・・・・・・・・・

Yoritomocc 今のところ、源頼朝死亡の原因は、この日の“落馬”というのが通説になっていますが、本当のところ、この頼朝の死には、かなりの疑惑が渦巻いています。

その一番の要因は、この時代の公的な歴史書とも言える『吾妻鏡』に、頼朝の死が記載されていない事。

源平の合戦や鎌倉幕府の事をあれだけ書いておいて、将軍の死を書かない・・・というのは、まったくもって不自然ですよね。

「何か書けない事情でもあるのかしら?」と、思いたくもなりますね。

まず、落馬についてですが、やはり不思議なのは、日頃から訓練をしていたであろう武士の棟梁が落馬・・・しかも、命を落とすような落ち方をするものなのでしょうか?

ここで、注目したいのは、近衛家実(いえざね)という公家さんの日記・・・そこには、「頼朝は“飲水の病”で亡くなった」と書かれている事です。

“飲水の病”とは、今で言う糖尿病です。

頼朝はこの落馬の一件の10年程前に、“薬師経”という病気を治すお経を、幕府総動員で読ませていますから、その時からすでに自覚症状が出ていたのだとしたら、もう、この時はかなり病気が進行していて、筋肉の弛緩(しかん)や、目の不自由さがあいまって、落馬・・・という事態も、そして、その後の怪我も、病気のせいでなおり難かった・・・という事も考えられます。

ただ、病気で片付けてしまうには、歴史好きの気持ちがおさまらない数々の政治的事情が、この時代に渦巻いているのも確かなのです。

それは、頼朝の死の5年前に起こったあの有名な“曽我兄弟の仇討ち事件”を見てもわかります。

彼ら兄弟はみごとカタキを捕ったにもかかわらず、次にそのまま頼朝の屋形へ突進していってます。

結局、取り押さえられた弟・時致(ときむね)「頼朝の首を捕るつもりだった」とはっきりと“頼朝・暗殺計画”を自白たとも言われています(5月28日参照>>)

加えて、頼朝の後を継いだ二代将軍・頼家、三代将軍・実朝と、いずれも暗殺され、直系の源氏が絶える・・・という事態になっている事を考えると、いかに“鎌倉幕府の将軍”というものが、危険にさらされた地位であるのかもわかります。

『保暦間記(ほうりゃくかんき)という歴史書に、頼朝の死について書かれた部分がありますが、それによると、この建久九年(1198年)12月27日に・・・

相模川の“橋供養”に出かけた頼朝は、帰り道の“八的(やまと)が原”という所で、源義広源行家源義経という、いずれも頼朝が殺害した3体の亡霊に出会います。

何とかその場は、平静を装ってやり過ごしたものの、今度は稲村が崎で10歳くらいの男の子の亡霊に出会います。

亡霊は「お前をずっと探していたが、やっと見つけたゾ。我は西海に沈んだ安徳天皇である」と言い、その後、帰宅した頼朝は、すぐに病に臥せって、そのまま翌月の正月13日に死亡した・・・
というのです。

これを、そのまま信じると、怨霊の祟り・・・という事になりますが、さすがにそれは・・・

しかもここに新たな疑惑も湧き出てきます。

この日、頼朝が出かけた“橋供養”

この橋は、稲毛重成(いなげしげなり)という人物が、亡き奥さん(北条政子の妹)供養のために建設した橋で、その橋の“橋供養”だったわけですが、その重成は、頼朝の死後、すぐに何者かに殺害されています。

何やら、にわかに北条家の影が現れ出しましたね。

ちょうどこの時期、京の都では、頼朝派だった九条兼実(かねざね)が、反頼朝派の源道親(みちちか)に失脚させられています。

もし、都の道親と鎌倉の北条が手を結べば、源氏の直系に代わって実権を握る事も可能かも知れません。

頼朝・暗殺の実行犯だった重成を、口封じのため消した・・・という推理も成り立つわけです。

ただ・・・もう、一つ『真俗雑録(しんぞくざつろく)という鎌倉時代の書物には、まったく別の事が書かれています。

それによると・・・

頼朝は毎年、正月8日から13日まで、鶴岡八幡宮に“お篭もり”をしていたのだそうです。

この年(1199年)も例年のように“お篭もり”を実行し、留守となった邸宅は安達盛長という人物が警護していたのだそうですが、ある夜、頼朝の邸宅に出入りする白衣を被って顔を隠したアヤシイ者を発見。

「待て!クセ者!」と、斬りつけたところ、その白衣の主は頼朝自身だったと言うのです。

主君に刃を向けた事に驚いた盛長が切腹しようとしたところ、頼朝が「急病で死んだ事にしてくれ」と言って、息をひきとった・・・
のだそうです。

その文献の中では・・・実は「頼朝の浮気癖に悩んだ北条政子が、少し懲らしめてやろうと企んだものの、思わぬアクシデントが発生したのだ」という事になっていますが、亀の前への嫉妬に狂った若い頃ならともかく(11月10日参照>>)、しかも一夫多妻制のこの時代に、まだ、政子は頼朝の浮気に悩んでいたのかしら?

どちらかと言うと、当は北条が暗殺したけど、アクシデントって事にしちゃいました~・・・というほうがグンと説得力があるような気もします。

いずれにしても、「歴史好きでなくてもその名前を知っている超・有名人の死因が正史に書かれていない」という、曖昧で不自然な事態から、謎が謎呼ぶ・・・という事で、歴史好きの様々な推理が渦巻き、心躍らせる謎解きの材料にもなるわけですわな。
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2006年12月26日 (火)

平治の乱・終結

 

平治元年(1159年)12月26日、平治の乱が終結しました。

・・・・・・・・・

崇徳天皇後白河天皇による天皇家の後継者争いを発端に、公家や武士を巻き込む形で争った保元の乱(7月11日参照>>)

勝利したとは言え、源義朝は父親を・・平清盛は叔父を・・・と、それぞれ身内を手にかけなければならなかった、という後味の悪いものでした。

その保元の乱で勝利した後白河天皇・・・しかし、その天皇の側近の間でまたもやきな臭い匂いが漂い始めます。

まずは、藤原信頼(12月9日参照>>)・・・彼は若い頃、かなりの美少年で、後白河天皇の寵愛を受けて中納言にまで出世しました。

かたや、藤原通憲・・・彼は当代きっての博識の持ち主でしたが、南家の出身(藤原家の東・西・南・北家については10月16日参照>>)で思うように出世が望めず、仏門に入り信西と名乗って人生半ばあきらめていたのですが、ここに来て信西の奥さんが後白河天皇の乳母だった事から、徐々に運が向いて来るようになり、もともと天下一の学者との評判高い頭脳の持ち主ですから、その出世ぶりが他を圧倒するようになって来ます。

保元三年(1158年)に、二条天皇が即位し、後白河天皇が法皇として院政をやり始めると、ますますその権力は大きくなり、そうなると信西と上皇が頼りにしている平清盛の存在も比例して伸びて来るのです。

当然、面白くないのは、二条天皇に付く側近たちです。

天皇の叔父・藤原経宗(つねむね)、天皇の乳兄弟・藤原惟方(これかた)

彼らは、院政ではなく、天皇が政務をこなす事を望んでいます・・・もちろん、それは天皇の側近の自分たちが権力を握れるわけですから・・。

そんな彼らに近づいたのが、信西から出世を止められ、最近とんと影が薄くなってきた先程の藤原信頼です。

信頼は天皇派の経宗らと話合い、やはり信西に嫌われているため、保元の乱で活躍したにもかかわらず、平清盛より下に見られているとの不満を抱いていた源義朝を仲間に引き入れます。

こうして、打倒!信西をもくろむ彼らですが、何せ信西は今一番の権力者・・・一方、武士とは言え、東国に本拠を置く義朝は、京にいる軍勢だけではちと不安・・・

さらに清盛が保有する軍隊は兵の数も圧倒していますから、未だ、どちらに味方するかわからない清盛の動向も気にかかります。

何とかならないか・・・と思案する彼らに、絶好のチャンスが訪れます。

平治元年(1159年)12月4日、清盛が息子やその弟など、一族の侍を従えて“野詣でに出かけたのです。

この清盛の留守を好機と見た信頼たちは、5日後の12月9日「信西が信頼を討とうとしている」という、でっち上げとおぼしき大義名分を立てて、義朝の軍勢を頼りにクーデターを決行しました。

これが、平治の乱です。

もともと二条天皇を手中に収めている彼らは、後白河法皇を幽閉し、次に信西の屋敷に攻め込みます。

それを察知した信西は寸前のところで屋敷を脱出し、宇治方面に逃走しますが、隠れている所を見つかり討ち取られ、信西の首が源光保(みつやす)によって都に運ばれます(12月15日参照>>)

信西に変わって朝廷の実権を掌握した信頼。

源氏一門の冠位も昇る事になり、この時点で事実上クーデターは成功します。

Heizinorancc

一方、旅先で、クーデターの事を聞いた清盛は、今後どうすべきか考えます。

いったん西国へ落ち延びて、軍勢を募ろうかとも思いますが、息子たちを連れてきたとは言え、都の六波羅の邸宅には、まだまだかなりの数の一族が残ったままになっているわけで、そのまま見捨てるわけにもいきません。

清盛は源氏との合戦を覚悟して17日に京に戻ります。

ところが、どっこい・・・何の問題もなく、すんなり六波羅の邸宅に帰り着いてしまったのです。

そう、源氏の大将・義朝は、本来ならここで仕掛けるべき決戦を仕掛けてきませんでした。

なぜなら、先の通り、軍勢の数が平家に比べて圧倒的に足りなかったからです。

慌てて決戦するよりも、この時点ではクーデターは成功しているのですから、おそらくはクーデターで傷ついた兵力の温存を図るとともに、やがて到着する援軍を待っていたのです。

清盛は清盛で、六波羅の屋敷に着いたものの帰るなり、兵を挙げて信頼や義朝を討つ・・・という事はできませんでした。

なぜなら、天皇と法皇が敵の手の中にあるからです。

まずは、ふたりの奪還をしなければ、いくら兵力があっても彼らを叩きつぶす事はできません。

ところが、ここで話は急展開。
何を思ったのか、敵である藤原経宗と、惟方が清盛側に寝返って来たのです。

経宗・惟方と相談した清盛は、信頼に名簿を提出します。

この名簿を提出というのは、この時代の正式な儀式で、「あなたの家来になります」という意味を持つ物でした。

信頼はクーデターは成功し、自分が「この国の実権を握っている」と確信していますから、清盛のこの行動を“敗北宣言”と思い、100%信じ込んで、名簿を受け取ります。

こうやって信頼を安心させておいて、清盛は天皇・法皇奪還計画を実行します(12月25日参照>>)

12月25日の真夜中、こっそりと内裏に忍び込み、女装させた天皇を女性用の牛車に乗せ外へ連れ出し、法皇も同じ方法で奪い返し、自分の屋敷に迎え入れました。

その後、「天皇と法皇が平家側にいる事」を都じゅうに知らせます。

知らせを聞いて、天皇・法皇のもとに公家たちが集まった所で、天皇が『信頼・義朝追討』の宣旨(正式な命令)を発したのです。

これで、清盛は官軍、信頼+義朝は朝敵となったわけです。

果敢にも討って出る源氏の大将・義朝でしたが、従う兵力は200騎。

平家軍は、たくみに源氏軍を外へ誘い出し、その間にお留守になった内裏をまたたく間に占拠してしまいました。

 

しかも、内裏で大将として踏ん張るはずの信頼は、「平家軍来たる!」の知らせに怯え、平家が占拠する前に、内裏から逃げ去ってしまっていたのです。

義朝は、軍を出発させた内裏へ戻るに戻れなくなったわけで、しかたなく平家の本拠地を叩くべく、六波羅に向かいます。

実は、この六波羅近くに、頼みの綱の源頼政が控えていたのです。

「未だ無傷の頼政軍と合流すれば、なんとかなる」と義朝はふんでいました。

しかし、頼政の軍はまったく動きません。

そう、頼政はとっくに清盛側に寝返っていたのです。

この事で頼政は、“平家全盛の時代にも生き残った源氏”となるわけですが、彼は後々、源平合戦の火蓋を切るキーマンとなる人でもあります。(5月26日参照>>)

劣勢の源氏・義朝軍は、頼みの綱の頼政にも裏切られ、みごと大敗

源氏軍は、各自バラバラに落ち延びていき、平治元年(1159年)12月26日、ここに、平治の乱は終結しました。

やがて、逃げていた信頼は捕らえられ、六条河原にて斬首されます。

その後、北国の援軍を求めに行った義朝の長男・義平は、近江の石山寺で平家方に捕らえられ、やはり六条河原にて斬首(1月25日参照>>)

次男・朝長は、逃走中の美濃の山奥で落ち武者狩りの山賊に襲われ死亡

三男・頼朝は、やはり逃走中平家方に捕まり、ご存知のように伊豆に流罪となります。(8月17日参照>>)

平治の乱の勝利によって、いよいよ、平家全盛へと昇りつめて行きます(6月11日参照>>)

一方、知り合いを頼って尾張方面へ落ち延びた義朝でしたが・・・おっと、この続きは、1月4日のページへどうぞ>>
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2006年12月25日 (月)

孝明天皇・暗殺説

 

慶応二年(1866年)12月25日、第121代・孝明天皇が、36歳の若さで亡くなりました。

・・・・・・・・・

この年の12月11日から発熱し、病に臥せっていた孝明天皇

いったん、快復に向かったものの、24日の夜に、突然病状が悪化します。

天皇は嘔吐を繰り返し、やがて慶応二年(1866年)12月25日・・・帰らぬ人となってしまいます。

その死は4日間伏せられ、12月29日に死因は天然痘と発表されました。

しかし、その死後すぐに、“孝明天皇・暗殺説”が囁かれます。

天皇は、文字を書くとき筆の先をなめる癖があったので「その筆に毒が塗ってあった」とか、「いや硯の中に毒が仕込んであった」とか、様々な噂が飛び交うようになるのです。

こうなると、当然、人々の間に犯人探しの話題が持ち上がってきます。

こーゆー場合、やはり天皇が亡くなって一番得をする人物があやしいわけで・・・。

孝明天皇は、確固たる公武合体派(左幕派)・・・となると、天皇の死は討幕派にとって有利に働く事になります。

Iwakuratomomi400 やがて、孝明天皇の後を継いだ明治天皇は、「毎夜孝明天皇の悪夢に悩まされている」といった噂も流れ、来るべき王政復古の大号令(12月9日参照>>)で、明治天皇を担ぎあげる岩倉具視最も怪しい容疑者として名前をあげられる事になるのです。

孝明天皇と岩倉具視の微妙な関係は、あの黒船来航から始まります。

この時、幕府に突きつけられた日米修好通商条約

結果的に、この条約には、大老・井伊直弼孝明天皇の許しを得ず調印してしまう(10月7日参照>>)のですが、実はその前に老中・堀田正陸(まさよし)が孝明天皇に許しをもらいに行った時、孝明天皇は一旦許しを出す方向に進んでいたのです。

ところが、それを寸前のところで阻止したのが岩倉具視でした。

岩倉具視は当時、ほとんど政治に口出ししない公卿の中では唯一、公卿であり政治家でもあった人でした。

そして、次に岩倉が孝明天皇に薦めたのが、公武合体の証しでもある孝明天皇の妹・和宮と、将軍・徳川家茂の結婚です。

これによって、朝廷主導の攘夷(外国しめ出し)を実現しようとしたのです。

この事は“尊皇攘夷派”の反感をかい、岩倉はしばらく自宅謹慎をさせられてしまいます。

しかし謹慎中も、他の公卿を使って孝明天皇に様々な助言を送り続けていたのですが、この頃からしだいに、岩倉は討幕派へと変わって行くのです。

こうなると、討幕派・岩倉の、左幕派・孝明天皇への助言はことごとく排除されるようになり・・・と、そんな時に起こった孝明天皇の死です。

しかも、岩倉の妹は孝明天皇の侍女

もちろん、真相は藪の中です。

しかし、外国人に対するいかなる譲歩にも決して同意しなかった孝明天皇が生きていたなら、この先、倒幕も維新も進まなかっただろう事を考えると、謎が謎呼ぶアヤシイ死ですね。
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2006年12月24日 (日)

クリスマスの起源

 

Merry Christmas!
今日はクリスマス・イブですね。

・‥…━━━☆

クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いするイベント・・・でも、本当はこれは後から決められたもので、西暦354年にローマ教会が、「12月25日をクリスマス」としました

これは、もともとローマの農民の間で行われていた冬至を祝うお祭りから来た物で、その頃の冬至のお祭りは12月21日から31日まで11日間行われていたのです。

冬至は弱った太陽が復活する日であり、農業にとっては重要な日です。

日本もそうですが、農業を重視する地域には、必ず古代から伝わる土着の神を崇めるこの手のお祭りがあるものです。

キリスト教を広めるにあたって、古代から伝わるお祭りと関連付けて、親しみやすくして、布教しやすいように、この冬至のお祭りの期間中の25日した・・・というのが本当のようです。

そして、クリスマスの主役・・・サンタクロースですが、このサンタさんのモデルは、トルコのギリシャ教会にいた子供好きの聖ニコラスさんだ・・・というのはもう有名ですが、この聖ニコラスさんのお祭りも、本当は12月6日なのです。

この聖ニコラスの祭は、当日かその前の夜、それぞれが贈り物を持って友人の家を訪問し、お互いの幸福を祝福し合う・・・という物。

それが、いつの間にかクリスマスのイベントに紛れ込んでしまった感じです。

サンタさんの風貌は、北欧のラップランド人の風俗が取り入れられたもので、ソリに乗って・・・というのは、やはり北欧に伝わる「戦いと知恵の神・オーディンがソリに乗って人々に贈り物を配る」という伝説が混じった物ではないか?と言われています。

・・・と、こんな風に書くと、いかにも夢がないみたいですが、サンタさんは絶対にいますよ!

もちろん、あの赤い服を着てヒゲをはやしたサンタさんではなく、誰かが誰かを大事に思う心・・・人を思いやる気持ち・・・誰の心の中にでもあるやさしさ・・・これがサンタクロースです。

見ようとしても見えない、形に現せないこのやさしさこそが、サンタさんなんですよね。

Xmascc

 

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2006年12月23日 (土)

切支丹禁止令と戦国日本

 

慶長十八年(1613年)12月23日、二代将軍徳川秀忠が、2回目の“キリシタン禁止令”を出しました。

・・・・・・・・・

・・・という事で、今日は日本人とキリスト教について、戦国時代を中心に書かせていただきます。

Franciscusdexabier600 日本にキリスト教を伝えたのは、天文十八年(1549年)にやってきたフランシスコ・ザビエル(7月3日参照>>)

もちろん、正式に宣教師がやって来て、布教活動をしたのは、この時が始めてでしょうから、それで正解なのですが、キリスト教自身はもっと以前・・・奈良時代の前半には日本に伝えられていました。

それは、当時の日本と最も密接な関係にあった外国・中国にキリスト教が伝わっていたからで、635年の唐の時代に『ペルシャから正式な伝道師たちが首都・長安にやって来て、布教活動をする事を認められた』という記録があり、中国では“景教”という名前でしっかりと根付いていましたので、キリスト教の様々な伝説が、当時の日本に伝えられたのは充分考えられます。

聖徳太子の母がウマヤで太子を産み、“厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれた・・・というのは、どう考えても「聖徳太子を神格化するため、アチラの神様の伝説をお借りしました~」っていう匂いがプンプンします。

また、東北は十和田湖の近くにある新郷村は、昭和三十年までは“戸来(ヘライ)村”という名前で、以前からヘライ=ヘブライではないか?と言われ、ここには“キリストの墓”と伝えられるお墓まであります。

磔から逃れたキリストは、この地で105歳まで生きたのだそうです。

しかし、これらは一部の人にキリスト教の伝説のみが伝えられたもので、伝道して信者を増やす布教活動とはやはり別のもの・・・という事で話はザビエルに戻りますが・・・

「この国の国民は、私が今まで遭遇した国民の中では、一番優れている」
これは、ザビエルが日本人の印象を語った言葉です。

この優れた国民は必ずキリスト教の深い部分まで理解できると考えたザビエルは、「日本に派遣する宣教師は特に吟味するように・・・」と、イエズス会に対して要請しています。

その要請に応じてやってきた優れた宣教師たちの布教活動によって、大村純忠(すみただ)(11月25日参照>>)大友宗麟(そうりん)(8月12日参照>>)高山友照右近(1月5日参照>>)親子、小西隆佐行長(9月19日参照>>)親子など多くのキリシタン大名も生まれます。

もちろん、彼らの中には、外国との貿易のために信者になった者もいましたが、この時期に急激に日本社会に広まっていったのは確かです。

日本に伝わった当初は、“南蛮宗”あるいは、ポルトガル語で神父を意味するバテレンから“伴天連宗”などと呼ばれていましたが、その後「キリスト教信者」を意味するポルトガル語“キリシタン”という呼び名が定着しました。

漢字の表記は、“吉利支丹”“貴理志端”などの字が当てられていましたが、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の頃から“切支丹”という表記に落ち着きます。

最も迫害された時代には、“鬼利至端”“鬼利死炭”など「暴走族か!」と言いたくなるような当て字が用いられ、当時の世間の厳しさをうかがわせますね。

そうです。
急激な勢いで日本社会を席巻しそうになったキリスト教は、天正十五年(1587年)6月の豊臣秀吉の発布した“禁教令”によって迫害の運命をたどるのです。

しかし、それまでキリスト教に寛大だった秀吉が、ここに来て一気に“キリスト教禁止”の方向へ豹変したのは、なぜ?なのでしょう。

それは、その前年・天正十五年の5月、九州征伐に出陣し島津氏を降伏させた秀吉が九州の現状を目の当たりにし、かつ、布教活動を隠れ蓑にしたスペインの日本征服の思惑に気づいたからではないか?とも言われます。

天正七年(1579年)に10万人だった信者は、この年には20万人になっていたと言われています。

大友宗麟が夢見たキリスト教国家・無鹿(ムジカ)の建設・・・。
自分の知らない所で、破壊されて教会に建て直された由緒ある社寺、まるで外国の領土のようになってしまった九州の村々は、秀吉にとって、以前織田信長が手を焼いた一向一揆の猛威を思い起こさせたに違いありません。

秀吉は、ひと月後の6月には「宣教師は、20日以内に国外退去せよ」という命令を出します。
(6月18日=『天正十五年六月十八日付覚』>>)
(6月19日=『天正十五年六月十九日付朱印』>>)

しかし、“禁止令”が出ても、その数は増え、慶長五年(1600年)には75万人になったと伝えられています。

それにしても、ここまでの急激なキリシタン増加に至った要因は何なのか?

近代の歴史を見てみると、キリスト教の布教が精力的に行われた時が2度あります。

一度は明治の始め、もう一度は昭和二十年頃・・・どちらも、それまでの体制が崩れ始め、社会全体が不安と混乱の時期にあった時代だという事がわかります。

そうです、その不安と混乱の究極が戦国という乱世であった事は言うまでもありません。

打ち続く戦乱、明日をも知れない命、人々は僅かな救いを求めて宗教に走りますが、ちょうどその頃の日本は、鎌倉以来の新仏教も色あせ始めた頃で、彼らの要求に答えてくれるものではなかったのです。

不安な心を満たしてくれる新たな教えに、人々は殺到したのです。

そして、秀吉亡き後も、なおもおさまらない信者の増加に対して、慶長十八年(1613年)12月23日、二代将軍・徳川秀忠2回目の“キリシタン禁止令”を出します。

やがて、3代将軍徳川家光の時代に起こった島原の乱(10月25日参照>>)に驚いた幕府は、キリシタンへの弾圧をいっそう強めます。

あの踏み絵などが行われ、磔・火あぶり・水責めなどの残酷な刑罰を用いて、徹底的な根絶を図るのです。
【松倉重政の汚名を晴らしたい】も参照>>)

ある者は改宗し、ある者は“かくれキリシタン”となって、ひっそりと信仰を続けました。

このキリシタンの冬の時代は“キリシタン禁止令”が廃止される(3月9日参照>>)明治六年(1873年)まで続くことになります。
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2006年12月22日 (金)

家康惨敗・三方ヶ原の戦い

 

元亀三年(1572年)12月22日、徳川家康の生涯で最大とも言える敗戦・三方ヶ原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)織田信長足利義昭を奉じて上洛し(9月7日参照>>)天下取りキープに手をかけます。

そんな信長に触発されたのか、武田信玄が領地を拡大し、自分も天下取りレースに参加しようというのか?(2008年12月22日参照>>)・・・元亀三年の10月、4万5千の大軍を率いて甲斐を出発、東海道を西へと進みます。

そうなると、当然、徳川家康のいる浜松城の近くを通る事になる武田軍・・・兵の数で劣る家康は籠城作戦をとり、迫り来る武田軍に備えますが、なんと、武田軍は家康を無視して浜松城下を素通りしようとするのです。

この時の家康は、まだまだ、鳴くまで待てないお年頃・・・プライドを傷つけられた家康は、
「このまま、我が領地を素通りさせては末代までの恥」とばかりに、家臣が止めるのも聞かず、三方ヶ原に打って出るのです。

Kakuyoku2 家康率いる徳川軍の陣形は“鶴翼(かくよく)の陣”(←左図)
(鶴が羽を広げた形、鶴の頭の部分に大将が位置します)

広く軍勢を配置し、どこから攻められても対処できる陣形ですが、今回は兵力が少ないため、途中を分断されると、そこから総崩れになる可能性があり、今日の場合は家康さん、一か八かの賭けに出ましたね。

Gyorin かたや、信玄率いる武田軍の陣形は“魚鱗(ぎょりん)の陣”(→右図)
(魚のウロコの形、ちょうど中心部に大将が位置します)

こちらは、あくまで目的は敵を倒す事ではなく、敵を突破するための陣形で、一箇所に兵力を集中させています。

さすがは、信玄さん、冷静ですね。
(陣形については、9月8日のページへどうぞ>>>

Mikatagaharanotatakaizucc
画像をクリックすると大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして、元亀三年(1572年)12月22日午前4時、家康の家臣・石川数正隊の突撃によって、三方ヶ原の戦いの火蓋が切られました

血気盛んな若き家康は、じっと陣で構える事ができず、自ら先頭に立って敵陣に進んでいきます・・・が、数の少ない“鶴翼の陣”はあっけなく打ち破られ、みるみるうちに徳川軍の敗戦の色が濃くなります。

「もはや、これまで!」と討ち死に覚悟で、敵陣に突っ込もうとした家康を、夏目吉信(2012年12月22日参照>>)が止めます。

「殿は早くお逃げ下さい!ここは私が・・・」と、家康の馬の尻を槍で突っつきました。

家康を乗せたまま、一目散に走り出す馬・・・浜松城まで約7km、顔は青ざめ、手は奮え、家康は必死の思いで逃げ帰りました。

Ieyasusikamizou600 ・・・で、あまりの恐怖に馬上で“おもらし(しかも大)をしてしまった家康さん。

家臣たちには、「アレはクソではなく、ミソだ」と言い訳していたそうですが、その帰還直後の惨めな姿を絵師に書かせて、自分への戒めと子孫への教訓』とした事は大河ドラマ・功名が辻でも取り上げられてましたね。
←徳川家康・しかみ)

しかし、そのわりには、そのあとの行動が、とても不思議・・・。

城門を開け放ち、門の周辺を明々とかがり火で照らし、自分は湯漬(ゆづけ)を食べて「疲れた~」と言って寝てしまうのです。
湯漬がどんな食べ物かはブログ:2月13日【戦国時代の食べ物事情】をご覧あれ→

大胆不敵なのか?一か八かの作戦なのか?
文字通り「ヤケクソ」になったのか?

しかし、この行動はうまく転がりました。

信玄は、あからさまに開けられた城門に入る事はなく、深追いをやめ、兵を引き揚げ、軍勢を整えた後、再び西へと向かうのです。

・・・と、言うより“魚鱗の陣”を布いた事でもわかるように、信玄は、はなから突破目的・・・深追いする気はなかったのかも知れません。

そして、裏の裏を読めば無謀に見えた家康の行動は、見事な筋書き通りだったのかも知れません。

なぜなら、この三方ヶ原の戦い・・・結果的には家康の惨敗でしたが、当時最強と言われた『武田の騎馬軍団と戦った』という事実は残ります。

実際この事により、後々、家康は「東海一の弓取り」呼ばれるようになり、後に豊臣秀吉が政権を握った時も、周囲に一目置かれる存在となるわけで、赤字覚悟の先行投資・・・すべて想定の範囲内だったのかも知れません。(“おもらし”は想定外)

いずれにせよ、家康が最も尊敬した武将といわれている武田信玄との、この三方ヶ原の戦いは、家康にとっては、無謀でも汚点でもなく、礎(いしずえ)となった事は確かですね。

とは言え、この三方ヶ原の後に、一矢報いようと徳川勢が夜襲をかける・・・と、このお話は、12月23日のページでどうぞ>>
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2006年12月21日 (木)

赤城の山の国定忠治~逮捕の瞬間

 

嘉永三年(1850年)12月21日「赤城の山も今宵かぎり・・・」の名ゼリフで有名な国定忠治磔の刑に処せられました

・・・・・・・・・

群馬県では、今でも『県内の有名人と言えば?』と質問すると、近代の有名政治家に大きく水をあけてダントツの一位の人気を誇るという国定忠治(くにさだちゅうじ)

映画やお芝居では、農民のために悪代官を斬って追われる身となり、赤城山に立てこもり、最後には捕り手とのカッコイイ大立ち回りの末に逮捕され、処刑されるという例の勧善懲悪+悲劇のヒーロー

しかし、ファンのかたには申し訳ありませんが・・・

いや、多分皆さんもすでに、わかっておいでとは思いますが、やはりコチラもご多分に漏れずかなりのフィクション率

実際にはそんなカッコイイものではありませんでした。

お芝居はお芝居、歴史は歴史、別物として両方大いに楽しみましょう。

国定忠治が活躍する文化・文政時代(1804年~1829年)から天保(1830年~1843年)にかけての時代は、中部・東海から関東あたりまで、とにかく大親分・股旅者・渡世人のオンパレード。

清水次郎長をはじめ、大前田英五郎黒駒勝蔵吉良仁吉飯岡助五郎・・・などなど、かつてのお正月深夜映画でのレギュラーメンバーが勢ぞろい、数えたらきりがありません。

第十一代将軍・徳川家斉の文化・文政時代は、大きな戦もなく、ある意味平和な時代で、江戸時代では元禄に次ぐ繁栄の時代です。

商品の生産が盛んになり、貨幣経済が発達すると、当然、娯楽も盛んになります。
芝居や相撲の興行、そして遊技場やギャンブル。

そうなると、ちょっと稼いじゃぁ遊びまくる無宿者・・・いわゆるフリーターの数が増えるのですが、それでも景気の良い頃は何とかなります。

しかし、やがて訪れた天保時代・・・
ご存知のように日本列島を大飢饉が襲います。

全国的な社会不安のもと、急激に犯罪も増えるのですが、この中部地方の関八州(相模・武蔵・安房・常陸・上野・下野・上総・下総)と呼ばれるこのあたり・・・、領地が複雑に入り組んでいて、犯罪者が逃げ込んだ場合、それぞれ担当が違うのです。

今のサスペンス劇場などで、出てくる言葉・・・「管轄(かんかつ)が違う」ってヤツですね。
そのため「ここへ逃げ込めば大丈夫」と、犯罪者や博徒の温床となっていたのです。

そこで、幕府は『八州廻り』という、関八州の中なら領地に関係なく逮捕できる、言わばF・B・Iのような“広域捜査担当部署”を設置するのです。

30ilak05j100 ・・・という時代背景のもと、国定忠治は文化二年(1805年)に、上州・国定村の旧家の長岡与五左衛門の長男として生まれますが、百姓を嫌って長岡家を弟に譲り、博徒の世界に入るのです。

そして、隣の島村で、賭場を荒らしまわって捕まり、あわや簀巻きで川に放り込まれる・・・危機一髪を地元の島の伊三郎親分に救われます。

やがて、21歳の時、国定村の紋治親分から盃を受け、縄張りをもらって一家をかまえます。

しかし、こうなったら、もっともっと縄張りを広げたい忠治、「隣のシマを何とかできないか・・・」と思っていた矢先、子分の三ッ木の文蔵が、あの伊三郎の賭場でいかさまをやってボコボコにされるという事件が・・・

それをきっかけに、あの命を救ってくれた伊三郎を闇討ちに・・・そして、一旦赤城山に逃走。

翌年には舞い戻り、やはり子分が痛めつけられたと言って玉村の京蔵主馬の兄弟の家へ殴りこみをかけ、弟・主馬を殺害。

兄はこの日は留守だったので難を免れましたが、後に忠治に探し出され、やはり殺されています。

そして、今度は隣村の田部井村で行われた潅漑(かんがい)用水工事に集まってきた人足相手に、作業員宿舎として建てた小屋で賭博を開催

しかも、それが地元の名主・宇左衛門と結託したイカサマで、彼らが工事で汗水たらして稼いだお金をことごとく吸い上げたあげく、本当は領主が出した工事費を「自分が自腹を切った」と近隣の村々に宣伝。

そんな事、こんな事やってるうちに、いよいよ忠治最大の犯罪を犯す事件が起こります。(殺人より大きい罪って・・・ないのでは?)

そのきっかけは、忠治が開いていた賭博場に八州廻りの手入れが入った事。

間一髪で逃げる忠治は、「今日の賭場がどうして八州廻りにバレたのか?」不思議に思います。

赤城山に逃走しながら、ふと落ち着くと、子分の板割りの浅太郎がいません。

浅太郎の伯父・三室の勘助は幕府から十手・取縄をあずかる収入役という役をやっていた事もあって、「これは、浅太郎がチクッたな・・・」と思っている所へ、浅太郎も赤城山の隠れ家にやってきます。

そこで、浅太郎を問い詰めてみましたが「絶対に裏切っていない」と言い切ります。

それならば・・・と、すぐさまその夜のうちに、勘助宅へ殴りこみ(・・・なんで?)勘助とその息子・太郎吉を惨殺しました。

そのあと、勘助の首を片手に持って、近隣の名主やお金持ちの百姓の家に押し入り「お前らも、こうなりたくなかったら、金を出せ!」脅して逃走資金を確保・・・

この事がお芝居では・・・

捕まる事を覚悟した忠治が、「浅太郎だけでもこの世界から足を洗わせて助けてやろう」と、伯父・勘助のところへ戻らせようとするのですが、「自分だけ逃げる事はできない!」と、しぶる朝太郎に・・・

「疑いを晴らしたいなら、勘助の首を持って来い」と言った事になっています・・・もちろん、本気で首を取れというのではなく、単に、伯父の所へ戻らせるための口実です。

しかも、その話を聞いた勘助は「お前の疑いが晴れるなら、この首持ってけ!」と、浅太郎を前に覚悟の死。

浅太郎は、勘助の首を持って、赤ん坊の太郎吉を背負って赤城山に戻ってきます。

「まさか、本当に首を取ってくるとは・・・!」
思わぬ展開に驚く忠治ですが、こうなった以上覚悟を決めて・・・

冒頭の「赤城の山も今宵限り・・・」の名ゼリフです。
 

しかし、本物の忠治は、まだまだ覚悟は決めません。

資金を得た一家は、他国へ逃走するため、槍や鉄砲の完全武装で、大戸の関所を破ります。

実は、この完全武装の堂々の関所破りが国家への反逆罪となるため、当時は最大クラスの犯罪となり、最高の包囲網で徹底追及!となるのです。

それでも、関所破りから逮捕されるまでの8年間、国定村へ戻っては賭場を開き、捕まりそうになったら赤城山にこもって、また、信州へ逃走して・・・という生活を繰り返していましたが、嘉永三年(1850年)の7月・・・とうとう年貢の納め時。

忠治が愛するお妾・おまちの田部井村の家で脳溢血で倒れ、半身不随になってしまいます。

先の潅漑工事の時、忠治とツルんでいた宇左衛門は、それ以外にもなんやかんやと一緒に悪事を働いていたので、「忠治が捕まっては大変」と、慌てて自宅にかくまいますが、どこでどうバレたのか、八州廻りに自宅に踏み込まれ、宇左衛門が先に逮捕されます。

続いて忠治も逮捕。

病気で半身不随になっていたため、まともに戦う事すらできず、お芝居の大立ち回りとは違い、よだれをたらしながらのダルダルの逮捕劇だったとか・・・。

そして、宇左衛門は死罪、その他子分たちは遠島

忠治は、最も重い罪である関所破りを行ったという事で、その現場でもある大戸の関所前にて、嘉永三年(1850年)12月21日磔・獄門となるのです。

国定忠治、41歳でした。
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2006年12月20日 (水)

佐藤忠信~吉野山奮戦記

 

文治元年(1185年)12月20日、兄・源頼朝の追手に囲まれた主君・源義経を逃がした後、佐藤忠信が奮戦します。

・・・・・・・・・

佐藤忠信(ただのぶ)は、兄・嗣信(つぐのぶ)とともに、奥州・平泉藤原秀衡(ひでひら)源義(みなもとのよしつね)に与えてくれた家来です。

義経鞍馬を出て、奥州・平泉で過ごしていた時、兄・頼朝の旗揚げを聞いて、兄の下へ馳せ参じた、その時から義経と行動をともにします。(10月21日参照>>)

しかし、佐藤兄弟の兄・三郎嗣信は、平家との屋島の合戦で、義経の身代わりとなって討ち死にしました(12月19日参照>>)

そして、弟・四郎忠信は、頼朝に追われるようになった義経とともに都を落ち、吉野山までやってきます。(11月3日参照>>)

今日はその吉野山での佐藤忠信の奮戦記を、『義経記』に従って12月20日の日づけで書かせていただきます。
(『義経記』は、日付が微妙に違っていたりしますが、ご了承ください)

・‥…━━━☆

さて、先月、静御前と別れた(11月17日参照>>)義経さんご一行・・・頼朝の追捕の手が迫り、吉野山蔵王堂の奥の中の院の谷に潜伏中、周囲を囲まれてしまいます。

ここで、主君が捕まれば再起も叶わないとして、忠信は「ここは、ひとつ私めにおまかせ下さい」と、名乗り出ます。

追手をひきつけておいて、その間に義経を逃がそうという考えです。

「ここで、踏ん張らねば、私を選んで殿(義経)の家来とした秀衡様に申し訳がたちません」とまで決意をあらわにする忠信に、義経たちは涙を流しながら別れを告げます。

そして、忠信は6人の従者とともにその場に残り、林の向こうから聞こえるとき)の声の集団を待ちうけます。

まもなく、集団が近づいてくると、6人に防ぎ矢を放たせ、忠信は横に回って横から矢を射掛けます。

「それ!、皆進め!伊勢三郎、熊井太郎は、いてるか!片岡八郎、弁慶かかれ!」と、いない者の名前をいるかのように、叫び続けます。

しかし、いったんは、ビビッてその場から散った集団も、なかなか義経側が攻めて来ないので、また徐々に前へ出て、忠信らのいる場所に雨のように矢を降らせます。

そして、その矢が少しおさまった時「そら、今や!敵に矢は無くなった!乱入して斬りまくれ!」と、忠信は声をかけましたが、ふと見ると配下の6人は、皆、敵の矢に当たって死んでいたのです。

ただのひとりになってしまった忠信・・・「足手まといがいなくなって、ほっとしたわ・・・」と空しく強がってみせた時、目の前に大男が現れます。

Tadanobucc その男は、倒れた杉の木の上で、忠信になかなか手を出せずにいる味方の兵士に向かって「お前らだらしないゾ!相手が九郎判官やからってビビッてんのか?」と叫んだ後、今度は忠信に向かって「鈴木党にこの人あり、と言われた横川禅師覚範(かくはん)とは俺の事だ!矢を一本お見舞いする!」と、名乗りをあげて矢を射ってきました。

その矢は忠信の太刀をかすめて、後ろの椎の木に根強く突き刺さります。

「これは、まともな弓の勝負では勝てない」と思った忠信は、相手の弓を狙います。

・・・と、次の瞬間、覚範の弓の上部が吹っ飛びます。
「さぁ、一騎打ちと参ろう」
ふたりはともに太刀を抜いて、斬り合いになりました。

やや、忠信が優勢・・・しかし、忠信は三日間食事をとっていないため、ここぞ!というところで力が入りません。

それを見てまわりで見物していた者は「覚範が危ない!覚範を助けろ!」と、忠信を囲みます。

すると、覚範は「ひかえろ!大将軍の一騎打ちっちゅーもんは見物するもんや。俺に恥をかかせるつもりか!」と大声で怒鳴ります。

どうやら覚範は忠信の事を義経だと思っているようなのですが、もちろんそれは忠信の作戦どおり・・・この為に忠信は、先ほど別れの時、義経に頼み込んで「自分は義経である」と名乗る許可を貰っていたのです。

相手が忠信を義経だと信じ込んでいれば、それだけ時間が稼げます。

ある太刀は兜を傷つけ、ある太刀は首の横スレスレに・・・一進一退の斬り合いをくりかえしながら、わずかなスキを見つけて、身軽な忠信は崖に突き出た大きな岩に飛び移りました。

たとえ、覚範を倒しても、その後ろには大勢の兵が控えています。

もう、このまま崖へ飛び込んで命果てようかとも思ったその時、岩の向こうから覚範の声。
「逃げるな!卑怯やぞ!俺はどこまでも追いかけるからな!」
と、言うなり大岩に向かってジャンプ!

しかし、覚範は忠信の倍ほどもあろうかという巨体です・・・思わずバランスを崩し、転ぶように岩に着地してしまいました。

態勢を立て直す前に、すかさず真正面から斬りかかる忠信・・・そして、見事覚範を討ち取ります。

向こうのほうでは、崖の大岩の様子がわからず、ざわつく兵士たち。
「お前ら、何をまごまごしている!噂に名高い覚範の首をこの義経が討ち取った。供養してやれ!」
と、兵士たちに、首を投げつけました。

「あの鬼のような覚範が討ち取られた~」と、ビビリまくりで後ずさりする兵士たち・・・そのスキに忠信は、崖の岩の足場を探し探ししながら飛び移り、姿をくらましました。

身を隠しながら山を下って行くと、南大門が見え、その側に小さな坊が建っています。

誰の坊かはわかりませんが、とりあえず忠信が坊の中に入ってみると、食べかけの食事がそのままに、住人の姿はありません。

食事の最中に大勢の兵士が義経を追って山に入って来たのを見て、「戦に巻き込まれては大変!」と、あわててそのまま逃げたようです。

とにかく、残った食べ物を戴いて久々の満腹感を味わう忠信・・・疲れもあって、しばし、うつらうつらしていると、何やら周りが騒がしい。

ふと見ると、どうやら囲まれたようです。
「九郎判官、そこにいるなら出て来い!」
「判官殿、隠れているのは卑怯だゾ!」

という叫び声とともに「坊に火をかけて、出てきたところを射殺せ」という声も聞こえてきます。

「このままでは、いかん」と忠信は、自ら坊に火を放ちました。
その炎を背景にして敵の前に姿を現します。

「俺は、九郎判官ではない。佐藤四郎兵衛忠信や。今、腹を切るからよ~く見とけ!」と言って、腹を切るマネをして、後ろの炎の中に身を隠しました。

それを見ていた兵士たちは、皆「死んだ・・・」と思いましたが、実は忠信は炎の中を走りぬけ、後ろの山へと逃げたのです。

もう、充分時間は稼ぎました。

おそらく義経も、遠くへ逃げたでしょうから、こうなった以上、自分は生きれるだけ生きて、自分なりの戦いを続けようと決意したのです。

そして、翌々日の23日、忠信は京都に潜入します。

実は、先日の都落ちの時、大好きな彼女を京都に残したままだったのです。

・・・と、このあと、忠信さんは、彼女に会いに行くのですが・・・そのお話は、9月21日【みちのくの勇者・佐藤忠信の最期】のページでどうぞ>>>
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2006年12月19日 (火)

大坂冬の陣・講和成立

 

慶長十九年(1614年)12月19日、大坂冬の陣の講和が成立しました。

・‥…━━━☆

先日の激しい真田丸の攻防・・・(12月4日参照>>)

もちろん、それだけが理由ではなく、徳川家康はこの戦いを始めた最初から、“和睦”という終り方を考えていました。

Oosakafuyunozin2cc ただ、「うまく行けば力づくで・・・」と心の隅で思っていたものが、あの日の大きな犠牲によって、“和睦”の方向へ一気に傾いたのも確かでしょう。

とにかく家康は、今回は難攻不落の大坂城の守りを弱めておくだけにしておいて、後々、新たな作戦で、もう一度大坂討伐をする事にして、和睦交渉を始めます。

しかし、大坂城内の豊臣方は強硬派が主流でなかなか和睦交渉は進みません。

でも、あの鳴くまで待つ家康が諦めるはずはなく、じりじりと精神的に追い込んで行く作戦に出ます。

まずは、毎晩、兵士に(とき)の声をあげさせ、鉄砲の一斉射撃を行わせます。

大坂城内には、女・子供もいますから、これは「いつ来るか」「いつ来るか」という夜襲への恐怖が一層高まる事になります。

そして、大勢の人夫を雇い、城に向かってトンネルを掘らせ、わざわざその様子を豊臣方に見えるようにして「トンネルが城の下まで到達したら、火薬で城ごと吹き飛ばす」と、脅します。

この時点で、徐々に大坂城内でも強硬論が影をひそめ、和睦へと意見が傾きはじめますが、やはり、決め手は家康が、この戦いのために買い込んだとっておきの物・・・大砲です。

この大砲で、淀殿御座所や天守閣に向けて鉄の玉を撃ち込みます。

そのうち一発が天守閣に命中(12月16日参照>>)・・・この頃の大砲は破裂こそしませんが、天守閣の太い柱が、その一発で粉々に砕かれます。

あと、数発が、千畳敷の座敷に飛び込み、さすがに気の強い淀殿も、これには大騒ぎだったとか・・・。

そして、やっと慶長十九年(1614年)12月19日豊臣・徳川の和睦が成立するのです。

和睦の条件は・・・
籠城した将兵(雇われた浪人含む)の罪を問わない事、
淀殿を人質にとらない事、
そして例の二の丸・三の丸の取り壊し・・・

取り壊しには、もちろんあの“真田丸”も、外堀の埋め立ても含まれます。

二の丸・三の丸と真田丸を取り壊し、外堀を埋めたら、大坂城は完全に無防備な丸裸にされるわけですが、豊臣方がこんな不利な条件を飲んだのは、この和睦が結ばれた時点では、堀の埋め立ては豊臣方でやる事になっていたからとも言われています(異説あり)

豊臣方の思惑は、チンタラチンタラゆっくりと埋め立て工事をやって、年月をかけていれば「そのうち73歳という高齢の家康が死ぬだろう」と踏んでいたのです。

ところが家康さん、そんな思惑はとっくに承知済み・・・和睦の翌日から、徳川方でも工事を始めだし、「お手伝い」と称する突貫工事でまたたく間に外堀は埋められてしまいます。

さらに、工事は終らず、内堀まで埋め立ててしまうのです。

「約束が違うやんか!」と講義すれば、「なら、もう一度戦いますか?」と、今すぐでは豊臣方の準備ができていない事を知ってて、逆に脅迫する始末です。

やがて、翌年の正月三日には家康が駿府へ、2月14日には秀忠が江戸戻るのを見届けた後、納得できない豊臣方は、当然、埋められた堀を掘り返し始め、城壁も修理しだし、ふたたび浪人を召抱えはじめます。

しかし、この当然の動きは、家康も当然予想済み・・・いえ、むしろ、そうしてくれる事を望んでいたかも知れません。

そして3月には家康のもとへ、豊臣方の動きが知らせられ、家康も新たな合戦への準備に入ります。

「今度こそ潰す」・・・そう思ったに違いありません。

そして、いよいよ大坂夏の陣となるわけですが・・・そのお話は4月28日のページへどうぞ>>

その他、「大坂の陣」関連のイロイロについては、『大坂の陣の年表』>>からまとめてどうぞ!
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2006年12月18日 (月)

西郷隆盛生存説と銅像建立

 

明治三十一年(1898年)12月18日、上野の西郷隆盛像の除幕式が行われました。

・・・・・・・・・・

維新の志士の中でも西郷隆盛さんは、屈指の人気を誇る有名人ですね。

Saigoutakamori700a それは、維新の時、まさに一触即発だった江戸の町を、火の海から救った功績が大ですし(4月11日参照>>)、それプラス何かとついて回る庶民の味方的なイメージもあっての事でしょう。

とりわけ、西南戦争で散っていく最期(9月24日参照>>)は、日本人の大好きな判官びいきの心を揺さぶられ、国のために力を尽くしたにもかかわらず、ちょっとした歯車の違いで、朝敵のレッテルを貼られてしまう所も、ついつい応援したくなってしまうんですよね。

そして、やはりあります・・・判官びいき特有の生存説。

言葉の元となった源義経はもちろん、やはり悲運の死を遂げた明智光秀豊臣秀頼ら同様に、西郷さんにも生存説が多々あります。

ご存じのように、明治十年(1877年)の9月に、鹿児島城山で西郷さんは自刃する(9月24日参照>>)わけですが、実は、未だ西南戦争真っ最中の頃から、この時、大接近中だった火星をめぐって様々な噂が流れていた(9月3日参照>>)わけですが・・・

西南戦争が終結してもなお、生存説はそのまま、引き継がれます。

最初のうちは、四国に逃げた・・・中国大陸に渡ったなど、漠然とした物でしたが、4年後の明治十四年になると「インド洋の孤島で身を隠していた西郷さんが、新政府の誰かエライ人に招かれて政界に復帰する」といった内容の小冊子が大阪市内で出回り、噂は俄然、真実味をおびてくるのです。

そして、翌年の明治十五年には、朝鮮亡命説が登場。

この時は「もし西郷が朝鮮で出兵したら、政府は北海道から出兵して・・・」などと、具体的な尾ひれがついて、多くの人を信じ込ませました。

やがて明治も二十年を過ぎ始める頃になると、過去最大級の噂が流れはじめます。

それは今度「明治二十四年(1891年)に、日本を訪問する予定になっているロシアのニコライ皇太子とともに帰国する」というもので、これは新聞報道までされ、しかも、最終的に、血気にはやった一巡査が皇太子・ニコライ2世を襲撃するという大津事件にまで発展しています(5月11日参照>>)

やがて政府は、明治二十二年の憲法発布に際して西郷さんへの特赦を行うのです。

それは、西南戦争の悪よりも、それ以前の功労のほうが勝るとして、「十数年間の“朝敵”の汚名を除き、これに加えてさらに正三位を贈る」という寛大なものでした。

この恩赦・・・政府が、かの噂を信じての判断かどうかは別として、これによって罪人ではなくなった西郷さんは、帰国すればすぐにでも政界に復帰する事も可能になるわけで、西郷さんを待ち望む人は大いに期待しました。

ここまで、生存説が広まった原因は、もちろん城山で自刃した時、西郷さんのものと思われる胴体は発見されたものの、その首が発見されず、西郷さんには生前7人の影武者がいたため、その胴体も本人の物かどうかわからないという事が発端になってはいますが、やはり、今の政府への落胆ぶりが大きく作用していたものと思われます。

明治維新で、徳川幕府という大きな権力が崩壊し、庶民は新しい世の中に期待していたのです。

ところが、蓋を開けてみれば、政府高官は以前の幕閣を思わせるような大邸宅で悠々と暮らし、あいも変らず豪商だけが私腹を肥やし、多くの庶民や下級武士の生活は、江戸の頃と変りのないものでした。

人々の間に芽生えた「誰か、もう一度世直ししてはくれないだろうか」という世直し願望、・・・決起してくれるヒーローを待ち望む気持ちが、当時のヒーローに最もふさわしい人物・西郷隆盛へと繋がっていった・・・これが一番大きかったのだと思います。

そして、それだけ生存説が囁かれる、という事は人気があるという事で、朝敵の汚名がなくなると同時に、待ちかねた人々から“銅像建立”の話が持ち上がります。

最初は、丸の内に建てる予定でしたが、そこは皇居に近く、華族から猛反対を受けたため現在の上野に決まったという事です。

しかし、ここでも旧幕臣から彰義隊(5月15日参照>>)の墓に背を向けるとは・・・」とのクレームがあったそうですが、2万5千人の賛同という事で何とか収め、明治二十六年に着工。

そして、明治三十一年(1898年)12月18日に除幕式を迎えたのです。

その姿は、
平民的な姿をしているイタリア独立の志士・ガルバンジーの像をヒントに、鹿児島で狩りをしている時の西郷さんの姿をモデルに・・・

ただし、親族からは「ぜんぜん似てない・・・」とのもっぱらの評でしたが、生前、西郷さんは暗殺防止のため顔バレしないよう極力写真を撮らなかったというので、あの有名な肖像画も空想で書いてる以上、しかたのないところでしょうか。

ところで余談ですが、建立当時、「九段にある大村益次郎の銅像が、この西郷さんを睨んでいる」との事で、大村さんの銅像がえらく嫌われたという事ですが、先に建ってる大村さんにとっては迷惑な話ですね。

とにもかくにも、明治政府の人気のなさが、西郷さんの人気向上へ、そして生存説から銅像建立へと繋がっていったのは確かでしょう。

*西南戦争関連ページ
●西郷隆盛に勝算はあったか?>>
●薩摩軍・鹿児島を出陣>>
●熊本城の攻防>>
●佐川官兵衛が討死>>
●田原坂が陥落>>
●熊本城・救出作戦>>
●城山の最終決戦>>
西南戦争が変えた戦い方と通信システム>>
●西郷隆盛と火星大接近>>
●大津事件・前編>>
●大津事件・後編>>
●大津事件のその後>>
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2006年12月17日 (日)

日本最後の仇討ち

 

明治十三年(1880年)12月17日、新政府の“仇討ち禁止令”が発布されたにもかかわらず、臼井六郎が父親の仇を討ち、これが日本の歴史上最後の仇討ちとされています。

・・・・・・・・・・

仇討ちの根っことなる事件は、あの動乱の慶応三年にさかのぼります。

幕末のこの時代は、日本中が『勤皇(天皇押し)『佐幕(幕府押し)かで、意見が真っ二つに別れていた時代です。

福岡・黒田家の支藩である秋月藩でも、やはり意見は対立していましたが、臼井亘理(わたり)をはじめとする重臣達は、公武合体を支持し幕府寄りの体制をとっていました。

そんな時、大政奉還(10月14日参照>>)王政復古の大号令12月9日参照>>)で、事態は激変します。

当時、藩命で京都にいた亘理は、幕府の崩壊を目の当たりにして、「朝廷側についたほうが良いのでは?」と考えるようになり、その路線で行動をし始めます。

その事がどこでどういう風に伝わったのかはわかりませんが、藩主や家老の怒りをかい、「国に戻ってはならぬ!しばらく京にとどまれ!」との命令を受けてしまいます。

やがて明治元年の5月に、やっと帰郷の許しが出た亘理は早速、秋月に戻ります。

自宅に戻った亘理を、「何かワカランけど、とりあえず戻れて良かった」と、家族・親戚一同がお出迎え、宴会を開いてその日は大いに盛り上がりました。

その晩の事です。

お祝い気分もあって、しこたまお酒を飲んで爆睡中の亘理を、同じ藩内の勤皇攘夷派の若者で構成される“干城隊”と名乗る刺客が襲い、亘理を・・・そして横で寝ていた妻と幼い妹が殺されてしまいます。

ひとり、別室で寝ていた長男・六郎は助かりましたが、血の海に横たわる家族の姿を、この16歳の少年は、どんな思いで見た事でしょう。

もちろん即日、藩に訴えますが、勤皇に傾きつつある藩当局の判断は、“干城隊”は無条件の無罪・・・

そして、京都での事が影響したのか、逆に亘理の世禄を削られるという、遺族にとっては納得のいかないものでした。

亘理の死は、“非命の死”・・・つまり災難としてかたずけられてしまうのです。

その後も、六郎は再三にわたって仇討ちを訴えますが、養父や親戚は反対し、彼を止める一方です。

やがて、明治六年には、“仇討ち禁止令”が出されます。

これからは、『個人に代わって国が法律に基づいて裁きを下す』という事になりました。
しかし、六郎の心の傷は消える事はありません。

そして、六郎は学問を理由に故郷をあとにし、東京へ出てきます。

東京で、北辰一刀流の山岡鉄舟について剣の腕を磨きながら仇討ちの機会を狙っていたのです。

いつしか六郎は、当日、直接手を下したのは“干城隊”隊士の一瀬直久なる人物であった事を突き止めます。

そして、一瀬の行方を探るうち、一瀬が現在、東京上等裁判所の判事である事・・・東京三十間堀にある旧藩主・黒田長沖邸で、月に一度、旧・秋月藩士を集めて碁会が開かれ、一瀬も時々そこにやってくる事を知ります。

かくして明治十三年(1880年)12月17日、物陰で様子を伺っていた六郎は、黒田邸に入る姿を確認し、一瀬に向かって短刀を突き立て、本懐を遂げました。

30ilak17120 騒ぎを聞きつけて集まってくる人々・・・。

六郎の顔を見知っている者がいて「六郎、何をした?」と聞くと、六郎は「御邸で騒ぎを引き起こした事は深くお詫び申しあげる」と丁寧に謝罪し、雇った人力車に乗り、その足で警察に出頭しました。

この事件を、故郷で聞いた六郎の祖父「六郎がやりおった~今日は生涯で最良の日、生きててよかった」と、涙を流したと言います。

六郎は“復讐手続書”と題して、仇討ちに至った経緯を文章にしたためていますが、そこには「国の法律を破って乱れを起こす事はまことに心苦しいが、自らの手で下さねば心は癒えなかった」との気持ちを書いています。

しかし、この仇討ちは、あっという間に世間の評判となります。

錦絵にもなり、芝居にもなり、当時のマスコミでは、まるで人気アイドル扱いです。

文明開化へ、文明開化へとなびく中、それに乗り遅れた人々にとっては、江戸の昔を思い起こさせる出来事だったんでしょうね。

しかし、もう時代は変りました・・・仇討ちは禁止、罪は罪です。

次の年には、東京裁判所で、終身禁固が言い渡され六郎は服役します。

結局、10年後、祝典により罪一等を免ぜられ明治二十三年(1890年)6月に仮釈放となります。

この頃になっても、まだ六郎の人気は衰えず、自由民権運動の大井健太郎星亨(とおる)といった当時の名士たちから、盛大な出所祝賀会を開いてもらっています。

12月と言えば、14日にもあの有名な忠臣蔵がありますが(12月14日参照>>)仇討ちというのは、はたして美談なのか?単なる人殺しなのか?

赤穂浪士にしても、六郎にしても、こーゆー場合、やはり最初の上のかたの判断・・・最初の判決で被害者遺族に怨みを残させない公正な判決をする事が重要ですね。
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2006年12月16日 (土)

高杉晋作・功山寺で挙兵

 

元治元年(1864年)12月16日、幕末の風雲児・高杉晋作が、長州藩内の保守派を倒すため功山寺で挙兵しました。

・・・・・・・・

その10年前、幕府がアメリカの圧力に屈して和親条約を結んで、下田と函館の港を開港した時から、攘夷(外国人出ていけ)中心だった長州藩は、保守派の幕府と対立しながらも、朝廷内の攘夷派とともに政界の中心となっていました。

しかし、薩摩・会津の巻き返しによる前年の八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、長州藩に味方していた攘夷派の公卿・三条実美(さねとみ)らとともに、長州藩は京都から追い出され、政治の表舞台からしめ出しを喰らいます。

そこで、この年の7月、劣勢を挽回するため大軍を率いて京都に攻め上りますが、激烈の戦闘の後、敗退・・・ご存じ禁門(きんもん。蛤御門)の変です(7月19日参照>>)

その交戦中に、御所に向かって発砲した事から、長州藩は朝敵(国家・天皇の敵)とみなされ、幕府は長州征伐の準備を始めます(5月22日参照>>)

しかも、そんな時にかぎってイギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合軍から、下関に攻撃されてしまいます(8月8日参照>>)

実は、長州藩は、「外国人は来るな!」とばかりに、前年の5月10日、下関海峡に停泊中のアメリカ商船に砲撃したのを皮切りに、海峡を通る外国船に次々と大砲を撃ち込んでいたのです。

その時の外国の報復がこのややこしい時期に行われ、手ひどくやられた長州が、「これでは、いかん!」とばかりに、高杉晋作の発案によって結成したのが、藩が率いる正規兵とは別の組織という意味の奇兵隊だったのです。

Takasugisinsaku500a 晋作25歳の時でした。

それは、武士にこだわらず、農民・町民・猟師や僧侶まで、様々な階層から隊員を公募し、約300人程が集まりました。

晋作は、その組織の総監となりますが、すぐ後、奇兵隊員が正規兵と揉め事を起こし、流血事件にまで発展したため、その責任を負って総監を辞任しています。

そんなややこしい中での幕府の長州征伐・・・

今、国を相手に戦えば大変な事になりますし、何たって、このまま長州藩がお取り潰しになる可能性だってあります。

そこで、長州藩は、「先の禁門の変は、先走った家老らが勝手にやった事で、藩主の知らぬ事である」という事にして、関与した家老を切腹させて(11月12日参照>>)、藩の存続を図ります。

これで、何とか幕府の長州征伐は回避されましたが、当然の事ながら、それまで藩の主流だった尊王攘夷派は一掃され、藩のエライさんは保守派で固められる事になります。

もちろん、そんな保守派は、幕府に忠実な姿勢を見せ、攘夷の旗印でもあった“奇兵隊”の解散も口にするようになります。

かくして、「このままでは、長州藩は戦わずして、幕府に負けてしまう」と思った晋作は、奇兵隊に声をかけますが断られ、しかたなく伊藤俊輔(博文)率いる相撲取りで構成された力士隊20人と、奇兵隊の中で賛同した者60人をつれて、元治元年(1864年)12月16日功山寺に向かいます。

その功山寺には、先に書いた京都を追われた三条実美ら公卿がいたのです。

彼らを擁立し、その許可を得る事で、この戦いが私的なクーデターではなく、長州のため思う聖戦である事を強調しようとしたのです。

たった80人に大砲が一問の粗末な軍隊に、不安を隠しきれない実美たちを前にして、晋作は「長州男児の肝っ玉をお見せもうす」と言って笑ってみせたと言います。

今まで、対立する保守派から目をつけられ、危ないめに合うたび、すばしっこく逃げ隠れして、その身を守ってきた晋作の、覚悟の挙兵でした。

功山寺を出発した一同は午前4時、下関にある長州藩の役所・新地会所を攻撃します。

ここには、藩所有の武器弾薬が保管されていて、それらを奪うのが目的でした。

ふいをつかれた役人は、無抵抗のまま降伏。

気をよくした晋作は、このまま三田尻に停泊中の藩の軍艦3隻を奪う事にしますが、さすがに「それは無謀だ」と、皆、尻込みします。

「ならば、俺と一緒に死んでくれる者だけついて来い」と、うながしたところ18人がその場に残ります。

その18人とともに、晋作は三田尻へ・・・。

そして、一人の死者を出す事もなく、軍艦3隻の奪取に成功します。

たった18人で??・・・とても、信じられない事ですが、おそらくは、もともと藩の中に決起した者以外にも、いくらかの晋作支持者が潜んでいたのではないかと思われます。

軍艦の守備に着いていた、ある程度地位のある上司が、晋作の決起を知って同調したとすれば、その配下の者たちが、ことごとくついて来る・・・というのは、ありえる事です。

とにかく、この事の成功により、決起に尻込みしていた奇兵隊本隊が動き出し、やがて町民や農民も反乱軍に加わりました。

そして、翌年1月2日には、下関会所を再び占拠・・・こうして長州藩は、再び尊王攘夷の藩に生まれ変ります

今でも、この日の晋作の功山寺での挙兵が無かったら、維新は2~3年遅れていただろう、と言われるターニングポイントでしたね。

こののち、晋作は肺結核という病と闘いながら、長州征伐にやって来た幕府を迎え撃つ事になります(6月8日参照>>)
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2006年12月15日 (金)

魔界の使者・小野篁

 

承和五年(838年)12月15日、遣唐使の副使を断った小野篁が隠岐へ流罪になりました。

・・・・・・・・・

さて、問題です。
「子子子子子子子子子子子子」
何と読むでしょう?

嵯峨天皇が意地悪で出したこの問題、平安の天才・小野篁(おのたかむら)は、間髪入れず即答します。

「それは、猫の子の子猫、獅子の子の子獅子と読むのでしょう?」

ドタバタ続きの平安京を見事に治めた嵯峨天皇も、さすがに「参りました」の一言です。

小野篁という人は、あの初代・遣唐使の小野妹子(7月3日参照>>)の子孫で、小野道風(12月27日参照>>)小野小町(3月18日参照>>)のご先祖・・・と言えば、彼の事をご存知でないかたも、少し親しみがわきますよね。

そして、政治家でもあり、文人でもあり、歌人でもあるその天才のDNAにも「納得・・・」ってトコですよね。

小野篁は、参議・小野岑守(みねもり)の子として生まれ、東宮学士(皇太子の家庭教師)などをやった後、朝廷で高級官僚として活躍します。

しかも、頭脳だけではなく、剣や弓・乗馬の腕もスゴかったというから、もう女の子にもモテまくり・・・で、ついたあだ名が『野狂』・・・って、エェなんで?

実は、さすがに天才だけあって、少々・・・いえ・・・けっこうな変わり者。

昼は朝廷でバリバリ働きながら、夜は毎晩のようにあの世へ通っている・・・とのもっぱらのウワサ・・・

平安時代は、風葬がよく行われたのですが、その風葬をする場所が鳥辺野と呼ばれる現在の京都・東山の南側。

人が亡くなると遺族は遺体を棺おけに入れて、都から鴨川を渡り五条通りを東山に向かいます。

そして現在の六波羅蜜寺珍皇寺(ちんのうじ)のあたりの六道の辻(ろくどうのつじ)と呼ばれる場所で、最後のお別れ(これを「野辺の送り」と言います)をして、ここから先は僧侶の手にゆだねられ、風葬をする鳥辺野へ運ばれていきました。

やがて人々は、このあたりの六道の辻冥界への入り口と考えるようになるのです。

最初に篁が冥界へ行ったのは、死んだ母親の霊に会いたくて、あの世へ通じていると言われていた珍皇寺の井戸から・・・。(犬夜叉か!)

そして、何度も通ってるうちに閻魔さまと仲良くなって、冥界では、閻魔大王の補佐役をしていたと言います。

Takamuraidocc 現在の珍皇寺には、篁が冥界へ通った井戸(写真→)と、篁自身が彫った閻魔大王像篁像があります。

見た人が彫ったのだから、さぞかし本物の閻魔さまそっくりなんでしょうね・・・暗くてよく見えなかったですが・・・

ちなみに、この珍皇寺の井戸は入り口で、出口は嵯峨の大覚寺の南側の六道町に、明治の頃まであった福生寺の井戸だとされています。

・・・て事は、今は行ったきりで帰って来れなくなるので、気をつけなければ・・・。

・・・で、エライ回り道をしてしまいましたが、この篁さん、こんな不思議な行動ばかりしていたわけではありません。

最初に書いたように、仕事に関してはバリバリのスゴ腕だったのです。

そして、彼が30歳半ばを過ぎた承和五年(838年)、遣唐副使に任ぜられます。

しかし、彼は、すでにこの時、遣唐使は不用の物として廃止を訴えていたのです(実際にはこの56年後に不用として廃止されます)

当然、大使の藤原常嗣(つねつぐ)と争いになる中“西道揺”と題した遣唐使制度を風刺した詩を詠んだところ、この詩が嵯峨上皇の耳に入り、上皇が激怒!

承和五年(838年)12月15日一切の冠位・官職を剥奪され隠岐へ流罪の身となるのです。

♪わたの原 八十島(やそじま)かけて 漕ぎ出でぬと
 人には告げよ あまのつり船♪

これは、難波から隠岐へ向かう船に乗せられた時に、京にいる知人にあてて詠んだ歌。

「今、僕を乗せた船が多くの島に向かって、海の彼方へ漕ぎ出した事を、都の人にも伝えてね」

この歌は百人一首の11番に納められているので、ご存知のかたも多いでしょうが、涙をさそう悲しげな歌です。

でも、心配はいりません。

さすが篁さん、隠岐でもしっかり彼女作っちゃってますから、そっちのほうもスゴ腕でけっこうな事でございます~。

結局、2年後には許されるのですが、その時は別れを惜しむ彼女に「これを僕だと思って毎日大事にしてね」と、自分の姿を彫った像をわたして(←別れられる女にとって一番厄介なプレゼントやんけ!)、サラリと帰ってきてます。

都に戻ってからの篁さんは、またまた出世街道まっしぐら。

承和十四年(847年)には従三位という高い位に返り咲いていますので、篁の天才ぶり、敏腕ぶりがうかがえますね。

珍皇寺のくわしい場所や地図をHPで紹介しています。
よろしければ、【歴史散歩:四条から五条へ】>>へどうぞ。
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2006年12月14日 (木)

忠臣蔵のウソ・ホント

 

頃は元禄十五年(1702年)12月14日、降りしきる雪をかき分けて、夜空に響く陣太鼓、一打ち、二打ち、三流れ・・・でしたっけ?

とにかく今日は、赤穂浪士の討ち入りの日

・‥…━━━☆

まぁ、実際に討ち入ったのは、15日の午前4時頃なんですが、みんなで集合し、事を起こしたのが14日の深夜という事で、今日書かせていただきます。

この赤穂浪士の討ち入り“仮名手本忠臣蔵”(8月14日参照>>)モデルとして超有名な出来事です。

「外題に困れば忠臣蔵」と言われ、どんな人気のない芝居小屋も、忠臣蔵を上演すれば客席は満杯になるという、日本人の心をつかんで放さないこの作品。

意地悪な上司のせいで切腹に追い込まれた殿様のために、命を賭けてカタキ討ちをする家臣・・・痛快な勧善懲悪でありながら、死を覚悟して決行するという滅びの美学もあり~ので、まさに“判官びいき”の心クスグリます。

もちろん、お芝居はお芝居で、面白くなるように創作が入っているものなのですが、いったいどこまで事実でどこからがフィクションなのでしょうか?

まずは、松の廊下の刃傷事件・・・くわしくは(3月14日【事件を目撃した松はどんな松?】を見てね>>)。

高家筆頭吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)から、イケズされバカにされた赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、我慢の限界に達しブチ切れ!江戸城の松の廊下で上野介に斬りかかります。

もちろん、これは事実ですが、ただ吉良さんが、本当に意地悪だったかどうかは、当てになりません。

高家というのは、幕府と朝廷のパイプ役でもあり、足利家の血筋の名門の家柄の事で、そこの筆頭ですから、たしかに吉良さんはエライ人です。

しかも地元の評判でもわかるように、かなりの名君で仕事もデキる人

そのぶん、やはり仕事には厳しかったようですが、浅野さんがもし、仕事がデキない人だとしたら、怒られるのはある意味当然。

しかも、浅野さんは、かなりのかんしゃく持ちで、すぐに頭に血がのぼるタイプ。

前日も、「明日は江戸城に行く」というので、精神安定剤のような薬を飲んでいたらしいので、これはもう周囲も認めるケンカっ早い人って事で、一概に吉良さんが天下の大悪人とは言い難いところです。

吉良さん側から言えば、なんで浅野が怒ってるのかさっぱりわからない・・・というのが本音のようです。

ただ、たとえ「城内での傷害事件の罰が切腹」というのが、当時、常識だったとしても、吉良さんにまったくお咎めナシ・・・という幕府の判決が甘かった・・・ですね。

結局この事が、討ち入りの計画を知っていても幕府は目をつぶらなきゃいけない事になってしまいます。

そうなんです。

討ち入りがある事を幕府は事前に知っていたんです。
大石も、知人への手紙に“御老中もご存知”と書いています。

しかも、幕府は浪人たちが討ち入りやすいように、吉良さんの住居を呉服橋という大都会から、本所という当時はけっこう田舎な場所に引っ越させています。

これは、アノ時の処分が「片手落ち」だという世論の批判をあびて、幕府が見て見ぬふりをしていた証拠かも知れません。

その事は吉良さん側も察していたようで、今までの奉公人をすべてクビにして、国元から身元のしっかりした者を呼び寄せ、奉公人の入れ替えをやっています。

そんな中、討ち入りのリーダーである、家老・大石内蔵助が、敵の目をくらませるために京都で遊びまくっていた・・という話。

これは、遊びまくっていたのは、本当ですが、敵の目をごまかす・・・というのではなくて、単に本当に遊ぶのが好きだっただけのようです。

赤穂にいた頃には、あまりにもヒドイので、7回くらい殿様から謹慎処分を受けています。

Gansuikencoco
内蔵助が浪士たちと密談をかわしたとされる京都・来迎院の茶室・含翠軒

しかも、彼の本音は仇討ちではなく、御家再興。

なのに、仇討ちメンバーのリーダーに祭り上げられてしまい、絶望感からよりいっそう遊びまくった・・・というのが本当のようです。

そして、いよいよ、討ち入り当日

残念ながら雪は降ってませんでした。

細かい事を言えば、打ち鳴らしたのは山鹿流・陣太鼓ではなく、各自が持った笛とドラ1個

おそろいのカッコイイ服装ではなく、みんなバラバラ

表と裏から24人ずつ、合計48人のメンバーが襲撃するはずでしたが、当日になって毛利小平太脱落して47人に・・・。

やがて、納屋に隠れていた吉良さんを、間十次郎が見つけますが、実は表に引っ張り出された時には、すでに死亡。

武林という中国人・3世が斬ったという事ですが、その傷以外に25箇所もの傷があって、結局、誰が討ち取ったかワカラナイ・・・という痛快と呼ぶにはふさわしくない状況でした。

そして、幕府も知っていたこの討ち入りには、約300人の見物人がいて、その中にはあの新井白石もいたとか・・・。

その後の処分は、討ち入りにかかわった46名全員が切腹・・・(残りの1名については【消えた47番目の赤穂浪士~寺坂吉右衛門】へどうぞ>>

これは、「主君の無念を晴らした武士の鑑」との世論に気をつかいながら、大勢で他人の家に押し入った罪は罪とした幕府の苦肉の策で、打ち首ではなく、切腹として浪士たちの面目を保った・・・という所でしょうか。

しかし、ワケがわからないのは、被害者側である吉良家の義周(上野介の養子)さん
彼は、父を守れなかったという罪で流罪になっています。

「なんのこっちゃ」って感じですね。

後日談としては、大石と同じ赤穂藩・家老でありながら、途中で行方をくらます大野九郎兵衛さん。

彼は、お芝居では、逃げ出した腰抜け“不忠者”として描かれているのですが、実際に逃げた先には東北や山梨、京都などいくつがの伝承が残されています。

その中で、群馬県安中市磯部には、九郎兵衛さんが、林遊謙という名前で、近所の子供たちに手習いを教えていたという話が残っていて、近くにはお墓もあるそうなのですが・・・その遊謙さんが亡くなったとき、村人が遺品の中から手紙を見つけたのだそうです。

その手紙の差出人は、大石内蔵助で「自分が、襲撃に失敗した時には、第二陣として頼む」という内容だったとか・・・。

残念ながら肝心の手紙が現在は行方不明なのだそうで、これはあくまで言い伝えという事になってしまいますが・・・(2010年12月14日参照>>)

討ち入りの詳細は
 2009年12月14日のページでどうぞ>>
討ち入り後に姿を消した寺坂吉右衛門については
 2009年2月4日のページでどうぞ>>
江戸時代には、忠臣蔵とセットで上演されていた
 【もう一つの忠臣蔵~四谷怪談】もどうぞ>>
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2006年12月13日 (水)

建礼門院・平徳子の忌日

 

建保元年(1213年)12月13日、平清盛の娘で、第80代高倉天皇に入内し、安徳天皇の母となった建礼門院・平徳子が、59歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

平徳子(たいらのとくこ)は、あの平清盛次女。

源平の頃を描いたドラマで、女性として目立つ役どころと言えば・・・
前半は二位の尼平時子・清盛の奥さん)で、後半は、静御前(源義経のカノ女)
・・・と、何かと影が薄い(失礼)気がする徳子さん。

感情的な場面もなく、表情も表に出さず、もひとつ彼女の性格がつかめない感じです。

父の清盛太政大臣となり、まさに平家全盛の頃・・・徳子は15歳で、時の天皇・高倉天皇のもとに入内します。

その時、天皇は11歳でした。

とは言え、この若き天皇は、けっこうな女好き・・・
あちらこちらに彼女を作っては、「自分は天皇だから・・・」と、手だけつけといて深入りしない・・・という、男から見れば夢のような恋愛遍歴。

そんな時も、徳子は感情を表に出しません。
夫婦としての感情があったのかどうかさえ、疑わしい気配です。

もっとも、この二人の結婚を押したのは、他ならぬ徳子の父・清盛と、天皇の父・後白河法皇・・どちらも、時の権力者です。

もともと、天皇の奥さんとしてはふさわしくない家柄の平家の娘・徳子を、法皇の猶子にしてまで結婚させた・・・いわゆる政略結婚ですから、当人同士が夫婦としての感情がなかったとしても不思議ではありません。

そんな、徳子が22歳の時、最大の親孝行をします。

天皇との間に男の子(後の安徳天皇)を出産したのです。
(そんな二人でも子供はできるのね)

子供は、わずか生後1ヶ月で、皇太子にたてられます。

清盛はかつて栄華を極めた藤原氏のように、娘を天皇家へ送り込んで、次期天皇の外祖父になる・・・という権限握りまくりの絶好のポストを手に入れたのです。

しかしその前後から、くすぶりつつあった清盛と法皇の対立が少しずつ少しずつ大きくなっていくのです。

徳子が出産してから2年後、清盛のゴリ押しで、皇太子はわずか3歳で安徳天皇となり、高倉天皇は譲位して高倉上皇となりました。

もちろん、大きくなった溝がよけいに大きくなった事は言うまでもありません。

そんな清盛と法皇のギクシャクした関係に、いち早く反応したのか?・・・法皇の先妻の息子・以仁王(もちひとおう)源頼政平家に反旗をひるがえします。(4月9日参照>>)

この戦いはすぐに鎮圧されたものの(5月26日参照>>)、間もなく、以仁王の令旨(りょうじ・一緒に平家を殺ったろやないか!との、天皇家の人からのお誘いの手紙)を受け取っていた伊豆源頼朝(みなもとのよりとも)(8月17日参照>>)木曽源義仲(みなもとのよしなか)(9月7日参照>>)相次いで挙兵します。

その後、年が明けてまもなく高倉上皇と清盛が相次いで亡くなります(2月4日参照>>)と、この高倉上皇の死を受けて、徳子は“建礼門院(けんれいもんいん)という号で呼ばれる事になります。

こうして大きな柱を失った平家・・・西に向かってくる源氏・・・

やがて、寿永二年(1183年)、倶利伽羅峠の合戦(5月11日参照>>)で大敗をして、いよいよ木曽義仲が都に近づいて来る事になり、平家は一族そろって都を落ちるのです(7月25日参照>>)

徳子27歳、安徳天皇6歳でした。

その後、木曽義仲を倒した頼朝の弟・義経(よしつね)率いる源氏軍によって、平家は徐々に西へと追いやられ、寿永四年(1183年)3月、壇ノ浦の合戦(3月24日参照>>)で、平家は滅亡する事になるのですが・・・この時も建礼門院・徳子はその感情を見せてはくれません。
(そのあたりの一連の戦いについては【平清盛と平家物語の年表】から、各ページへどうぞ>>)

平家の最後の切り札だった安徳天皇(8歳になってます)と三種の神器を抱きかかえて海のもくずと消えるのは二位の尼・・・。

014tokuko400a 彼女は、海に沈む二人をジ~っと見送ってから「あぁ、そうだ」とばかりに、そのへんにあった硯などをふところに入れて入水しますが、かねてから準備していたわけではないので、すぐにプカプカと浮いて、結局、源氏の兵士に熊手で救い上げられてしまいます。

この状況は彼女に死ぬ気がなかったように思えてならないのです。

もちろん「死ぬのが怖い」というのではなく、やはり、感情が見えない・・・という感じです。

よくテレビドラマなどでは(昨年の大河も、そうでしたが・・・)海に飛び込もうとしたところに飛んできた源氏の矢で、着物が船板に打ちつけられて、飛び込むに飛び込めなかった風に描かれている事がありますが、これは同じ時に源氏に捕まった徳子の兄・平重衡(たいらのしげひら)の奥さん・輔子(すけこ)の逸話とされます(輔子については3月10日【平家の公達・平重衡と輔子】のページでどうぞ>)

そしてその後、世はまさに、源氏のモノとなっていくのですが、徳子は5月に出家して尼となり、先に逝った一門の人たちへ祈りを捧げながら暮らします。

最初は京都の東山あたりのお寺にいましたが、ここは都に近く、何かと他人のウワサが耳に入るので、後に洛北の大原の里にある寂光院で余生を送る事になるのです。

そんな、平家物語も終ろうとするあたりに、彼女は人生で始めて、その素顔を垣間見せてくれます。

それは、何を思ったか、あの後白河法皇が、徳子を訪ねて大原にやって来た時の事です。

思えば、父・清盛を取り立てたのも法皇・・・
高倉天皇との結婚を推し進めたのも法皇・・・
源氏をけしかけ、平家を滅ぼさせたのも法皇です。

彼女は、ここで始めて涙をうかべながら「会いたくない・・・」という心からの意思表示をするのです。

しかし、相手は法皇様ですから、断るわけにもいかず、結局は、法皇と会って、涙ながらに先に逝った人々の話をするのですが・・・。

この大原の話は、法皇が何を考えてるのか?理解し難いくだりですが、徳子の素顔が少しでも見れた気がして、なにやらホッとするところでもあります。

現在も、京都・大原・寂光院の裏山には、徳子さんのお墓とされる陵がありますので、おそらく彼女は亡くなるまで、寂光院にて死んだ平家の人々を偲んでいたのではないかと思います。
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2006年12月12日 (火)

信玄,ラストチャンスに賭ける

 

永禄十一年(1568年)12月12日、“風林火山”で知られる甲斐の武田信玄が、駿河の今川氏真を攻めました。

・・・・・・・・・・

Takedasingen600b武田信玄上杉謙信川中島の合戦が、合計5回あって、一番有名な例の“鞭声粛々”が4回目だった事は以前お話しましたが(9月10日参照>>)、その3回目と4回目の間に、小田原まで攻め込んだ謙信は、行動をともにしていた上杉憲政から“関東管領”という厄介な役職を譲り受けていました。

なぜ、厄介かと言いますと、この“関東管領職”・・・現状では名ばかりで、当時、関東に一番影響力があったのは北条氏康で、彼をなんとかしないかぎり、本当の管領とは言えない状況だったのです。

この関東を何とかするために、謙信は信玄との戦いの合間に、度々関東に出陣していますが、思うようにはいきません。

逆に、ジワリジワリと来る北条方の切り崩し作戦で、上杉から北条に寝返る者も出てくる始末です。

それにもまして、今度は信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に嫁ぎ、武田と北条が同盟を結ぶ・・・という事になってしまいます。

こうなったら信玄も、北条と一緒になって謙信が何とか今まで平定した関東の地に攻め入ってきます。

そして、ついに、永禄九年(1566年・最後の川中島の戦いの2年後)信玄は上野の箕輪城を総攻撃・・・謙信の上野の重臣・長野氏が滅ぼされ、上野の西半分は信玄の手に落ちました。

謙信は東半分を守るので精一杯。
ただ、この間でも謙信は越中方面へ軍を進め、こちらでは少し領地を増やしています。

やがて、永禄十一年
この年の9月に、織田信長足利義昭を奉じて上洛を果たしました。(9月7日参照>>)

信玄は少し焦ります・・・っと思いますww
この時、信長はまだ36歳。
自分は49歳、ライバルの謙信は40歳です。

「人間五十年・・・」の時代ですから・・・自分だって天下を狙う武将ですから・・・。
もはや、なりふりかまっていられません。

「早く領地を拡大し、京への道筋をたて、自分も上洛をはたさねば!」
並み居る戦国武将の中で、自分が一番年上かも知れない・・・それが、そんな気持ちにさせた事は確かでしょう。

かくして永禄十一年(1568年)12月12日、三河の徳川家康と手を組み、今まで同盟関係だった駿河の今川氏真(うじざね)を攻めたのです。

氏真は、先ほどの北条氏康とも同盟を結んでいましたから、結局、信玄は同盟を結んでいた北条とも戦います。

氏真への出兵に反対していた長男・義信切腹させてまで(10月19日参照>>)手に入れた駿河一国(12月6日参照>>)

しかし、もちろん、これで治まるワケがありません。

そう、上洛するなら、次の通り道は家康の三河です。

ついに、元亀三年(1572年)10月、信玄は大軍を率いて上洛のラストチャンスに賭けるのです。

この続きは、10月3日【武田信玄・上洛】へどうぞ>>

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2006年12月11日 (月)

下克上の至り…山城の国一揆

 

文明十七年(1485年)12月11日、京都・山城で、国一揆が起こり、畠山両軍に3つの要求を突きつけました。

・・・・・・・・・

この3年後に起こる加賀の一向一揆(6月9日参照>>)とともに、記念碑的な一揆と称される山城の国一揆とは、どんなものだったのでしょうか?

その日の興福寺大乗院尋尊(じんそん)の日記には・・・
『今日、山城の国人たちのうち上は60歳から下は15歳の者まで集まり集会を開いた。
同じく国中の土民たちも集まったという。
それは、今回畠山両陣に申し入れを定めるためである。
両軍の返事や問答のあらましは、まだわからないが、こんな事は下克上の至りだ。』

と、あります。

時代は、あの応仁の乱(5月20日参照>>)が終ってから約10年ほど・・・

日本を東西・真っ二つに分け、京の街を焼き尽くす程の大乱も、山名宗全(3月18日参照>>)細川勝元という両方の大将が相次いで死に、結局はうやむやな形で終りを告げ、領地が心配な武士たちは、次々と京を去って行きます(11月11日参照>>)

しかし、もともと応仁の乱の要因の一つでもあった畠山氏の後継者争い(【応仁の乱の口火を切る御霊合戦】参照>>)は、決着が着いていない以上、国許の山城に帰っても治まるはずがありません。
(畠山の戦いについては【応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い】参照>>

この日本を二つに分けた戦いは、山城の国も二つに分けていました。

      (将軍家)         (管領家)   (山城国)
東軍足利義視細川勝元畠山政長狛秀盛
西軍足利義尚山名宗全畠山義就椿井懐専

この最後の狛氏椿井氏国人と呼ばれる人々です。

Yamasirokuniikkiitikannkeizu 国人とは、村名を姓と名乗るほどのかなり武士に近い土豪・・・土豪というのは、半士半農の武士。

その下に土民と言われるほぼ百姓で、合戦の時にだけ出陣する人たちがいました。

もちろん、国人は狛氏と椿井氏だけではなく、この山城の国には、“36人衆”と呼ばれる国人たちがいましたが、彼らのほとんどは畠山政長の配下の人たちでした。

しかし、ここに来て山城の国の住人は、百姓・土民・土豪・国人が一致団結する事になるのです。

それは、応仁の乱後、少し小康状態になっていた畠山氏の後継者争いが、この年の10月から南山城を主な戦場として始まりつつあったからで、そうなると両軍は、新しい関所を儲け所領を占領し交通は遮断され、民衆は兵糧を出さされ、兵として合戦にも行かなければなりません

しかも、畑は戦場として荒らされ、木津川の船まで徴発されてしまうのです。

本来、公家を護り、その領地の治安を護るのが武士の役目にもかかわらず、逆に治安を悪くし、迷惑かけ放題の武士に、「そんなんやったら、自分の身は自分らで護るっちゅーねん!」と、百姓・土民がブチ切れたのもよ~くわかります。

彼らの要求は3つ
① 畠山両軍の撤退
② 寺社本所領の還付
③ 新関所の撤廃

は、もう、ケンカするなら、もう出てって他でやって!・・・て事です。「今後一切入るな」という感じで強く言ってます。

では、年貢を畠山を通さず直接公家に納めるという約束を、一揆より先に直接公家と取り付け、お公家さんも大喜びしています。

は、もちろん、先に書いた交通の妨げとなる関所の廃止です。

当時、関所を通るたびにお金も支払わなければならなかったので、自分たちの土地を自分たちで護る以上、必要のない物なのです。

彼らは、「この要求が承諾されなければ、両畠山軍を攻撃する」という事も言っていました。

先ほどの尋尊の日記によると、16日頃までは交渉が難航していたようですが、17日には義就軍の有力者・古市澄胤(ちょういん)が国元に帰ったのをきっかけに、不思議な程に両軍ともに撤退を開始し、一揆は成功したのです。

これ程うまくいったウラには、彼らの綿密な計算がありました。

畠山両家の下に付きながらも、さほどその気のない武士たちに、法外な金銭を渡して、一揆に対して見て見ぬふりをしてしくれるように頼んでいたのです。

時の最高権力者・細川政元(細川勝元の息子)にさえ、話を付けていたと言うからたいしたもんです。

ただ残念なのは、これだけ綿密な計画を立てて実行した一揆でしたが、加賀の一向一揆が100年の自治を実現したのに対し、山城の国一揆は8年間しか維持できなかった事です(【山城の国一揆の終焉~稲屋妻城の戦い】参照>>)

やはり、それは団結の違いによる物ではないかと思います。
もちろん、団結の強い弱いではありません。

加賀の場合は一向宗という宗教のもと、もともと団結していた人たちが起こした一揆ですが、こちらの山城の国一揆は、もともと争っていた国人が一揆のために団結したというところです。

国人と言えど、武士のはしくれ・・・土地という横のつながりとともに、主従関係という縦のつながりもあるのが武士の常ですから、その後も主従関係を断ち切る事が難しかったのだと思います。

現に、この一揆の直後、椿井懐専(かいせん)は、畠山義就(12月12日参照>>)によって切腹させられています。

政長の息のかかった国人たちと、団結したのが原因ではないかと言われます。

戦国に入り、結局は、上司にあたる武将の思惑に左右されてしまうことは避けられない事だったのでしょう。

しかし、信長や秀吉が関所廃止令を出す100年も前、自由通行を主張し、共和制の自治を守り、応仁の乱で荒廃した村々を、自分たちで立て直そうと立ち上がった彼らの心意気には、おおいに拍手を送りたいですね。

1485年と言えば、ヨーロッパでは、スペイン王国が成立し、コロンブスが黄金の国・ジパングを夢見ていた頃・・・(10月12日参照>>)

そんな頃の日本に、自ら独立を宣言し、投票によって代表者を決め、その代表者の話し合いによって村の方針を決めるという、間接民主的国家が存在した事は、なかなかに世界に誇れる出来事ではないでしょうか?

一揆の方法や惣については6月9日【一味同心・一揆へ行こう!】でどうぞ>>>

山城の国一揆については、本家HPでも地図を入れくわしく書いています…内容かぶってますがよろしければ、コチラからどうぞ
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2006年12月10日 (日)

幕末の三剣士・千葉周作

 

安政二年(1855年)12月10日、斉藤弥九郎桃井春蔵とともに、幕末の三剣士と呼ばれた北辰一刀流の改組千葉周作が63歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・・

千葉周作は、奥州栗原郡の生まれで、祖父も父も北辰無双流の達人で、父は仙台藩剣術指南役でもありました。

16歳の時、下総の小野派一刀流浅利又七郎に入門し、23歳で免許皆伝に・・・。
その後、父の後を追って江戸に出てきます。

そして今度は、中西忠兵衛の道場に入門し、またまた修行の日々をおくります。

Tibasyuusaku500a 周作は、中西道場での修業中“音無しの構え”で有名な高柳又四郎と練習試合をした事がありました。

師匠・練習生の見守る中、試合が始まりますが、二人ともにらみ合ったまま、いっこうに動きません。

シーンと静まった空気を破るようにボキッ!と音がします。

見ると、周作の立っていた床板がザクリと折れていたのです。

師匠は「相打ち」を宣言し、二人の健闘を絶賛したというエピソードが残っています。

やがて29歳になった周作は、浅利も中西もすばらしい剣客ではあるものの、その古流で旧式の剣法は自分には合わないと判断し、新しい一派・北辰一刀流を立てて、日本橋・品川町に、玄武館という道場を開きました。

そして、、その道場が神田お玉ヶ池に移された頃には、門弟が五千人余りにも達し、江戸における剣術道場の中心となるのです。

有名なところでは、坂本龍馬清河八郎山岡鉄太郎なんかが、千葉道場の出身です。

北辰一刀流が、これだけの人気を得たのは、もちろん周作自身の剣の実力もありますが、やはり他の流派の難解な教義に比べ「気は早く、心は静か、身は軽く、目は明るく、業は激しく」という明快な教え。

そして、何より周作の人柄の良さが多くの人を引きつけたようです。

ある日、周作が町を歩いていると、一人の若者が、いきなり刀を抜いて斬りかかってきました。

しかし、こちらは天下の千葉周作・・・しかも相手の若者はメチャメチャ弱い。

何度、斬りかかっても体よくあしらわれて勝負にもならない状況で、最後には、一人でハァハァ言いながら、その場にへたり込む始末。

結局、若者は、その場で無礼を詫びて身の上話をし始めます。

聞くとその若者は、何だか知らないけど争いに巻き込まれて、明日果し合いをする事になってしまった・・・と言うのです。

しかも、相手はかなり腕のたつ浪人者で、かたや自分はさっぱり剣術に自身がない軟弱者。

「もう、この町の景色を見るのも今日が最後か・・・」などと考えながら、フラフラ町を歩いていたら、有名な周作に出会い、何か明日の決闘のヒントはないか?と思って斬りかかった・・・と正直に話したのです。

すると周作は、その若者を怒鳴りつける事もなく「刀を大上段に振りかざし、静に目を閉じて、相手が体のどこかに触れた・・・と、思った瞬間に力いっぱい振り下ろせ」と、やさしく教えてやったのです。

翌日、果し合いの場で、若者は周作に教えられた通りに構えます。

すると、相手はその大胆不敵な若者の様子を見て、相当な剣の使い手と勘違い・・・逆に「命だけはお助けを・・・」と、刀を投げ出して逃げてしまいましたとさ。

“夫剣者瞬息(それけんはしゅんそく)、心・気・力一致”
『気・剣・体の一致』、千葉周作の教えの基本です。
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2006年12月 9日 (土)

王政復古の大号令

 

慶応三年(1867年)12月9日王政復古の大号令が発せられました。

・・・・・・・・・・

“大政奉還”“王政復古”、どちらも徳川幕府が政権を天皇に返上するのですから、一見同じように感じますが、二つは大きく違います。

“大政奉還”天皇の下に新しい幕府主導の組織を設けて政治を行うという物。

“王政復古”は、幕府政権を排除し、天皇自らが政治を行うという物です。

10月14日に、討幕へと向かう薩摩長州の矛先をかわすように、将軍が新しい形で復活するシナリオを描いて、あっさりと大政奉還をした第15代将軍・徳川慶喜(10月14日参照>>)

しかし、慶喜の思惑通りに事は運びませんでした。

幕府を倒す大義名分うを失った薩長も黙ってはいられません。

「このままでは、今までとかわらないじゃないか!」とばかりに、次の手段に打って出ます。

薩摩藩の大久保利通と組んだ公卿・岩倉具視は、綿密な筋書きを計画します。

あらかじめ作成した「王政を復古し、国の威力を挽回する基礎を築いたので、今後は摂政・関白・幕府などを廃止し、総裁・議定・参与を置いて政治を行う」などといった内容の勅書(ちょくしょ=天皇の書)を用意しました。

前日になって薩摩・長州・土佐・福井・尾張の5藩の者たちが岩倉邸に集合し、この作戦が告げられます。

話し合いが翌朝まで続いた後、朝廷の会議でその勅書を差出し、まだ幼い明治天皇王政復古の大号令をかけさせたのです。

慶応三年(1867年)12月9日の事でした。

Gosyococo その日の夜、京都御所内の小御所で会議が開かれます。

大号令によって、総裁に就任した有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)のもと、皇族・公卿・諸侯(山内豊信・松平慶永ら)からなる議定と、岩倉具視ら公卿と討幕派の藩士(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・後藤象二郎ら)からなる参与と・・・もちろん明治天皇も同席し、この会議が正式なものである事をアピール。

しかし、慶喜はじめ旧幕府の要人は出席していません。
完全にクーデターと言えるものです。

そんな討幕派一色の会議の中で、慶喜に対する徳川家の所領の返上、征夷大将軍職と内大臣の冠位の剥奪、一大名への格下げ・・・などが話し合われたのです。

この会議の中で、慶喜に対する処分に反対していたのは、慶喜に大政奉還を決意させるきっかけになったとも言えるあの建白書(6月22日参照>>)を提出した土佐藩・前藩主の山内容堂でした。

幕府に忠誠を誓う気持ちの強い容堂(6月21日参照>>)は、何とか慶喜復活への道を開こうと踏ん張りましたが、途中の休憩の時、同じ控え室にいた西郷隆盛「これ以上モメるようやったら、ワシがアイツ(容堂)を殺ったる!・・・って岩倉が言うとったで(←コレの鹿児島弁バージョンで)と囁かれてノックアウト!

後半の会議では、ビビリまくりの沈黙体制となってしまうのです。

事実、具視は日頃から「屏風はまっすぐにすれば必ず倒れる。少し曲げなければちゃんと立たないように、公明正大に事を運ぶよりも、陰謀を張り巡らすほうが良い」と言ってはばかりませんでした。

結局このクーデターにより、幕府は正真正銘の終り迎える方向へと進んで行きます・・・と言いたいところですが、いえいえ、まだまだ、朝廷の下で議会を組織すいるという幕府の生き残り体制を構築するチャンスはあったのです。

ところが・・・、結果的に鳥羽伏見の戦い=戊辰戦争へと続く事になってしまう一大事が起こるのは12月25日の事でした。

続きは、もちろん、12月25日のページでどうぞ>>
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2006年12月 8日 (金)

真珠湾攻撃

 

昭和十六年(1941年)12月8日、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が勃発しました。

・・・・・・・・・・

当時、ヨーロッパの大戦ではイギリスドイツに追い詰められ、チャーチル「何とか、この戦争にアメリカを参加させたい。」と思い、アメリカを参戦させるためには、「日本と戦わせるしかない」と考え、アメリカ中国オランダとともに日本に対して経済封鎖をします。

石油などの有力物資を絶たれ、中国との戦争の終結も見えず、外交もまずくなる日本。

そんな日本に、この年の11月27日、アメリカから“ハル・ノート”が突きつけられます。

“ハル”とは、当時のアメリカ国務長官の名前です。

そこには“日独伊三国同盟の破棄”、“日本の中国大陸からの撤兵”、“蒋介石政権の中華民国以外を認めない(当時日本は汪兆銘政権を支持)などの日本にとっては厳しい条件が含まれていました。

アメリカにとっては、1通の提案書だったのかも知れませんが、日本側から見れば、この“ハル・ノート”は、最後通告でした。

それまで、「何とか交渉の場で・・・」と考えていた人たちも「戦争するしかない」と思うようになります。

時の政府はこの戦争の名前を“大東亜戦争”とする事を決定しました。

当時の海戦の主流は戦艦同士の一騎打ち・・・航空母艦は補佐的な役割を果たす兵器でした。

日本は、その空母に空前規模の機動部隊を編成し、アメリカ軍の警戒網をくぐり抜け、燃料補給を続けながら太平洋を渡る・・・という、一か八かの賭けに出ます。

そして、運命の昭和十六年(1941年)12月8日の日本時間午前1時・・・荒れ模様のハワイ近くの洋上に集結した六隻の空母の中の旗艦・赤城のマストに、出撃を意味する“Z旗”がひるがえります。

やがて、前代未聞の大作戦に選ばれた若き精鋭たちは、合計・413機の戦闘機に乗り、一斉に発進していきました。

しばらく飛んだ後、攻撃隊を率いる淵田中佐は、“全軍突撃”を意味する『ト』連送を発し、各戦闘機は攻撃位置へと散らばります。

しかし、この時になっても敵機は一機も現れず、対空砲火もなく、ホノルルはごく普通の日常の光景でした。

「いける!」と、勝利を確信した淵田は、まだ一撃も攻撃していないにもかかわらず『トラ』連送を発します。

「トラ・トラ・トラ(我、奇襲に成功せり)」
数分後、真珠湾は炎に包まれました。

それからしばらくした頃、ワシントンにあるアメリカ国務長官・ハルの部屋から、神妙な面持ちで退室する二人の日本人・・・駐米大使の野村来栖(くるす)の二人でした。

前日受信した日本からの“最後通告書”・・・解読と翻訳に手間取り、指定された時間より遅れた物を、慌てて届けに来たものの、ハル長官は「これ程、恥知らずな文書を見たことがない!」と激怒。

なぜなら、彼らが届けに来た時には、もう攻撃がとっくに始まっていたからです。

もちろん二人は、攻撃開始を知らずに届けに来たのですが・・・。

ただ、この時の“最後通告書”は、アメリカ本土でも受信し、攻撃の2時間前には解読され、ルーズベルト大統領日本の“宣戦布告”を知っていた・・・とも言われていますが、なぜか何の警戒措置もとりませんでした。

宣戦布告しても、すぐに攻撃はしてこないだろうと思ったのか?
攻撃するにしてもアメリカ国内ではないだろうと思ったのか?
それとも・・・

結局、この攻撃によってアメリカ海軍は主力戦艦をことごとく失う事になるのですが、その代わり、戦争に反対していたアメリカ国民の世論が「リメンバー・パールハーバー」のもと、一致団結して参戦へと加速させる結果となったのです。

アメリカの参戦は、イギリスをはじめとする連合国にも大きく影響する事となります。
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2006年12月 7日 (木)

平安貴族の住宅事情

 

天徳三年(959年)12月7日、紫宸殿の前庭に“右近の橘”が植えられました。

・・・・・・・・

なので、今日は平安貴族の邸宅についてお話したいと思います。

平安時代の貴族の邸宅は“寝殿造り”と呼ばれる物で、塀で囲まれた敷地の中のほぼ中央に“寝殿”という母屋が建っています。

Heianzingu
平安時代の紫宸殿を模した平安神宮

その母屋を中心に“渡殿(わたりどの)と呼ばれる屋根付きの渡り廊下が左右にのび、それぞれ“泉殿(いずみどの)“釣殿(つりどの)という建物につながっていて、(南側)には大きな池があり“泉殿”と“釣殿”は、ほぼ池の上に建っています。

池からは、川が流れていて、この川も建物の下を流れていきます。

Sindendukuri3_1

“寝殿”の正面に、向かって左に植えられているのが“右近の橘”・・・右に植えられているのが“左近の桜”です。

一瞬「反対やん!」と思われるかも知れませんが、この呼び名はあくまで、家の中にいる住人目線の呼び名なので左が“右近の橘”になります。

桓武天皇の頃には、桜ではなく梅が植えられていたそうで、「その梅が枯れたので桜に植え替えた」という記録が残っていますから、木の種類には、あまり意味が無いのではないかと思いますが、右近・左近という呼び方については、朝になると“寝殿”の前庭に、この二つの木を目印に、左右に近衛兵がズラリ並ぶところから右近・左近と呼ばれるようになったという事です。

いくつかの建物が接続してつくられていた邸宅ですが、中に壁という物はありません。
ようするに、ワンルームです。

Simden 平安時代の寝殿造を再現した鞍馬寺の寝殿

そこに(すだれ)壁代(かべしろ)というカーテンのような物をつけて部屋としました。

さらに、孤独を味わいたければ、几帳(きちょう・アノつい立に布がかかってるようなヤツです)で仕切り、プライベートルームの出来上がり。

床はすべて板張りで、自分の居る部分にだけ畳を敷きました。

暑い夏は、泉殿あたりで、うえに羽織ってる唐衣を脱いで、一番下に着ている単の着物と袴だけになって涼をとりました(壁がない吹きっさらしなので、けっこう涼しいかも)

寒い冬は、床に造りつけの“炭櫃(すびつ)と呼ばれる囲炉裏のような物や、“火桶”という火鉢のような物で暖をとりました(こっちはけっこう寒いゾ~、だから12枚も唐衣をはおっていたのか!)

面白いのは、この“寝殿造”にはトイレがない事です。

では、どうしていたのか?

実はこの“寝殿造”のお屋敷の敷地一帯に、縦横無尽に張り巡らされた川がトイレなのです。

はっきり言って、そのために張り巡らされたようなものですが、もちろん、それは男性のみ・・・。

女性は、ちょっと人目につかない所(壁がないのにそんなトコあるのか?)“樋箱(まり箱)と呼ばれるオマルのような携帯トイレにして、その川に捨てたのです。

また、家の外に出る事が多い男性は、竹の筒のような物を常に腰にぶら下げていました。

そうなんです!あの眩しいくらいに光り輝く男前の“源氏の君”もぶら下げていたんです。

トイレというのが、現在のように家の中の「ある場所」に作られるようになるのは、室町時代の書院造の頃からなのです。(11月10日参照>>)
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2006年12月 6日 (水)

水戸黄門様の忌日

 

元禄十三年(1700年)12月6日、水戸黄門で知られる第二代・水戸藩主・徳川光圀さんが、73歳でお亡くなりになりました。

・・・・・・・・・

「ここにおわすお方を、どなたと心得る。」
「恐れ多くも先の副将軍・水戸光圀公にあらせられるゾ!」
「頭が高い!控えおろ~」

時代劇でおなじみのシーンですが・・・そもそも先の副将軍って何?

歴史上、そんな名前の役職がないのは、もう皆さんよくご存知でしょうが、記録として無いにしても、まったくのデタラメではなくベースになる物はあったのです。

まずは、江戸幕府・初代将軍の徳川家康には、男11人、女7人の子供がいました。

この時代の一般常識として、女の子は他家に嫁に出すとして・・・男の子11人。

このうち、長男の信康は自害に追い込まれ(9月15日参照>>)、次男・秀康は養子に出しています(11月21日参照>>)

それで、三男・秀忠が、第二代・将軍になるわけです。

その後、尾張を継いだ四男が早死したので九男・義直が継ぎ、水戸を継いだ五男がこれまた早死で十男・頼宣が継ぎ、その後、広島に行ってそれから紀州に・・・・あぁ・・・ややこしい!

とにかく、最後の最後に残った家康の息子3人が・・・
九男・義直が尾張・62万石
十男・頼宣が紀州・55万石。

十一男・頼房(光圀の父)が水戸・25万石。
となって、御三家という物に落ち着くのです。

ちょっとまった~!頼房さん、損してまっせ~!
おんなじ兄弟やのに、めっちゃ石高低いですやん!

そうです、実は水戸藩は特別扱い。
ただ一つ“定府”と呼ばれる藩だったのです。

“定府”とは、『江戸詰』・・・つまり、参勤交代ナシで常に江戸にいて、将軍の相談役など果たすのです。

なんで、水戸藩だけが“定府”・・・なんて事になったんでしょうか?

それには諸説あって、「水戸が江戸から近く、いざ!と言う時すぐに馳せ参じて将軍を護る事ができる」という地理的なもの。

あるいは、「もともとの所領の少なさに不満が出ないように、“定府”とする事でバランスを取った」など、いずれも確固たる証拠はなく、推測の域を出ない物です。

果たして、“定府”というのは、得だったのか?
損だったのか?

とにかく、水戸藩にとっては、藩庁も両方に置かなければならないし、その分役人も倍いるわけで・・・結果を見る限りでは、あまり得ではなかったようですが、とにかく、この特権というあたりから、副将軍なるイメージが付いたのでしょう。

ただ、「常に江戸に詰めていなければならない」という事は、あまり漫遊の旅もできないって事ですね。(そうか…ご隠居だった( ̄○ ̄;)!)

ところで、この水戸藩を継いだ光圀さんの父・十一男の頼房さん・・・若い頃は散々な不良で、父・秀忠の正室・お江(ごう)さんから「アンタみたいな不良少年を、婿にもらってくれるヤツなんかいないわヨ」と言われ、「じゃぁ、結婚なんかしねぇヨ!」とブチ切れ、一生、正式な結婚をしなかった人なのですが(あくまで噂です)、そのわりに、20歳の時に家臣・谷平右衛門の妹に手をだして、彼女は妊娠してしまいます。

彼女は、当時、側室でも奉公人でもなかったため、公表する事ができず頼房さんは、一言「水にいたせ」・・・つまり、堕胎しろと・・・(自分勝手やなぁ~)

しかし、生まれた男の子の始末を命じられた重臣・三木仁兵衛之次は、京都の公家に嫁いだ自分娘に、その子を預けます。

そんな事になったにも関わらず、頼房さんはまた同じ彼女を妊娠させてしまいます

今度も案の定、「水にいたせ」のキツイお言葉・・・しかし、やはり三木さんは命令を聞かず、自宅に彼女を引き取って出産させます。

Tokugawamitukuni500a その子が、幼名・長丸で後の光圀さんでした。

・・・で、そんな事を言いながらも、結局、頼房さんには、なんだかんだで、しっかり、男・11人、女15人のお子様が生まれちゃいました。

側室たちに、子供が生まれるたんびに「水にいたせ」と言いながら、その命令はいっこうに実行された気配もなく、かと言って頼房さんがとがめる様子もなく、何を考えてんだか・・・って感じです。

そんなにたくさん子供がいたら、のちのち後継者争いになるかと思いきや、よく考えたら正室なしの全員側室の子供。

当時の“武家諸法度”の決まりで、全員側室の子供の場合は、幕府が会議で後継者を決める事になっていたので、モメる事無く・・・で、たくさんの息子たちの中から選ばれたのが光圀さん、そして第二代・水戸藩主となるのです。

しかし、この光圀さんも、父親に負けず劣らずの不良少年で、若い時には、町の不良たちとつるんではエロ話に興じたり、刀を振り回して暴れたりしていましたが、18歳の時に、司馬遷“史記”の中の伯夷伝を読んで大感動!

一発で心境の変化を起こし「人に感動を与えるのは歴史だ~!」『大日本史』の編さんを決意するのです。(10月29日参照>>)

この『大日本史・編さんプロジェクト』のスタッフの中にいた安積覚兵衛澹泊佐々木介三郎宗淳の二人が助さん・格さんのモデルだろうと言われています。

覚兵衛さんは執筆活動を中心に、介三郎さんは史料収集のため諸国歩きの外回り・・・この介三郎さんの行動が、漫遊記の原点になっているようです。
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2006年12月 5日 (火)

バミューダトライアングルの日

 

1945年(昭和二十年)12月5日、大西洋上空でアメリカ空軍機が消息を絶ち、その海域で行方不明事件が多発する事により、その場所を魔の三角地帯“バミューダトライアングル”と呼ぶようになった事を記念(?)して、今日は“バミューダトライアングルの日”だそうです。

・・・・・・・・・

Bmdmapcoco2 “バミューダトライアングル”とは、大西洋のフロリダバミューダプエルトリコ三点を結ぶ三角形の海域です。

1945年12月5日の午後、フロリダ州のフォートローダーデール海軍飛行場から、5機の戦闘機が飛び立ちました。

その日は、雲ひとつない快晴で、天候面における心配は、まったくありませんでした。

ところが、乗員からいきなり「現在地が確認できない」との通信が届きます。

そのうち「燃料が足りない」とか「コンパスが狂った」などと、機内のあわてふためく様子も、管制塔に送られてきます。

結局、その通信を最後に、戦闘機5機は跡形もなく消えてしまったのです。

しかも、救援に向かった機体までもが、消息を絶ってしまいます。

その後、大々的な捜索が行われましたが、機体の残骸・燃料の流出など、普通の墜落現場に見られる浮遊物はいっさい見られなかったのです。

その海域ではそれから後も、100以上の飛行機、そして船までもがこつ然と姿を消す・・・という現象が起こります。

いつしかこの地域は“バミューダトライアングル”と呼ばれ「UFOに誘拐された」とか「四次元に迷い込んだ」とか、様々な噂が立ち、魔の海域と恐れられるのです。

原因として、今最も有力視されているのは“マイクロバースト”と呼ばれるこの地方特有の自然現象。

それは、冷気の固まりが海面や地表に落下して、破裂するように強風を巻き起こすのだそうです。

ただし、この現象はかなり低空で起こるらしく、小型の民間機や船などは、影響される可能性も考えられますが、もっと上空を飛ぶ大型機に関しては依然、説明がつかないのが現状です。

結局、この日、行方不明になった戦闘機は、1991年にその残骸とおぼしき物が半径2㎞にわたって散らばっているのが発見されましたが、現在位置や方角がわからなくなったり、コンパスが狂ったりした事の原因は未だに解明されていません。

しかし、この“バミューダトライアングル”の話は、明快な原因がわからないにしても、未知な自然現象や海流によって、たまたま事故が起こりやすい地域なのだ・・・と、納得できるのですが、世の中にはもっと不思議な事があるもので、この逆パターンが存在する!というので、ビックリ仰天です。

それは、1989年10月12日の事・・・

ブラジルポルトアレグレ空港の上空に突然現れたロッキード型旅客機が、管制塔の許可を無視して勝手に滑走路に着陸したのだそうです。

機内に入ってみると、乗員乗客92名が全員、なんと!白骨死体で発見されます。

そして、フライト・レコーダーの記録を調べてみると、その飛行機は何と35年前の1954年9月4日に、旧西ドイツのアーヘン空港から飛び立ち、このポルトアレグレ空港に向かっていた飛行機で、途中大西洋上空で消息を絶ったサンチアゴ航空・513便だった・・・というのです。

にわかには信じがたい話ですが、すでに17年前・・・

不思議大好き少女だった私としては、絶対食いついてる話なんですが・・・日本ではニュースにならなかったのか、私が知らないだけなのか・・・この話は最近知りました。

航空機に関して素人なもんでよくわからないのですが、「パイロットは着陸時に一番神経を使う」とか「着陸だけは手動で・・・」なんていう話を小耳に挟んだ事があるのですが、それでも飛行機というのは、パイロットが亡くなっていたら、自動運転か何かでちゃんと予定通り着陸するもんなんですかね?

それにしてもこの話は、まさに“戦国自衛隊”の世界じゃないですか!

不思議大好き少女+歴史大好き少女(だから少女やない!って)の私にとって、戦国自衛隊は、もう、その設定だけで満足するくらいのシロモノです。

夢のコラボですから・・・。

最初の映画も、もちろん見に行きましたが、最近も、ドラマや映画でリメイクされてましたね。

上杉謙信→織田信長→関ヶ原と来たら、もう残るは、大坂の陣しかないでしょう。

是非とも、慶長十九年(1614年)の真田幸村に出会って、真田十勇士は自衛隊員なんて事になりませんかね。

少なからず期待している私です。

追記:・・・と思ってネットを調べたら・・・あるじゃないですか!
私は、まだ読んでないのでくわしい内容はしりませんが、思った通りの大坂の陣でした(笑)
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2006年12月 4日 (月)

大坂冬の陣~真田丸の攻防

 

慶長十九年(1614年)12月4日は、最初の衝突の時から、おおむね豊臣方が不利の色濃い大坂冬の陣の中で、唯一豊臣方が徳川方に圧勝した真田丸の攻防のあった日です。
真田丸については、10月10日真田幸村必勝作戦参照>>

・・・・・・・・

大坂冬の陣での11月19日に起こった最初の衝突で、豊臣方は穢多崎(えたがさき)を奪われ、その後も26日には今福・鴫野の合戦(11月26日参照>>)

29日には博労淵(ばくろうふち)野田・福島でも砦を奪われてしまいました。11月29日野田・福島の合戦参照>>)

徳川家康は、これらの大坂城周辺の局地戦での勝利を見て、そろそろ包囲網をせばめていこうと考えます。

そして12月に入って間もなく、今までいた住吉の本陣から茶臼山(ちゃうすやま・現在の天王寺公園内)(4月14日参照>>)自分の本陣を移します。

Sanadamaru2
真田丸想像図(あくまで私の想像です)

そして慶長十九年(1614年)12月4日の早朝・・・その戦いは起こります。

彦根の井伊直政の家臣である宇津木泰繁(うつきやすしげ)が、後に家老に提出した戦功報告書によると・・・

ここ何日か両軍がにらみ合う真田丸の堀のそばで、泰繁は前日から夜番をしていましたが、4日の朝になったので、交代のために陣屋に戻り、配下の足軽を帰したところ、いきなり戦闘が始まったので、急いで足軽5人を引き連れて戦場に赴いた・・・と書いています。

この日、起こった攻撃が奇襲だった事を教えてくれる貴重な話ですね。

この奇襲作戦を決行したのは、前田利常の軍と松平忠直の軍でした。

前田軍と松平軍は、まだ暗いうちに真田丸の堀のそばまでひそかに近づき、いきなり勝鬨(かちどき)をあげて攻めかかります。

しかし、そこに立ちはだかるのは、大坂方の真田幸村(信繁)が構築した真田丸・・・「難攻不落の大坂城を攻めるとしたら、おそらく南からに違いない」と、城郭の南東方向に構築した出丸(10月10日参照>>)、その横に多くの弓を用意し、敵が堀にとりかかったところで、一斉に横弓を射かけたのです。

ちょうどその時、真田丸の後方で、ひとりの兵が誤って火薬の入った桶に火縄を落としてしまい、大爆発が起こったのです。

その大爆発を、大坂城に送り込んだスパイの合図だと勘違いした前田+松平軍の兵士は「すわっ!総攻撃だ!」一斉に真田丸めがけて突進してきます。

まっすぐ前に突進してくる兵士は、横から矢を射る者の格好の標的になってしまいます。

次から次へと真田丸の堀に押し寄せる兵士たち。

矢に射かけられ、その場で倒れた兵士の上を続く兵士が進み、また矢を射かけられる。

やがてその兵士が、上に上にと重なり、堀はまるで平地のようになったと言います。

次に来る兵士は、その死体の上を行くのですから、当然足場は悪く、徳川方からは鉄砲も矢も撃てない状況だったようです。

名のある馬上の武者たちも、あまりの出来事にどうして良いかわからず途方にくれる・・・といった光景も見られ、この様子を目の当たりにした家康は、怒りに震え、攻撃中止の命令を下します。

この戦いで討ち死にした兵は前田利常の兵・300騎、松平忠直の兵480騎、その他の雑兵にいたっては、数も知れない状況です。

先ほどの戦功報告書を書いた宇津木泰繁が仕えていた井伊家でも、35人が討死、91人がケガを負うという、これも大損害をこうむっています。

当時、この戦いは“真田が出城の合戦”と呼ばれ、近畿圏内の小さなお子様たちまでが口にするほどの大ニュースとして広まり、冬の陣の徳川方の死者総数の五分の四がこの日の戦いで亡くなったと噂されました。
(2015年12月4日の【真田丸の攻防~真田幸村と松平直政】もどうぞ>>)

家康と秀忠にとっては、関ヶ原の合戦の時の上田城の悪夢(9月7日参照>>)がよぎったに違いありません。

あの時、何倍もの数の兵で、真田昌幸・幸村親子が護る信州・上田城を攻めた徳川秀忠は、手痛い敗戦をこうむり、肝心の関ヶ原の合戦に参加できない・・・という失態を起こしていました(9月7日参照>>)

うまく行けば、この機会に大坂城を攻め落とすつもりでいた家康は、この真田丸の攻防で少なからず考えを変えたのではないか?とも思います。

この先、大坂冬の陣は“和議”を結ぶ方向へと向かっていくのですが・・・そのお話は、和睦が成立する12月19日にへどうぞ→

Dscn1465 ←真田丸の跡とされる三光神社にある幸村像と真田の抜け穴…ですが、実は、、、2012年12月17日の【真田丸はどこにあった?】もどうぞ>>

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くわしい場所・地図をHP紹介しています。HPへはコチラからどうぞ→

「大坂の陣」関連のイロイロについては、『大坂の陣の年表』>>からまとめてどうぞ!
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2006年12月 3日 (日)

天智天皇の死,政変の予感

 

671年12月3日、あの大化の改新の中心人物である第38代・天智天皇が亡くなりました。

・・・・・・・・・

天智天皇は、藤原鎌足とともに、“乙巳(いっし)の変(6月12日参照>>)と呼ばれる蘇我入鹿・暗殺を決行した後に、一連の大化の改新を行った人で、その後即位した孝徳天皇斉明天皇の時代も、常に政治の実権を握りながら皇太子の座にとどまり、斉明天皇の没後、ようやく天皇になりました。

そんな天智にとって、二年前の鎌足の死はそうとうなショックのようでした。

大化の改新以来、常に右腕として活躍してくれた重臣ですから無理もありません。

改新直後には、手を組んで一緒に仲良く政治を行っていた弟・大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)とは、天智が即位し都を近江に遷した頃(3月19日参照>>)から、何やらギクシャクした関係になっていたのです。

Tenzitennou400 兄・天智という大きな存在の影で、自分の政治手腕を思う存分発揮できない才能溢れる弟・大海人皇子は、以前、琵琶湖畔で行われた宴会の席で、日頃の不満が爆発し、槍を床に突き立てて暴れた事がありました。

怒った天智が大海人に手をかけようとした時、それを止めに入ったのは、他ならぬ鎌足・・・。

そんな風に、兄弟の潤滑油的な役割も、鎌足は荷っていましたから、その死以来、宮廷内に不穏な空気が流れていたのも確かなのでした。

天智は自分の三人の娘を大海人の妃へ送っていますし、逆に大海人と額田王(ぬかたのおおきみ)の間に生まれた十市皇女(とうちのひめみこ)を、息子・大友皇子の妃に迎えてもいました。

その上、自分の後継者として大海人を皇太子にも任命していました。

しかし、一度できがった兄弟の溝は、徐々に深まっていくばかりでした。

671年になって、近江令を完成させ、近江朝=天智帝の基盤を造り上げ、国内の秩序が保たれているとは言え、鎌足を失った天智の権勢は少し下り坂になりつつあったのです。

その年の秋頃から、天智天皇は病気がちになってしまいます。

日増しに衰弱していく天皇は、いよいよ床にふせるようになり、自らの命がそう長くない事を感じるのです。

そして天智天皇は、病室に大海人皇子を呼んで、皇太子である弟に「後の事は頼む」と告げるのです。

しかし、大海人の答えは「NO!」でした。

兄弟の溝が深まるにつれ、たくましく成長する兄・天智の息子・大友皇子・・・いつしか、「自分の後継者には大友を・・・」と、思うようになっていた天智天皇の心の内を大海人皇子はしっかり見抜いていたのです。

いや、むしろ朝廷内でも、大友派と大海人派に二分され、二人の後継者の対立は表面化していました。

大海人皇子は、次期・天皇の座を断り、皇太子に大友皇子を推薦し「仏道修行する」と言って、その場で髪をそり、都を離れ吉野山に入ったのです。

それは以前、あの大化の改新の後に吉野に入った天智の兄・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を思い起こさせる光景でした。

その時は、それまで入鹿に後押しされていた古人大兄皇子が、蘇我氏・滅亡となり危険を感じて吉野に入ったものですが、その後すぐに天智天皇(当時は中大兄皇子)に謀反の罪を着せられ処刑されてしまいました。

しかし、今回の天智天皇には、もうそんな気力は感じられません。

人々は「寅に翼をつけて放すようなものだ」と噂します。

24歳の若き大友皇子に、酸いも甘いも噛み分けた41歳の大海人皇子・・・多くの人には、この先の結果がすでに見えていたのかも知れません。

案の定、半年後の6月に、皇位継承を争う古代最大の内乱“壬申の乱”(6月24日参照>>)が勃発する事になるのですが・・・まだ、その事を知らない天智天皇は、自分を看取る我が子・大友の将来を案じながら671年、12月3日に、46歳の波乱の人生を閉じました。

♪かからむと かねて知りせば 大御船(おおみふね)
 
(は)てし泊(とま)りに 標結(しめゆ)はましを♪ 額田王
(こうなる事を知っていたなら、天皇の船が泊まる港にしめ縄をはり、死霊が入らないようにするのに・・・)
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2006年12月 2日 (土)

細川忠興の意外な才能

 

正保二年(1645年)12月2日、戦国武将・細川忠興が83歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

細川忠興(ただおき)さんと言えば、あの細川ガラシャ(お玉)さんの旦那さん。

ドラマでは、何かと奥さんが注目を浴びてしまい、今年の大河ドラマでも、ハセキョーさんのガラシャばかりがピックアップされて、見てる側には、も一つ忠興さんのキャラがつかめないままだったような気もしないではありません。

あの本能寺の変(6月2日参照>>)が起きたときは、父・幽斎(藤孝)とともに、ガラシャ=お玉さんの父親・明智光秀に付く事をやめ、奥さんを幽閉してまで、光秀との関係を断ち切る姿勢を見せました。

ただし、お玉さんの父親の味方はしなくても、お玉さんは大好きな忠興・・・

主君・織田信長を討った謀反人の光秀の娘であるお玉さんが、この時、殺されなかったのは、ひとえにこの忠興さんの「お玉大好き!死んだらイヤよ」の気持ちが強かったからこそですからね。

その後、豊臣秀吉に仕えた後、関ヶ原(9月15日参照>>)では徳川家康べったりの姿勢を見せ、ともに石田三成を誘い出すための作戦とおぼしき上杉征伐(4月1日参照>>)にも参加しています。

そのため三成側の人質になる事を拒み、お玉さんが死を選ぶ(7月17日参照>>)・・・という悲劇も起こりますが・・・。

Hosokawatadaoki450as そんな忠興さんの、意外な才能・・・それはデザイナーです。

江戸時代のトイレは『半戸』という、しゃがんだ状態でも顔が見えるくらいの小さな戸しか付いていませんでした。

私が小さい頃でも、まだ田舎のほうの古いお家に行くと、あの西部劇の酒場の扉のようなのが付いていたのをうっすらと覚えています。

これは、公共の場での長トイレをさせないための工夫だそうで、この扉を考えたのが忠興さんなのです。

これは、インテリアデザイナー?・・・あるいは、建築デザインの分野でしょうか?

さらに、大好きなお玉さんの着物の柄もデザインしていたとか・・・(これは嫁としては、ちょっと、うっとーしいゾ)

もちろん、自分が身に着ける甲冑や陣羽織、太刀なんかもデザインしていたと言いますから、もうこれは服飾デザイナーの域を越えていますね~。

有名な細川家の『九曜の紋』も、信長の刀の柄の部分からヒントを得て自分で考えたそうで、ロゴマークまで手がけるか~?と言った感じですね。

中でも、そんなアーティスト・TADAOKI最大のヒット商品『ふんどし』です。

それまでのふんどしは、いわゆる『六尺ふんどし』でその名の通り六尺(2m弱)もある長い布切れ。

いちいちぐるぐる巻いて脱ぎ着も大変なうえ、けっこうかさばるのです。

そこで、忠興さんは、女性に月に一度訪れる女の子の日に使用する下着を参考にしてひもに布をたらした感じの簡単なふんどしを考案したのです・・・て、君は、その月に1度の女の子のそれをどこで見たんや?ww

忠興さんは、細川越中守忠興(ほそかわえっちゅうのかみただおき)ですから、このふんどしは『越中ふんどし』と呼ばれ、長く人々に愛用される事になります。

今またブームのようで、先日のニュースで、あるデパートの下着売り場に『クラシック・パンツ』コーナー新設なる話題もやってましたから、忠興さん、特許出願と商標登録やっとけば、ウハウハでしたね。

信長・秀吉・家康と、うまく乗り換えて・・・当時83歳といえば、かなり天寿をまっとうしてらっしゃいます。

血で血を洗う戦国の世には、珍しいくらいです。

良い意味での要領のよさ、先見の明は、そんなアイデアマンの忠興さんならではの成せるワザですね。
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2006年12月 1日 (金)

映画の日に映画の歴史

 

12月1日は映画の日だそうです。

明治二十九年(1896年)11月25日神戸神港クラブで、エジソンキネトスコープの公開が開始されました。

これを、日本での映画の誕生として、昭和31年(1951年)に、公開期間中のキリの良い日・12月1日が映画の日に制定されたのです。

て事で、本日は映画の歴史を・・・

・・・・・・・・・

1888年アメリカの発明王エジソンが、小さな穴から動く写真を見る機械キネトスコープを発明。

1895年には、フランスリュミエール兄弟シネマトグラフという映写機でスクリーンに映し出し、パリで初公開します。

Eoga・・・で、その翌年に、日本でキネトスコープが公開されたわけです。

そのまた翌年・明治三十年(1897年)には、大阪でシネマトグラフが公開されます。
思ったより早いですね。

1898年には、フィルムに手描きで彩色するという原始的なカラー映画も誕生しました。

やがて、1910年代になると、現像の時の薬品処理などで、セピア色に仕上げたり、青い液に浸して夜のシーンを作ったりする技術なども生まれ映画は飛躍的に発展します。

1911年には、イギリスで音付きの映画=トーキーが考案され、1912年には、フランスでカラー映画が開発されます。

このころからアメリカでは、雨が少ないという理由でハリウッドの近くで数々の映画が作られるようになり、徐々にハリウッドが映画の都となっていくのです。

1918年テクニカラー社が赤と緑に分解する2色分解技術のカラー方式の技術を完成させます。

そして、1927年には、部分的に音の付いた『ジャズ・シンガー』という映画が大ヒットし、映画は、音付きの時代へと突入するのです。

色のほうは、1933年に、やはり、テクニカラー社が新たに3色分解方式を完成させ、本格的なカラー映画が上映されるようになります。

日本では、イギリスのトーキーに先駆けること9年、明治三十五年(1902年)に、東京の明治座で『発声活動大写真』と銘打って、大々的に公開されましたが、これは映像とは別に口上だけをレコードに吹き込んで流した物。

大正三年(1914年)には日本キネトフォン会社が創立され、新方式で数本の映画が製作されますが、旧式の蓄音機と映像が合わず失敗・・・。

その後も、様々な方式が試されながらも、なかなかうまくいきませんでしたが、昭和六年(1931年)、松竹日本最初のトーキー映画『マダムと女房』が制作され、日本も本格的なトーキーの時代となりました。

しかし、この昭和六年は、あの満州事変のおこった年・・・戦争の色が濃くなる中、日本の本格的なカラー映画時代は、第二次世界大戦後に持ち越される事になります。

そんな頃、海の向こうでは1939年に映画史上に燦然と輝く『風とともに去りぬ』が公開されます。

やがて、戦争も終わり、昭和26年(1951年)黒澤明監督『羅生門』ベネチア国際映画祭でグランプリを受賞するという快挙をなしとげます。

黒澤監督は、この映画の中で、今では当たり前となっている(現在は鏡ではありませんが)を使って太陽光を反射させる手法を、世界で初めて使用し、ほの暗い画面の中に、役者の表情を美しく浮かび上がらせました。

その後、1953年には、1台の映写機で大型映画が可能なシネマスコープが開発されました。

そして、1975年、あの『ジョーズ』がアメリカ映画史上最高の大ヒットを飛ばし、1977年には『スターウォーズ』がその『ジョーズ』の記録を抜き1982年には『E.T.』がその『スターウォーズ』の記録を抜く・・・という、もう皆さんご存知の時代となります。

今や映画はCGの時代となり、以前は映像にできなかった物ができるようにもなり、もはや創れないシーンは無いんじゃないかと思うくらいですね。

いやぁ~、映画の発展って、ホントにスゴイですね!サヨナラ、サヨナラ…o(*^▽^*)o
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