平安貴族の住宅事情
天徳三年(959年)12月7日、紫宸殿の前庭に“右近の橘”が植えられました。
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なので、今日は平安貴族の邸宅についてお話したいと思います。
平安時代の貴族の邸宅は“寝殿造り”と呼ばれる物で、塀で囲まれた敷地の中のほぼ中央に“寝殿”という母屋が建っています。
平安時代の紫宸殿を模した平安神宮
その母屋を中心に“渡殿(わたりどの)”と呼ばれる屋根付きの渡り廊下が左右にのび、それぞれ“泉殿(いずみどの)”と“釣殿(つりどの)”という建物につながっていて、前(南側)には大きな池があり“泉殿”と“釣殿”は、ほぼ池の上に建っています。
池からは、川が流れていて、この川も建物の下を流れていきます。
“寝殿”の正面に、向かって左に植えられているのが“右近の橘”・・・右に植えられているのが“左近の桜”です。
一瞬「反対やん!」と思われるかも知れませんが、この呼び名はあくまで、家の中にいる住人目線の呼び名なので左が“右近の橘”になります。
桓武天皇の頃には、桜ではなく梅が植えられていたそうで、「その梅が枯れたので桜に植え替えた」という記録が残っていますから、木の種類には、あまり意味が無いのではないかと思いますが、右近・左近という呼び方については、朝になると“寝殿”の前庭に、この二つの木を目印に、左右に近衛兵がズラリ並ぶところから右近・左近と呼ばれるようになったという事です。
いくつかの建物が接続してつくられていた邸宅ですが、中に壁という物はありません。
ようするに、ワンルームです。
平安時代の寝殿造を再現した鞍馬寺の寝殿
そこに簾(すだれ)や壁代(かべしろ)というカーテンのような物をつけて部屋としました。
さらに、孤独を味わいたければ、几帳(きちょう・アノつい立に布がかかってるようなヤツです)で仕切り、プライベートルームの出来上がり。
床はすべて板張りで、自分の居る部分にだけ畳を敷きました。
暑い夏は、泉殿あたりで、うえに羽織ってる唐衣を脱いで、一番下に着ている単の着物と袴だけになって涼をとりました。(壁がない吹きっさらしなので、けっこう涼しいかも)
寒い冬は、床に造りつけの“炭櫃(すびつ)”と呼ばれる囲炉裏のような物や、“火桶”という火鉢のような物で暖をとりました。(こっちはけっこう寒いゾ~、だから12枚も唐衣をはおっていたのか!)
面白いのは、この“寝殿造”にはトイレがない事です。
では、どうしていたのか?
実はこの“寝殿造”のお屋敷の敷地一帯に、縦横無尽に張り巡らされた川がトイレなのです。
はっきり言って、そのために張り巡らされたようなものですが、もちろん、それは男性のみ・・・。
女性は、ちょっと人目につかない所(壁がないのにそんなトコあるのか?)で、“樋箱(まり箱)”と呼ばれるオマルのような携帯トイレにして、その川に捨てたのです。
また、家の外に出る事が多い男性は、竹の筒のような物を常に腰にぶら下げていました。
そうなんです!あの眩しいくらいに光り輝く男前の“源氏の君”もぶら下げていたんです。
トイレというのが、現在のように家の中の「ある場所」に作られるようになるのは、室町時代の書院造の頃からなのです。(11月10日参照>>)
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コメント
すみません!コメントを残させていただくのは、だいぶ久しぶりのぴのでございます。
なんと!トイレが家にないとは!邸宅は豪華なのに、ちょっと不便ですね~。
でも、優雅で豪華で…憧れの物件です。不便なトコロを改善して寝殿造りの家に住んでみたいです!いったい費用はいくらになるのだろう…。
投稿: ぴの | 2006年12月 8日 (金) 03時06分
ぴのさん、お久しぶりで~す。
そうですね、私も住んでみたいですね~。
あの広い庭は魅力的です。
トイレも考えようによっちゃ、致したい時にすぐできる・・・というのは楽かも?ある意味水洗ですしね(笑)。
ただ、“曲水の宴”の最中はどうなるんだろう?ってアホな事を考えてしまいます。
投稿: 茶々 | 2006年12月 8日 (金) 08時46分
茶々さん、こんばんは!
すみません、毎日拝読していたつもりがこの記事は未見だったようです~(汗)。
寝殿造りの概容がやっと理解できました(大汗)。
ホント、当時は真冬の寒さがこたえたでしょうね~。現代人が暖房に慣れてしまって弱くなっているのかも知れませんが(笑)。
平安の頃は特に勉強不足な私ですので、今後も恥をしのんで初歩的な質問をどんどんと(笑)するかも知れませんが、どうぞあきれずに宜しくお願い致します♪
投稿: ルーシー | 2007年1月26日 (金) 21時33分
ルーシーさん、こんにちは~。
いつもコメントしていただいて、とてもウレシイです。
私も、ちゃんと歴史を勉強したわけではないので、ウロ覚えのツギハギだらけの知識ですが、ブログに書く以上、それではイケナイ・・・と思って、日々勉強です・・・。
京都の寒さはきびしいので、平安の人たちは強かったんでしょうね。
やはり、現代人は暖房なれしてしまってるんでしょうか・・・。
投稿: 茶々 | 2007年1月27日 (土) 15時17分