信玄,ラストチャンスに賭ける
永禄十一年(1568年)12月12日、“風林火山”で知られる甲斐の武田信玄が、駿河の今川氏真を攻めました。
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武田信玄と上杉謙信の川中島の合戦が、合計5回あって、一番有名な例の“鞭声粛々”が4回目だった事は以前お話しましたが(9月10日参照>>)、その3回目と4回目の間に、小田原まで攻め込んだ謙信は、行動をともにしていた上杉憲政から“関東管領”という厄介な役職を譲り受けていました。
なぜ、厄介かと言いますと、この“関東管領職”・・・現状では名ばかりで、当時、関東に一番影響力があったのは北条氏康で、彼をなんとかしないかぎり、本当の管領とは言えない状況だったのです。
この関東を何とかするために、謙信は信玄との戦いの合間に、度々関東に出陣していますが、思うようにはいきません。
逆に、ジワリジワリと来る北条方の切り崩し作戦で、上杉から北条に寝返る者も出てくる始末です。
それにもまして、今度は信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に嫁ぎ、武田と北条が同盟を結ぶ・・・という事になってしまいます。
こうなったら信玄も、北条と一緒になって謙信が何とか今まで平定した関東の地に攻め入ってきます。
そして、ついに、永禄九年(1566年・最後の川中島の戦いの2年後)、信玄は上野の箕輪城を総攻撃・・・謙信の上野の重臣・長野氏が滅ぼされ、上野の西半分は信玄の手に落ちました。
謙信は東半分を守るので精一杯。
ただ、この間でも謙信は越中方面へ軍を進め、こちらでは少し領地を増やしています。
やがて、永禄十一年。
この年の9月に、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしました。(9月7日参照>>)
信玄は少し焦ります・・・っと思いますww
この時、信長はまだ36歳。
自分は49歳、ライバルの謙信は40歳です。
「人間五十年・・・」の時代ですから・・・自分だって天下を狙う武将ですから・・・。
もはや、なりふりかまっていられません。
「早く領地を拡大し、京への道筋をたて、自分も上洛をはたさねば!」
並み居る戦国武将の中で、自分が一番年上かも知れない・・・それが、そんな気持ちにさせた事は確かでしょう。
かくして永禄十一年(1568年)12月12日、三河の徳川家康と手を組み、今まで同盟関係だった駿河の今川氏真(うじざね)を攻めたのです。
氏真は、先ほどの北条氏康とも同盟を結んでいましたから、結局、信玄は同盟を結んでいた北条とも戦います。
氏真への出兵に反対していた長男・義信を切腹させてまで(10月19日参照>>)手に入れた駿河一国(12月6日参照>>)。
しかし、もちろん、これで治まるワケがありません。
そう、上洛するなら、次の通り道は家康の三河です。
ついに、元亀三年(1572年)10月、信玄は大軍を率いて上洛のラストチャンスに賭けるのです。
この続きは、10月3日【武田信玄・上洛】へどうぞ>>
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コメント
こんばんは!過去のブログに繋がっていきますねぇ~(^^)
9月10日のブログは僕が初コメントの時でした。武田信玄は年齢の事を考えて焦っていたのでしょうか。北条側も微妙な感じですよね。同盟を結んでいて戦うことになってるし。
大阪城の堀には白鳥いますか?駿府城跡の堀には白鳥がいるんです(^_^;)
投稿: 見習い大工 | 2006年12月12日 (火) 23時04分
見習い大工さんこんばんは~。
そうですね~。
戦国時代は、政略結婚の嵐で人間同士も繋がってますからね~。
これから信玄が一戦交える家康を、最後まで困らせる真田はこの武田の残党ですしね~。
大阪城の堀に白鳥は・・・昔いましたね~今もいるのかな?最近見てないなぁ・・・かもめはよく見ます。
投稿: 茶々 | 2006年12月13日 (水) 00時25分