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2006年12月 6日 (水)

水戸黄門様の忌日

 

元禄十三年(1700年)12月6日、水戸黄門で知られる第二代・水戸藩主・徳川光圀さんが、73歳でお亡くなりになりました。

・・・・・・・・・

「ここにおわすお方を、どなたと心得る。」
「恐れ多くも先の副将軍・水戸光圀公にあらせられるゾ!」
「頭が高い!控えおろ~」

時代劇でおなじみのシーンですが・・・そもそも先の副将軍って何?

歴史上、そんな名前の役職がないのは、もう皆さんよくご存知でしょうが、記録として無いにしても、まったくのデタラメではなくベースになる物はあったのです。

まずは、江戸幕府・初代将軍の徳川家康には、男11人、女7人の子供がいました。

この時代の一般常識として、女の子は他家に嫁に出すとして・・・男の子11人。

このうち、長男の信康は自害に追い込まれ(9月15日参照>>)、次男・秀康は養子に出しています(11月21日参照>>)

それで、三男・秀忠が、第二代・将軍になるわけです。

その後、尾張を継いだ四男が早死したので九男・義直が継ぎ、水戸を継いだ五男がこれまた早死で十男・頼宣が継ぎ、その後、広島に行ってそれから紀州に・・・・あぁ・・・ややこしい!

とにかく、最後の最後に残った家康の息子3人が・・・
九男・義直が尾張・62万石
十男・頼宣が紀州・55万石。

十一男・頼房(光圀の父)が水戸・25万石。
となって、御三家という物に落ち着くのです。

ちょっとまった~!頼房さん、損してまっせ~!
おんなじ兄弟やのに、めっちゃ石高低いですやん!

そうです、実は水戸藩は特別扱い。
ただ一つ“定府”と呼ばれる藩だったのです。

“定府”とは、『江戸詰』・・・つまり、参勤交代ナシで常に江戸にいて、将軍の相談役など果たすのです。

なんで、水戸藩だけが“定府”・・・なんて事になったんでしょうか?

それには諸説あって、「水戸が江戸から近く、いざ!と言う時すぐに馳せ参じて将軍を護る事ができる」という地理的なもの。

あるいは、「もともとの所領の少なさに不満が出ないように、“定府”とする事でバランスを取った」など、いずれも確固たる証拠はなく、推測の域を出ない物です。

果たして、“定府”というのは、得だったのか?
損だったのか?

とにかく、水戸藩にとっては、藩庁も両方に置かなければならないし、その分役人も倍いるわけで・・・結果を見る限りでは、あまり得ではなかったようですが、とにかく、この特権というあたりから、副将軍なるイメージが付いたのでしょう。

ただ、「常に江戸に詰めていなければならない」という事は、あまり漫遊の旅もできないって事ですね。(そうか…ご隠居だった( ̄○ ̄;)!)

ところで、この水戸藩を継いだ光圀さんの父・十一男の頼房さん・・・若い頃は散々な不良で、父・秀忠の正室・お江(ごう)さんから「アンタみたいな不良少年を、婿にもらってくれるヤツなんかいないわヨ」と言われ、「じゃぁ、結婚なんかしねぇヨ!」とブチ切れ、一生、正式な結婚をしなかった人なのですが(あくまで噂です)、そのわりに、20歳の時に家臣・谷平右衛門の妹に手をだして、彼女は妊娠してしまいます。

彼女は、当時、側室でも奉公人でもなかったため、公表する事ができず頼房さんは、一言「水にいたせ」・・・つまり、堕胎しろと・・・(自分勝手やなぁ~)

しかし、生まれた男の子の始末を命じられた重臣・三木仁兵衛之次は、京都の公家に嫁いだ自分娘に、その子を預けます。

そんな事になったにも関わらず、頼房さんはまた同じ彼女を妊娠させてしまいます

今度も案の定、「水にいたせ」のキツイお言葉・・・しかし、やはり三木さんは命令を聞かず、自宅に彼女を引き取って出産させます。

Tokugawamitukuni500a その子が、幼名・長丸で後の光圀さんでした。

・・・で、そんな事を言いながらも、結局、頼房さんには、なんだかんだで、しっかり、男・11人、女15人のお子様が生まれちゃいました。

側室たちに、子供が生まれるたんびに「水にいたせ」と言いながら、その命令はいっこうに実行された気配もなく、かと言って頼房さんがとがめる様子もなく、何を考えてんだか・・・って感じです。

そんなにたくさん子供がいたら、のちのち後継者争いになるかと思いきや、よく考えたら正室なしの全員側室の子供。

当時の“武家諸法度”の決まりで、全員側室の子供の場合は、幕府が会議で後継者を決める事になっていたので、モメる事無く・・・で、たくさんの息子たちの中から選ばれたのが光圀さん、そして第二代・水戸藩主となるのです。

しかし、この光圀さんも、父親に負けず劣らずの不良少年で、若い時には、町の不良たちとつるんではエロ話に興じたり、刀を振り回して暴れたりしていましたが、18歳の時に、司馬遷“史記”の中の伯夷伝を読んで大感動!

一発で心境の変化を起こし「人に感動を与えるのは歴史だ~!」『大日本史』の編さんを決意するのです。(10月29日参照>>)

この『大日本史・編さんプロジェクト』のスタッフの中にいた安積覚兵衛澹泊佐々木介三郎宗淳の二人が助さん・格さんのモデルだろうと言われています。

覚兵衛さんは執筆活動を中心に、介三郎さんは史料収集のため諸国歩きの外回り・・・この介三郎さんの行動が、漫遊記の原点になっているようです。
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コメント

先日書いたかもしれませんが、今月の朝日新聞夕刊コラム連載で「黄門様が行く」と言う物がありました。
テレビ時代劇「水戸黄門」も今年40周年。
光国(「則天文字」のくにが出ません)は生い立ちが影響したのか、この時代の殿様にしては子供が少なかった様です。

現在の徳川宗家+御三家末裔のうち、紀州家がなくなる可能性がある(現当主が男系女性で一門から養子を取らないと断絶)らしいです。週刊誌によると宗家も「お世継ぎ」が外国人の「奥方」を取って、徳川一門で大騒動になったとか…。でも、勝海舟もアメリカ人女性を息子の妻に迎えたのですが。

投稿: えびすこ | 2009年11月28日 (土) 13時37分

えびすこさん、こんばんは~

>外国人の「奥方」を取って、徳川一門で大騒動・・・

このまま少子化が続けば、あと1000年後には日本人はいなくなるので、そんな心配もなくなってしまうのかと思うと複雑です。

投稿: 茶々 | 2009年11月28日 (土) 17時01分

「水戸黄門」の助格・新コンビが決まりました。的場浩司さんと東幹久さんです。
ただ、年齢的には現職と「世代交代」にはならないので、やや新鮮味に欠ける(平たく言うと逆サプライズ)配役ですね。私は30歳以下の若手俳優の起用(10年くらい任せられる人)を予想していたので。大河ドラマの経験を買ったのでしょうか?由美かおるさんが今期で引退するので寂しいです。

水戸黄門こと徳川光圀が思春期(いまや死語)に素行不良だったのは、自分が兄を差し置いて(上記のとおりに協議によって)世継ぎになったために、負い目を感じていたらしいです。
自分が素行不良なら兄が世継ぎになれると考えたらしいです。

投稿: えびすこ | 2010年5月15日 (土) 09時19分

えびすこさん、こんばんは~

このブログの内容とは関係ないので、失礼ながら排除させていただいていますが、未だに、由美かおるさんの入浴シーンで、胸が見えたの見えないのという内容のTBが、時々送られてきて、由美かおるさんのスゴさを痛感しています。

あの年齢で、そのような話題がニュースとなるとはw(゚o゚)w
ウラヤマシイ限りです。

投稿: 茶々 | 2010年5月16日 (日) 01時46分

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